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普通の休日が、終わる日

目が覚めたのは、昼の十二時を少し過ぎた頃だった。

田中悠は天井を見つめたまま、しばらく動かなかった。

別にどこか具合が悪いわけじゃない。ただ、起きる理由が見当たらなかっただけだ。

社会人になって三ヶ月。仕事は……まあ、なんとかなっている。

そういえば昨日も、部署全体の会議で居眠りをしてしまった。気がついたら自分の番だった。資料は読んでいない。内容も覚えていない。隣の同期が青い顔で肘をつついてくるのを感じながら、悠は立ち上がった。そして、なんとなく思ったことをそのまま口にした。

「この案件、もっとシンプルに考えた方がいいと思います。複雑にしすぎると現場が混乱する」

会議室が静まり返った。上司がじっと悠を見た。

「……田中、それは正しい。皆も聞いたか」

後で同期に「お前何者だよ」と言われた。悠自身も何を言ったのかよく覚えていなかった。

なんとかなっている、はずだ。上司に怒られる回数は同期の中でもトップクラスだが、クビにはなっていない。それだけで十分じゃないか、と悠は本気で思っていた。

「……腹減ったな」

起きた理由は結局それだった。

冷蔵庫を開けると、中身は缶ビール二本とコンビニのプリンが一個。昨日買ったはずの食パンはどこを探してもなかった。食べた記憶はないが、まあそういうこともある。

仕方なく着替えて外に出ることにした。財布の中身は三千二百円。給料日まであと六日。

「デパートでも行くか」

特に理由はなかった。ただ、なんとなく。田中悠の行動理由なんて、いつもそんなものだった。

靴を履きながら、ふと思った。

「今日は唐揚げにしよう」

地下のフードコートに、揚げたてを出す店がある。前を通るたびに気になっていたが、なんとなく後回しにしていた。今日こそ食べる番だ。

そう決めた瞬間、少しだけ足取りが軽くなった。


駅前のデパートは、休日らしく人で賑わっていた。

悠は人混みをぼんやりと歩きながら、地下のフードコートを目指していた。目的はただ一つ、安くて腹が膨れるものを食べること。それだけだ。

エスカレーターを降りようとしたところで、妙な人だかりに気がついた。

一階のイベントスペースが、いつもより華やかに飾り付けられている。警備員の数も明らかに多い。スーツを着た男たちが耳にイヤホンをつけて、忙しそうに周囲を見回していた。

「なんかあんのか」

近くにいたおばさんに聞くと、嬉しそうに教えてくれた。

「天宮グループのお嬢様がいらっしゃってるのよ!慈善イベントで!」

天宮グループ。その名前は悠でも知っていた。国内有数の財閥で、不動産、金融、医療と、あらゆる分野に手を伸ばしている超大企業だ。そのトップの娘が、このデパートに来ている。

「へえ」

悠の感想はそれだけだった。腹が減っていたし、お嬢様より唐揚げの方が今は大事だった。

そのまま通り過ぎようとした、その時だった。

人だかりの中心に、一瞬だけ人影が見えた。

白いワンピースを着た、黒髪の少女。遠目からでもわかるほど整った顔立ち。周囲の華やかさに溶け込むような、それでいて自然と目を引く存在感。笑顔で子供たちと話しているその姿は、まるでそこだけ光が違うみたいだった。

思わず足が止まった。

「……綺麗だな」

思ったことがそのまま口から出た。我ながら語彙力がないと思ったが、それ以外の言葉が見つからなかった。

それが、天宮咲耶との最初の出会いだった。


結局、唐揚げにはありつけなかった。

フードコートまであと数メートルというところで、背後が急に騒がしくなった。悲鳴、怒号、そして複数の足音。

振り返った瞬間、悠は息を呑んだ。

黒いローブに金の刺繍が入った服を着た男たちが、さっきのお嬢様を取り囲んでいた。護衛らしき男たちが抵抗しようとしているが、数で圧倒されている。周囲の客たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていく。怒号と悲鳴が混ざり合い、デパートの華やかな空間が一瞬で修羅場に変わった。

教団員たちは日本語を話さなかった。

聞いたことのない言語だった。ヨーロッパ系でもアジア系でもない。どこの国の言葉なのか見当もつかない。ただ、その言葉の中に一つだけ、はっきりと聞き取れる単語があった。

