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奇跡の花が、枯れる日

旅立ちの朝は、よく晴れていた。

数日のうちに、悠の準備は整った。マルクが古い剣を一振り譲ってくれた。村の女たちが、日持ちのするパンと干し肉を持たせてくれた。荷物運びの兄ちゃんは、自分の外套を「餞別だ」と押しつけてきた。少し汗くさかったが、文句は言えなかった。

村の外れに、王都へ向かう乗合馬車が停まっていた。その荷台の脇で、恰幅のいい中年の男が、マルクと旧友のように笑い合っていた。

「ユウ」マルクが、悠を手招きした。「紹介しておこう。こいつはザック。昔から、この村に出入りしてる行商人だ。腐れ縁でな、もう二十年来の付き合いになる」

「ザックだ。よろしくな、兄ちゃん」

男は、大きな手で、悠の手を握った。声が大きく、よく笑う、人懐っこい男だった。

「王都まで、こいつと同じ馬車だ」マルクが言った。「ザックは顔が広い。道中も、王都に着いてからも、何かあったら頼るといい」

「おう、任しときな! マルクの世話になってる若いのとあっちゃ、他人とは思えねえ」

ザックは、がはは、と笑った。

マルクが、悠の肩を、ぽんと叩いた。

「気をつけて行け。困った時は、いつでも帰ってこい。ここは、お前の家だ」

「……ありがとう。本当に」

悠は、深く頭を下げた。それから、クレアの姿を探した。

いない。

「クレアは?」

マルクが、困ったように笑った。

「朝から、見当たらん」

「……そっか」

少し、寂しかった。でも、クレアらしいといえば、らしかった。

悠は馬車に乗り込んだ。御者が手綱を鳴らし、馬車が、ゆっくりと動き出す。

村が、遠ざかっていく。

ふと、丘を見上げた。

朝日を背に、人影が一つ。白銀の髪が、風に揺れていた。

クレアだった。

声もかけない。手も振らない。ただ、立って、見ている。

悠は、馬車の上から、大きく手を振った。

クレアは、動かなかった。しばらくして——ほんの少しだけ、片手が、上がった。

それだけだった。すぐに下ろされた。でも、確かに、振り返してくれた。

悠は笑って、前を向いた。

(……不器用な奴)

胸の奥が、少し温かくて、少し痛かった。

馬車が動き出して、小一時間ほど。

「兄ちゃん、王都は初めてだろ?」

ザックが、待ってましたとばかりに、話しかけてきた。そこからは、もう、止まらなかった。

王都がどれほど大きいか。城があり、騎士団があり、魔法学校があり、世界中の品が並ぶ市場があること。聞いているだけで、悠の知らない世界が、どんどん広がっていく。

「俺はな、商売であちこち回ってんだ。北のほうにゃ、ヴァンパイアの里がある。昼間は、まず会えん連中さ。東の山にゃ、ドワーフ。頑固で気難しいが、あいつらの鍛えた剣は、そりゃあ業物でね」

「……色んな種族が、いるんですね」

「おう。エルフだのなんだの、それぞれ里を構えてる。人間とは、あんまり仲良くないのが多いがな」

悠は、湖のエルフを思い出した。でも、それは口にしなかった。

世界は、こんなにも広い。死んで飛ばされた、見ず知らずの世界。それでも、まだ見ぬ場所が、こんなにある。悠は、少しだけ、わくわくした。

ひとしきり喋って、ザックが、ふと、口をつぐんだ。

「……ん?」

荷台から、身を乗り出している。眉を、ひそめていた。

悠も、つられて、外を見た。

街道の脇の森から、鳥の群れが、一斉に飛び立っていた。それだけじゃない。鹿が、兎が、何か小さな獣たちが、森から転がり出るようにして、街道を横切り、反対側へと逃げていく。

「妙だな」ザックの声が、低くなった。「獣がこんな逃げ方するのは……よっぽどでかい何かに、追われてる時だ」

その時だった。

風に乗って、音が、届いた。

遠く、けたたましく打ち鳴らされる——鐘の音。

悠の、全身が、凍りついた。

その音を、知っていた。半年、あの村で暮らした。火事でも、祭りでもない。あれは——緊急を報せる、鐘だ。村が、ただ事じゃない時にだけ、鳴らす。

「……鐘だ」悠は、掠れた声で言った。「村の、緊急の鐘だ」

ザックの顔が、強張った。

「おい、まさか——」

悠は、立ち上がって、来た道を振り返った。

村の方角の空が。黒く、煙っていた。

心臓が、早鐘を打つ。

(……村が。みんなが)

「止めてくれ!」悠は御者に叫んだ。「降りる! 戻る!」

「正気か!?」御者が振り返る。「あんた一人が戻って、どうなる。素人だろう。犬死にだ」

御者は、まくし立てた。

「いいか、こういう時は、王都に急ぐんだ。騎士団に報せて、ギルドに討伐を頼む。それが、村を救う、一番確かな手だろうが!」

正論だった。ぐうの音も出ない、正論だった。

でも。

「……間に合わない」悠は、言った。「王都まで、何日かかる。騎士団が来る頃には、村は、もう——」

御者が、言葉に、詰まった。

悠は、馬車から飛び降りた。だが——足元を見て、絶望した。走って、戻る? この距離を? 間に合うわけがない。

その時。

「——待ちな、ユウ!」

ザックだった。荷馬車に繋いだ二頭のうち、一頭の馬を、手早く外している。

「ザックさん、それ……」

「乗れ! 走って戻る気か、馬鹿が! こいつで行きな!」

「で、でも、俺、馬なんて……」

「うるせえ、しがみついてりゃ走る! 行くなら今だ!」

悠は、ためらわなかった。馬に飛び乗る。鞍の上は、思っていたより、ずっと高くて、不安定だった。

(怖っ。これ、乗れてない。完全に、しがみついてるだけだ)

「ザックさん! この恩は——」

「いいから行け! ……死ぬんじゃねえぞ!」ザックが、馬の尻を、思い切り叩いた。「世界は、広いようで狭いんだ! また、どっかで会おうや!」

馬が、嘶いて、駆け出した。

悠は、振り落とされそうになりながら、必死に、たてがみにしがみついた。乗りこなすなんて、とてもできない。ただ、村の方へ——煙の方へ、馬を走らせることしか、できなかった。

風が、頬を切る。鐘の音が、近づいてくる。

(……間に合ってくれ。頼むから、間に合ってくれ!)

——その頃、村では。

最初に異変に気づいたのは、見張りの男だった。

森の奥から、地鳴りのような足音。木々が、なぎ倒されていく音。そして——黒い巨体が、姿を現した。

人間の倍以上の背丈。闇のような肌。ぎらつく赤い目。

鐘が打ち鳴らされ、村は騒然となった。逃げ惑う人々。泣き叫ぶ子供。

化け物が、手近な家へ、腕を叩きつけた。木材が砕け、屋根が崩れ落ちる。その下で、昼餉の支度をしていたかまどが、ひしゃげて倒れた。

撒き散らされた炭火が、乾いた藁や、倒れた家財に、燃え移る。火は、瞬く間に、隣の家へと、広がっていった。化け物が一暴れするたび、新たな火種が散り、村は、見る間に、火の海になっていく。

その中を、一人、逆らって進む影があった。

クレアだった。

剣を抜き、まっすぐ、化け物へと向かっていく。

「クレア!」マルクが叫んだ。「よせ! 相手を見ろ!」

クレアは、足を止めなかった。

「逃げる時間を、稼ぐ。マルクは、村のみんなを」

言い終わるより早く、その体が、淡く光った。身体強化。次の瞬間、姿が掻き消える。

化け物の懐に、潜り込んでいた。

一閃。

黒い脚に、深々と、刃が食い込んだ。黒い血が、噴き出す。

(——斬れる!)

手応えが、あった。巨体ゆえ、皮膚も鎧のように硬いかと身構えていた。だが、刃は通る。

(脚を狙って、動きを削ぐ。血を流させ続ければ、いずれ動きは鈍る。そこを、急所まで斬り込む。——やれる)

勝ち筋は、見えた。クレアは、地を蹴った。

化け物が、咆哮を上げた。

クレアは止まらない。地を蹴り、跳び、斬る。腕。脇腹。膝の裏。一撃ごとに、黒い血が舞う。確かに、斬れている。深い。普通の魔物なら、とうに倒れている傷だ。

背後で、マルクが村人たちを逃がしているのが、気配でわかる。泣き叫ぶ子供を抱え、年寄りの手を引き、必死に裏手へと誘導している。

(——マルク。みんなを、頼む。ここは、私が)