「……オルフェウス?」

思わず呟いた。意味はわからない。でもその単語だけが、やたらと耳に残った。

逃げればよかった。普段の悠なら確実にそうしていた。

しかし気がついたら、悠は柱の陰に隠れていた。

教団員たちがお嬢様を囲んで、出口に向かって移動しようとしている。このまま連れ去られたら終わりだ。

(……どうする)

逃げろ、と頭の中の自分が言った。

でも足が、またしても言うことを聞かなかった。

悠はそっと柱の陰から出て、教団員たちの背後に回り込もうとした。足音を立てないように、慎重に、慎重に――

つまづいた。

(あっ)

声は出なかった。でも体は止まらなかった。前のめりに倒れた悠は、教団員の一人に激突した。その教団員が隣の教団員を巻き込んで、ドミノのように三人が折り重なって倒れた。

一瞬の静寂。

「走ってください!」

悠が叫んだ。

女の子が目を丸くした。でも次の瞬間には走り出していた。悠も立ち上がって女の子の手を掴んだ。

二人は走った。でも出口は教団員たちに塞がれていた。追い詰められて、逃げ場がなくなった。

壁を背にして、四方から教団員たちが迫ってくる。銃口がこちらを向いていた。

(……終わった)

悠がそう思った瞬間、隣の女の子が前に一歩踏み出した。

「待ってください」

声は、驚くほど落ち着いていた。

教団員たちが動きを止めた。

「私は大人しく従います。ですからこの方だけは助けてください。この方は今日たまたま巻き込まれただけの、何も関係のない人間です」

教団員の一人が異国の言葉で何かを叫んだ。まるで「ならさっさと来い」とでも言っているような響きだった。

しかし女の子は続けた。

「もし断るというのなら――」

女の子はゆっくりと口を開けた。

「舌を噛んで死にます」

場の空気が、凍りついた。

「それと」女の子は悠をちらりと見てから、教団員たちに視線を戻した。「この方を一人残せば、どこかに隠れて始末しそうな方々に見えます。ですから一緒に連れて行ってください。そうすれば私は大人しく従います」

(……お嬢様、さらっとひどいこと言ってるな)

悠は心の中でツッコんだ。

教団員たちが異国の言葉でざわめいた。

「もちろん、断るというのなら――」

女の子はもう一度ゆっくりと口を開けた。

「舌を噛んで死にます」

その時、奥から一人の男が進み出た。

黒いローブの集団の中で、その男だけが赤いローブを纏っていた。背が高く、フードを深く被っているため顔は見えない。ただ、男が一歩踏み出しただけで、周囲の空気が変わった。

教団員たちが一斉に黙った。

赤いローブの男は低い声で、異国の言葉を一言だけ発した。まるで「連れていけ」とでも言っているような、静かで重い響きだった。

部下たちは一瞬で動き出し、悠と女の子を拘束し始めた。

女の子はほっとした顔をした。そしておもむろに口を開いた。

「……べぇ」

小さく、可愛らしく、舌を出した。

悠は固まった。

教団員たちも固まった。

赤いローブの男ですら、一瞬だけ動きが止まった気がした。

(……銃を持った狂信者集団を交渉で黙らせて、最後に舌を出すお嬢様って何者なんだ)

口には出さなかった。なんとなく、言ってはいけない気がした。

そのまま二人は乱暴に車に押し込まれた。

エンジンが唸り、車が動き出した。窓の外でデパートが遠ざかっていく。

悠は荒い息をつきながら、隣に座らされた女の子をちらりと見た。

女の子は背筋を伸ばして、まるで送迎車にでも乗っているような顔をしていた。

(……銃を持った狂信者集団を前に、交渉して、舌を出して、今は澄ました顔で座っている)

悠はゆっくりと前を向いた。

(……俺、とんでもない人に関わってしまったかもしれない)