膝の裏を、深く斬り裂いた。化け物の巨体が、ぐらりと傾ぎ、片膝をつく。

今だ。

クレアは、その胸めがけて、渾身の刺突を放った。刃が、深々と、突き刺さる。手応えは、あった。

——だが。

化け物の赤い目が、ぎょろりと、動いた。刺さった剣を、意にも介さず。痛みなど、まるで感じていないかのように。

咆哮一つ。化け物が、立ち上がった。

「……っ」

クレアの顔から、血の気が引いた。

斬った。血を流させた。深い傷を、いくつも負わせた。膝まで、つかせた。なのに——化け物は、何も、失っていなかった。

痛覚はある。一瞬は、怯む。でも、それだけだ。あの巨体を、あの力を、削るには、人間の刃は、あまりにも小さすぎた。

「……嘘、だろう」

それからは、防戦一方だった。斬る。避ける。また斬る。手数では勝っている。化け物の体は、もう無数の傷で黒く濡れている。でも、止まらない。そして、人間の方が、先に限界が来る。

身体強化の光が、明滅し始めた。魔力が、尽きかけている。

(——まだだ。ここで、退けるか)

歯を、食いしばる。今、自分が退けば、逃げる村人に、化け物が向かう。負けるわけには、いかない。倒れるわけには、いかない。

——その頃、悠は。

村まで、あと少しだった。

煙が、すぐそこまで近づいている。爆ぜる火の音。崩れる家の音。そして、聞いたこともない、地を揺るがす咆哮。

馬が、怯えて、嘶いた。火と、血の匂いを嫌がって、前に進もうとしない。

「頼む、行ってくれ! あと少しだ!」

だが、村の入口まで来たところで、馬は棹立ちになり、悠を振り落とした。

地面に、したたかに体を打ちつける。

「……っ、痛ぅ」

(馬から落ちて死にかけるとか。村にたどり着く前に、何やってんだ、俺は)

それでも、立ち上がった。馬は、もう戻ってこない。ここからは、自分の足だ。

悠は、燃える村の中へ、駆け込んだ。

——村では。

「クレア! 村のもんは、みんな逃がした!」

マルクの声だった。両手をかざし、化け物の顔めがけて、炎の塊を放つ。化け物が、顔をかばって、たたらを踏んだ。

「ここからは——わしらも、戦う!」

マルクだけではなかった。動ける村の男たちが、得物を手に、駆けつけてくる。鍬。斧。狩りの弓。荷物運びの兄ちゃんまで、青い顔で、それでも農具を構えていた。

「村長一人に、戦わせてられっか!」

「ここは、俺たちの村だ! 出ていけ、化けもん!」

矢が刺さる。斧が打ち込まれる。マルクの炎が、化け物を炙る。

(——みんな)

クレアの胸に、熱いものが込み上げた。一人じゃ、ない。みんなで——

だが。

化け物は、咆哮一つで、その包囲を、力ずくでなぎ払った。

腕の一振りで、村の男たちが、藁人形のように吹き飛ぶ。矢も、斧も、炎も、あの巨体の前では、羽虫がたかる程度の意味しか、持たなかった。

傷は、増えていく。血も、流れ続けている。なのに、化け物の力は、一向に、衰えない。

(……効いて、いない。これだけやって、まだ——)

化け物の赤い目が、なぎ払われて倒れた男たちの一人を——荷物運びの兄ちゃんを、捉えた。

さっきの一振りで、したたかに体を打ったのだろう。すぐには、起き上がれないでいる。化け物が、その兄ちゃんめがけて、巨大な腕を、振り上げた。

「——っ、まずい!」

クレアは、考えるより先に、地を蹴っていた。残った魔力を、すべて脚に込めて。

兄ちゃんの前に、滑り込む。化け物の腕が、振り下ろされる。

クレアは、剣で受けた。

受けきれる、重さではなかった。

体が、宙を舞った。地面に、何度も叩きつけられ、転がる。剣が、手から離れて、遠くへ飛んでいく。

「クレア!」マルクの、悲鳴のような声。

クレアは、立ち上がろうとした。だが、体が、言うことを聞かない。腕も、脚も、痺れて、力が入らない。魔力も、もう、ほとんど残っていない。

霞む視界の中、化け物が、ゆっくりと、近づいてくるのが見えた。

赤い目が、見下ろしている。倒れた、自分を。巨大な腕が、振り上げられた。

(……ああ)

クレアは、思った。

(……父さん、母さんと、同じだ)

あの時も、こうだった。目の前で、大切なものが奪われて。何も、できなくて。

そう、諦めかけた——その時だった。

「うわあああああ!」

聞き覚えのある、間抜けな叫び声がした。

化け物の脚に、横から、剣が、突き立てられた。

通りはしない。皮膚が硬すぎる。切っ先が、わずかに食い込んだだけ。でも、その一瞬、化け物の動きが、止まった。

赤い目が、振り下ろそうとした腕を止め、新たな闖入者へと向く。

クレアは、信じられないものを見た。

肩で息をして、汗だくで、震える手で、マルクのくれた剣を握った、見慣れた背中。

「……ユウ?」

掠れた声が、漏れた。

「なんで……お前、王都に、行ったはずじゃ……」

悠は、化け物を見上げて、ありったけの声で、叫んだ。

「クレア! 立てるか!?」

悠は、脚に突き立てた剣から、手を離した。斬れないとわかった以上、握っていても、仕方がない。

足元の石を、一つ、拾い上げる。化け物めがけて、力いっぱい、投げつけた。

その石が、化け物の、ぎらつく赤い目に、まっすぐ、めり込んだ。

ぐしゃり、と、嫌な音がした。

眼球が潰れ、黒い体液が、どろりと溢れ出す。化け物が、頭をのけぞらせ、これまでとはまるで違う、甲高い絶叫を上げた。脚を斬られても、炎で炙られても、びくともしなかった巨体が——たった一つの石礫に、のたうっている。

柔らかい目玉だけは、あの化け物にとっても、急所だった。

「……お。当たった」悠は、思わず、声に出していた。「しかも、目。めちゃくちゃ、いい所に。……なんか、すんません」

誰にともなく、ぺこりと頭を下げる。

「——ふざけている場合か!」

クレアが、悲鳴のように、叫んだ。

「お前、どうするつもりだ!?」

「さあ?」

悠は、へらりと、笑った。

「でも……たぶん、こうするしか、ないんだ」

化け物の、残った赤い目が、完全に、悠へと向いていた。標的を、悠ひとりに、定めて。

「……よし」

悠は、踵を返して、走り出した。

化け物が、咆哮を上げて、後を追う。地面が、揺れる。二つの影が、村の外へと、遠ざかっていく。

——その様子を、クレアは、地に伏したまま、見ていた。

化け物を引き連れて、駆けていく、頼りない背中。剣も魔法も、まともに使えない男が。自分を、逃がすために。

「……あの、バカ」

掠れた声が、漏れた。

体を、起こそうとする。だが、腕も、脚も、痺れて、動かない。魔力も、底を尽きかけている。

「——マルク! 回復魔法を! 早く!」

クレアは、叫んだ。

マルクが、駆け寄り、クレアの体に、手をかざす。淡い光が、滲む。痺れが、わずかに、引いていく。

クレアは、歯を食いしばって、立ち上がった。まだ、本調子には、程遠い。

(——また、指をくわえて、見ているだけなのか)

あの日と、同じように。

そんなのは——もう、二度と、御免だった。

——悠は、走っていた。

とにかく、村から、遠くへ。みんなのいる場所から、この化け物を、引き剥がす。それだけを、考えて。

(——速い! なんでだよ! そのデカさで、なんでそんなに速いんだ! ルール違反だろ!)

化け物の一歩は、悠の数歩分だ。すぐに、距離が詰まる。背後に、巨大な気配が迫る。

振り下ろされる腕。悠は、横っ飛びに避けた。地面が、抉れる。すぐ脇を、爪がかすめた。

(こっちは生身なんだぞ! ちょっとは空気読んで、もたついてくれ!)