しばらくして、女の子が小声で言った。

「落ち着いて聞いてください」

「はい」

「私の腕時計にGPSが入っています。護衛たちが必ず場所を特定して助けに来てくれます」

悠は女の子の手首を見た。拘束されたままの細い手首に、上品な腕時計がはまっていた。

「……なんでそんなものを」

「天宮家の女性は外出時に必ず着けるよう言われているんです」女の子は少し誇らしそうに言った。「護衛たちは世界最強クラスですから、必ず来ます」

悠は小さく息を吐いた。

「……それは助かりますね」

「ええ。ですから、もう少しだけ辛抱してください」

女の子は静かに、しかし確信を持った目でそう言った。

悠はその横顔を見ながら思った。

お嬢様って、こんな状況でも落ち着いてるんだな。

そして。

やっぱり腹減った。


気がついたら、薄暗い部屋の中にいた。

埃っぽい匂い。割れたガラス窓から差し込む西日。壁には落書き。廃墟だ、とすぐにわかった。

頭が痛い。後頭部を触ると、しっかりとタンコブができていた。ロープで両手を縛られている。

隣を見ると女の子がいた。同じようにロープで縛られて、膝を揃えて座り、心配そうにこちらを見ている。埃だらけの廃墟の中でも、なぜか様になっていた。

「あの……大丈夫ですか?」

悠はしばらく彼女を見つめてから、おもむろに口を開いた。

「……腹減った」

沈黙が流れた。

女の子がぱちぱちと瞬きをした。

「え?」

「いや、フードコート行く直前に捕まったんで。唐揚げ食べ損ねて」

「…………」

「あ、すみません。状況無視した発言でしたね」

「い、いえ……」女の子は少し呆気に取られた顔をしてから、くすりと笑った。「少し、緊張がほぐれました」

悠は頭を掻いた。

「田中悠です。普通の会社員です。お嬢様を助けようとして失敗した人です」

「天宮咲耶と申します」彼女は埃だらけの廃墟の中で、それでも丁寧にお辞儀をした。「助けようとしてくださったこと、ちゃんと伝わっています。ありがとうございます、田中さん」

「いや、結果的に一緒に捕まってるんで、全然助けられてないですけどね」

咲耶はまたくすりと笑った。

「それでも、です」

悠は彼女の笑顔を見て、なんとなく目を逸らした。デパートで遠目に見た時も思ったが、近くで見るとさらに整った顔をしている。こんな状況でなければ、もう少しまともな反応ができたかもしれない。

しばらく沈黙が続いた。廃墟に流れる風の音だけが聞こえる。

「あの」と咲耶が口を開いた。

「なんですか」

「唐揚げというのは……デパートの地下のフードコートのものですか?」

「え、そうですけど」

「実は私も、少し気になっていたんです。慈善イベントの前にスタッフの方が食べていて、とても良い香りがしたので」

悠は少し目を丸くした。

「お嬢様って、唐揚げ食べたことないんですか」

「ないんです」咲耶は少し恥ずかしそうに視線を落とした。「いつも食事はコース料理で……フードコートというところにも行ったことがなくて」

「……じゃあ、これが解決したら一緒に食べに行きますか」

言ってから、悠は少し後悔した。誘拐されている状況でなんて誘いをしているんだ、と。

しかし咲耶は、ぱっと顔を明るくした。

「本当ですか?ぜひ」

悠はその笑顔を見て、なんとなく目を逸らした。

お嬢様って、こんな状況でも笑えるんだな。

そして。

やっぱり腹減った。


待つこと、およそ三十分。

悠の腹が二回鳴った。

一回目。咲耶は聞こえないふりをしてくれた。

二回目。咲耶は少し考えてから、おもむろに口を開いた。

「ぐぅー」

「…………」

「その、聞こえていないということにしようかと思ったのですが、二回目なので……ごまかそうと思いまして」

「お嬢様、それ全然ごまかせてないですよ」

「そうですか」咲耶は少し首を傾けた。「では、ぐぅーぐぅー、というのはどうでしょう」

「もっとひどくなってます」

咲耶はしばらく考えてから、小さく「失礼しました」と言った。

悠は思わず笑った。誘拐されている状況で笑ったのは初めてだった。

部屋の入口には見張りの男が一人立っていた。黒いローブを着て、銃を持ち、腕を組んでいる。しかし目が、おかしかった。白目が多く、焦点が合っていない。口の端からよだれが垂れていた。時折、意味不明な異国の言葉を呟いている。

しばらくして、咲耶がその男に向かって静かに口を開いた。

「あの……お仕事、ご苦労様です」

穏やかな声だった。まるで使用人に声をかけるような、自然な丁寧さだった。

悠は咲耶を見た。それから見張りを見た。

目がガン開きで、よだれを垂らし、壁に向かってぶつぶつ異国の言葉を呟いている男に、お嬢様が礼儀正しく声をかけていた。

(……相手は完全にやばい奴だぞ。なんで普通に挨拶してるんだ、この人は)