転がるように立ち上がり、また走る。崩れた家の陰に、飛び込む。化け物が、その家ごと、薙ぎ払う。木材が、降り注ぐ。

(……っ、死ぬ。普通に、死ぬ)

恐怖で、足がもつれそうになる。心臓が、口から飛び出しそうだ。

それでも——走った。

何度も、死にかけた。腕が、頬をかすめ、血が流れた。爪が、外套を裂いた。それでも、致命傷だけは、紙一重で、避け続けた。

半年。毎日、クレアの木剣に、叩きのめされた。倒れても、立たされた。あの、理不尽な地獄の日々が——今、悠の体を、動かしていた。

(……クレア。あんたのおかげだ。本当に)

がむしゃらに走って、走って——気づけば、村を、ずいぶん離れていた。木立を抜け、坂を駆け上がり、開けた場所に、飛び出す。

夕暮れの、丘だった。

(……って、ここ)

見覚えが、ありすぎた。あの日、マルクと並んで座った場所。そして、その先は——

深い谷へと、切れ落ちる、崖。

(……うわ。行き止まりじゃないか)

血の気が、引いた。逃げ場が、ない。この先は、崖。背後からは、化け物。

(……やっちまった。完全に、詰んだ)

我ながら、つくづく、間が悪い。最後の最後まで、なんとなくで走って、なんとなく、行き止まりに追い込まれる。本当に、最後まで、こんな感じか。

——いや。

ふと、崖を、振り返った。底の見えない、深さ。

斬っても、焼いても、倒せなかった。あれだけの傷を負わせても、びくともしなかった。だが、この高さから落ちれば、さすがのあいつも、ただじゃ済まないはずだ。

逃げ場のない、行き止まり。それは裏を返せば——倒せなかったあの化け物を、突き落とせる、たった一つの場所でもあった。

(……上手く、あいつだけ突き落として。俺は、その隙に、横へ逃げる)

虫のいい考えだとは、思った。でも、ほかに、手はなかった。

悠は、崖を背にして、化け物に、向き直った。

化け物が、すぐそこに迫っていた。血と傷に塗れ、片目を潰されてなお、その巨体は、少しも衰えていない。残った赤い目が、憎悪に燃えて、悠を睨む。

(……来い)

悠は、崖を背に、立った。心臓が、はち切れそうだった。手も、足も、震えている。死にたくない。本当は、今すぐ、逃げ出したい。

それでも、足を、踏ん張った。

化け物が、咆哮を上げ、突進してきた。

(……っ、引きつけて——今だ!)

悠は、横へ、跳んだ。化け物の突進を、紙一重で躱す。あの巨体だ。勢いは、止まらない。そのまま、崖へ——

いける。そう、思った、その時。

倒れ込みながら振るわれた化け物の腕が、悠の体を、掠めた。

いや、掠めた、では済まなかった。鉤爪が、外套を、がっちりと、掴んでいた。

「——あ」

体が、引っ張られる。崖の方へ。化け物の、巨体と、一緒に。

宙に、放り出された。

落ちていく。風が、唸る。赤い夕日が、ぐるぐると回る。すぐ隣で、化け物が、暴れ、もがいている。

(……あー。やっぱり、こうなるか)

我ながら、最後まで、詰めが甘い。あいつだけ落とすつもりが、結局、道連れだ。

最後に、悠は、思った。

(唐揚げ、結局食えなかったな。……クレアの飯、もう一回、食いたかった)

それから、ほんの少し、笑った。

(でも、まあ。……守れたなら、それでいい)