見張りの男は咲耶を見て、それからにたりと笑った。悠は鳥肌が立った。

しばらくして、廃墟の扉が開いた。

入ってきたのは赤いローブの男だった。

手に、古びた聖杯を持っていた。中に液体が入っている。何かはわからない。でも見た瞬間に、本能的に感じた。

(……あれ、やばい)

赤いローブの男はゆっくりと悠に近づいてきた。低い笑い声が廃墟に響く。

「ふぇぇはあは……」

(……笑い方までやばい)

悠は壁に背中をぴったりつけた。ロープで縛られた手が、じりじりと汗ばむ。咲耶も隣で息を呑んでいるのがわかった。

男がさらに一歩踏み出した。聖杯を悠の口元に近づけようとした、その瞬間だった。

「咲耶様!」

建物の外から声が響いた。続いて複数の足音が階段を駆け上がってくる音がした。

男の動きが止まった。

フードの奥の目が素早く動いた。扉を見た。窓を見た。悠を見た。そしてもう一度扉を見た。足音はどんどん近づいてくる。一人じゃない。複数だ。

男は短く異国の言葉を吐いた。まるで「また今度だ」とでも言っているような響きだった。

次の瞬間、男は踵を返して廃墟の窓から飛び出した。

まるで最初からいなかったかのように、消えた。

悠は息を吐いた。

(……間一髪だった)

聖杯は床に転がっていた。中の液体が、廃墟の床にゆっくりと染み込んでいった。

その直後、ドアが蹴破られ、黒スーツの男たちが雪崩れ込んできた。護衛だ。全員が拳銃を構え、素早く室内を確認していく。プロの動きだった。

「お怪我はありませんか」

先頭の男が咲耶に駆け寄る。

「はい、この方が守ってくださいました」

咲耶が悠を示すと、護衛の男は一瞬だけ悠を見た。頭のてっぺんから足の先まで品定めするような視線だったが、すぐに部下に向かって短く指示を出した。

別の護衛が素早く近づいてきて、悠のロープをナイフで切った。次に咲耶のロープも切る。

悠は両手をゆっくりと前に出した。手首に赤い跡が残っていた。じんじんと痛い。でも自由になった。

「ご協力感謝します」

先頭の護衛が短く言った。

廃墟の各所で、護衛たちと教団の男たちの間に緊張が走った。怒号が飛び交い、銃口が向き合い、一触即発の空気が漂う。

悠は思わず咲耶に囁いた。

「……大丈夫ですかね、これ」

咲耶は小さく力こぶを作るポーズをしながら、誇らしそうに囁き返した。

「大丈夫ですよ。護衛たちは世界最強クラスなんです」

悠は護衛たちを見た。それから咲耶を見た。

埃だらけの廃墟で、緊張した場面に、お嬢様が力こぶを作っていた。

(……シュールすぎる)

口には出さなかった。なんとなく、言ってはいけない気がした。

護衛たちの動きは、確かに別次元だった。

銃声のたびに心臓が跳ね上がる。誰かが倒れるたびに息を呑む。でも倒れているのは教団の男たちだけだった。護衛の一人が教団員の腕を掴んだと思った次の瞬間には、相手が床に叩きつけられていた。音が、した。かなり、した。

(な、なんか映画で見たやつだ……CQCってやつか?近接格闘?)