「ユウ————ッ!!!」

遠くで、クレアの、絶叫が、聞こえた気がした。

それが、最後だった。

クレアが丘の上に駆け上がった、その時。

ちょうど、見えた。化け物にしがみついた悠の体が、崖の向こうへ、消えていくのが。

「————ユウ!!」

考えるより、先に、足が出ていた。崖の縁へ。あの背中を、追って。手を、伸ばして。

このまま、飛び込めば、届く。まだ、間に合う。

「やめろ、クレア!」

背後から、太い腕が、彼女の体を、羽交い締めにした。マルクだった。遅れて駆けつけた村の男たちも、必死にしがみつく。

「離せ! 離してくれ! ユウが! ユウが、落ちて——!」

クレアは、暴れた。身体強化の残り滓を振り絞り、大の男たちを、引きずる。それでも、引き戻される。

「離せって、言ってるだろう!! まだ、間に合う! あいつを、助けに——!」

「やめろ! お前まで、死ぬ気か!」

マルクの、悲痛な叫び。

「あいつは……あいつは、お前を、逃がしたんだ! お前に、生きてほしくて、戻ってきたんだぞ! それを、お前が追って死んだら——あいつの覚悟は、どうなる!」

その言葉に、クレアの動きが、止まった。

全身から、力が、抜けていく。マルクの腕の中で、崩れ落ちる。

崖の下からは、もう、何の音も、しなかった。

その時、ふと。

胸元が、温かかった。服の下に、ずっと忍ばせていた、小瓶。あの男がくれた、奇跡の花。

震える手で、取り出す。

白い花が、淡く、光っていた。咲いている。まだ、咲いている。

「……生き、てる」

すがるように、両手で包んだ。咲いているなら、生きている。落ちても、どこかで、きっと——

願いを、断ち切るように。

花弁の、ふちが、茶色く、滲んだ。

「……っ、嘘、だ」

滲みは、広がっていく。一枚、また一枚。鮮やかな白が、端から、生気を失っていく。

「やめろ。枯れるな。お願いだ……まだ、礼も、言ってない。叩いてばかりで、優しい言葉の、一つも、言えてないのに——!」

両手で、握りしめる。その熱で、繋ぎ止められるとでも、いうように。

でも。

花弁は、力なく垂れ、縮れ、うなだれ——そして、ぽろり、と、落ちた。

一枚。また、一枚。

最後の一枚が、小瓶の底へ、音もなく、落ちていく。

後には、枯れた茎だけが、残った。

——咲いていれば、生きている。枯れていれば。

嘘を、つかない花が。今、はっきりと、告げていた。

「……あ」

「……あ、あ、ああ……っ」

誰よりも強くあろうとした少女が。涙など、とうに忘れたはずの少女が。

枯れた花を、胸に抱いて。幼い子供のように、声を上げて、泣いた。

その小さな背中を、沈みゆく夕日が、赤く、赤く、照らしていた。

嘘だ、と思った。

こんなのは、何かの間違いだ。すぐに、あの間抜けな顔で、崖の下から「いやあ、参った」とでも言いながら、這い上がってくる。そうに決まっている。

「ユウ。……おい、ユウ。返事を、しろ」

崖の底へ、呼びかける。何度も。返ってくるのは、谷を渡る風の音だけ。

それでも、認められなかった。認めて、しまったら。あの背中が、もう二度と、振り返らないことを——本当に、受け入れることに、なってしまう。

「ユウ……ユウ……!」

呼び続けるうちに、視界が、ぐらりと、傾いだ。張り詰めていた糸が、限界を超えて、ぷつりと切れる。

音が、遠ざかる。マルクが、何か叫んで、駆け寄ってくるのが見えた。ひどく、緩慢に。

クレアの意識は、そのまま、闇へ、落ちていった。

翌朝。

村に、王都からの騎士たちが、到着した。

ザックが、馬車を飛ばして報せたのだという。村が襲われたと知るや、王都に着くなり、騎士団とギルドに、討伐を頼み込んだ。遅かった。何もかも、終わった後だった。それでも、あの陽気な行商人は、二十年来の友のために、できる限りのことを、してくれていた。