悠は壁に背中をぴったりつけたまま、動けなかった。怖いとかじゃない。いや、怖い。普通に怖い。

教団の男たちは次々と取り押さえられ、床に伏せさせられていく。数分もしないうちに、廃墟の中は静寂を取り戻した。

「終わった……」

悠は思わず息を吐いた。膝が笑っていた。これが普通の反応だと思った。

「田中さん」咲耶が振り返り、深々と頭を下げた。「本当にありがとうございました。デパートでも、ここでも、そばにいてくださって」

「いや、ほとんど何もしてないですよ。一緒に捕まっただけで」

「それでも」咲耶はまっすぐ悠を見た。「一人じゃなかったことが、心強かったです」

悠は返す言葉が見つからなかった。

唐揚げの約束、ちゃんと果たさないとな。

そんなことを思った。

その時だった。

床に倒れていた男が、ゆっくりと体を起こした。

護衛たちの注意が咲耶に向いていた、その一瞬の隙だった。男の手には、いつの間にか銃が握られていた。死んだふりをしていたのだ。

銃口が向いていたのは、咲耶だった。

男の口元が、ゆっくりと動いた。

「ヴェルカ・オルフェウス・アルテム」

時間が、ゆっくりになった気がした。

言葉の意味はわからない。でもその中に、あの単語が聞こえた。

オルフェウス。

護衛たちが気づいて動き出す。でも間に合わない。咲耶は気づいていない。さっきフードコートで唐揚げを食べる約束をしたお嬢様が、笑ったままそこに立っている。

悠の体は、頭より先に動いていた。

咲耶の前に飛び出した。

乾いた銃声が、廃墟に響いた。

「田中さん……?」

咲耶の声が、遠くなっていく。

悠は床に倒れながら、妙に冷静なことを考えていた。

唐揚げ、食べたかったな。

約束、守れなくてすみません。

視界が、暗くなった。


次に気がついた時、悠は水の中にいた。

冷たい。とにかく冷たい。

何が起きているのか理解する前に、体が勝手に動いていた。手足をばたつかせて、水面に向かって必死にもがく。顔が水面に出た瞬間、肺に空気が流れ込んできた。

「ごぼっ、はっ……っ!」

みっともない声が出た。でもそんなことを気にしている余裕はなかった。

必死に周囲を見回しながら、岸を目指して泳いだ。草が生い茂る岸に手をついて、全身でよじ登る。泥だらけになりながら地面に倒れ込んで、しばらくそのままゼエゼエと息をした。

死にかけた。溺れかけた。銃で撃たれた後に溺れかけた。踏んだり蹴ったりにもほどがある。

ようやく息が整ってきたところで、悠はゆっくりと体を起こした。

湖だった。どこまでも広い、静かな湖。水面が夕日を反射して、オレンジ色に輝いている。その色が、少しおかしかった。夕日にしては赤すぎる。空の色も、どこか濃すぎる。

立ち上がって周囲を見渡すと、見たこともない森が広がっていた。木の幹が白く、葉が青みがかっている。鳥の鳴き声が聞こえるが、聞いたことのない音だった。遠くに山が見える。その稜線の形も、どこか違う。

ここは日本じゃない。

いや、地球ですらないかもしれない。

「……俺、死んだよな」

独り言だった。

銃で撃たれた。痛かった。咲耶の声が遠くなっていくのを感じた。それで確かに意識が途切れた。

なのに今、自分はびしょ濡れで湖のほとりに立っている。

悠はしばらく突っ立ったまま、頭の中を整理しようとした。でも整理できるような情報が何もなかった。わかることといえば、ここが見知らぬ場所で、自分がびしょ濡れで、そして腹が減っているということだけだった。

「……唐揚げ、食いたい」

とりあえず、誰かを探さないといけない。ここがどこかもわからない。言葉が通じるかもわからない。でもこのまま一人でいても何も始まらない。

そう思って周囲を見回した時、悠はようやく気がついた。

岸のすぐそば、水面から数メートルのところに、人影があった。

金色の髪が、夕日に照らされて輝いていた。細い肩。白い肌。水面から上半身が出ていて、その姿は――

悠の思考が、一瞬止まった。

(……水浴び、してる)

それだけじゃなかった。髪の間から、細長く尖った耳がのぞいていた。

次の瞬間、金色の髪の少女がこちらを向いた。

エメラルドグリーンの瞳が、大きく見開かれた。

悠は咄嗟に両手を上げた。

「まっ、待て。驚くのはわかる。十分わかる。どうか落ち着いてほしい。なぜならば――」

一呼吸置いた。

「驚くのは、自分だけで十分だからだ!」

「きゃあああああっ!!」

湖に響き渡る絶叫と同時に、少女が手をかざした。

次の瞬間、強烈な突風が悠を直撃した。

「うわっ!」

体が宙を舞った。視界がぐるりと回って、空が見えた。木が見えた。そして草むらが顔に迫ってきた。

顔面から突っ込んだ。

頬に草が刺さっていた。口の中に土の味がした。全身がじんじんしていた。

(……今のって、もしかして魔法か?)

ゆっくりと顔を上げようとした。でも体が言うことを聞かなかった。

そういえば今日、銃で撃たれて死んで、湖に落ちて溺れかけた。

我ながら、よく動いていたと思う。

視界が、じわじわと暗くなっていった。

(……腹、減ったな)

意識が、途切れた。










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