騎士たちは、焼け落ちた村を検分し、マルクの案内で、谷の底へ下りた。

化け物の死体は、すぐに見つかった。崖から落ちた衝撃で、黒い巨体は、無残に、ひしゃげていた。間違いなく、絶命していた。

だが——巻き込まれて落ちたという男の姿は、どこにも、なかった。

谷底には、川が流れていた。騎士の一人が、谷を見上げ、淡々と、言った。

「川に流されたか。あるいは……この辺りは、魔物も多い。落ちた後に、喰われたのでしょう」

あの高さから落ちて、助かるはずがない。亡骸が見つからないのは、そういうことだ。誰もが、口にはせずとも、同じ結論に、たどり着いていた。

マルクは、谷を、長いこと見下ろしていた。

「……馬鹿な奴だ」

絞り出すような、声だった。

「帰ってこい、と言ったろう。ここが、お前の家だと……言ったろうが」

皺の刻まれた頬を、涙が、伝った。

気がつくと、クレアは、自分の部屋の寝台に、寝かされていた。

窓の外は、明るい。あの後、丘で花が枯れるのを見て——そこから先の記憶が、ない。気を失って、運ばれたのだろう。

体を起こした瞬間、すべてが、戻ってきた。崖。落ちていく背中。手の中で、枯れた花。

「……ユウ」

枕元に、小瓶が、置かれていた。誰かが、握りしめていた手から、そっと外して、ここに。

震える手で、取り上げる。

花は、枯れたままだった。茶色く、うなだれた茎。昨日見た、あのままの姿で。夢では、なかった。あれは、現実だった。

「……あ」

心のどこかで、すがっていた。目を覚ましたら、また咲いているんじゃないか、と。そんな、ありもしない希望は、枯れた茎一つで、あっけなく潰えた。

クレアは、小瓶を抱いて、声を殺して、泣いた。

どれくらい、そうしていただろう。

——胸に抱いた小瓶の中で、何かが、動いた気がした。

気のせいだ、と思った。涙の、見せる幻だと。

でも、違った。

小瓶を、顔の前に、掲げる。クレアの目が、見開かれた。

枯れて、うなだれていたはずの茎。その根元に、小さな、白い、芽が。

「……え」

目を、擦った。何度も。見間違いだと、また期待して打ちのめされるのが、怖かった。

だが、芽は、消えなかった。それどころか——見ている前で、すうっと、伸びていく。茎が、立ち上がる。先に、つぼみが、ふくらむ。

そして、ほどけるように、ひらり、と。

白い花が、咲いた。

昨日、枯れたばかりの場所に。何事もなかったように。淡く、淡く、光をたたえて。

——咲いていれば、生きている。

「……生き、てる」

唇が、震えた。

「生きてる……ユウは、生きてるんだ……!」

この花は、嘘をつかない。離れていても、相手の無事を、ただ、映す。それだけの花が——今、こんなにも、白く、鮮やかに、生きていると、告げている。

じわり、と。胸の奥に空いていた穴が、熱いもので、満たされていく。確信が、芽生える。妄想でも、願望でもない。あの男は、どこかで、生きている。

その時、扉が、開いた。

「クレア」マルクの声は、掠れていた。一睡もしていない顔だった。「谷を、見てきた。騎士様と、隅々まで。化け物の死体は、あった。だが……ユウの亡骸は、どこにも、なかった」

クレアは、何も言わず、ただ、小瓶を握りしめた。

「川に、流されたか。あるいは……」マルクは、最後まで言えなかった。「あの高さだ。助かるはずが、ない。ユウは……死んだ。クレア、つらいだろうが——」

「——生きてる」

クレアは、遮った。

マルクが、言葉を、失う。

「ユウは、生きてる。死んでなんか、いない」

「クレア……」マルクの顔が、痛ましげに歪んだ。「気持ちは、わかる。だが、亡骸がないのは——」

「気休めで、言ってるんじゃない」

クレアは、顔を上げた。涙に濡れた目が、しかし、まっすぐに、マルクを射ていた。咲いたばかりの花を、そっと、掲げる。

「この花が、教えてくれた。……あいつは、生きてる」

マルクは、その花を、見た。昨日、谷から運ばれてきた娘が、握りしめて離さなかった、枯れたはずの花。それが今、確かに、咲いている。

何か言いかけて、マルクは、口をつぐんだ。信じたいのか、信じるのが怖いのか。その顔は、どちらともつかなかった。

クレアは、もう、マルクを見ていなかった。

窓の外。朝日が、丘の方角から、昇っていた。

「……必ず、見つける」

その声は、もう、昨日まで泣いていた少女の声では、なかった。低く、据わった、声だった。

「どれだけ、かかっても。世界の、どこにいても。必ず、捜し出す」

王都には、学校がある。情報を集める、ギルドがある。強さを求める者の、すべてが、そこにある。いつか、悠が、向かおうとしていた場所。

ならば、自分が、行く。

剣を、極める。最強と、呼ばれるまで。二度と、目の前で、何も、失わないように。

そして——必ず、見つけ出す。

クレアは、小瓶の中の、白い花を見つめた。淡く、光っている。生きている。どこかで、のうのうと。私を、こんなに泣かせておいて。

ふっ、と。クレアの口元が、緩んだ。微笑み、だった。けれど、その目は、少しも、笑っていなかった。

慈しむように、頬ずりするように、クレアは、小瓶を、そっと唇に寄せる。

(見つけたら、もう、離さない。王都だろうと、世界の果てだろうと、関係ない。私のそばから、二度と、一歩も)

ぞっとするほど、甘い声だった。

(他の誰にも、渡さない。世界の、誰にも。お前は、この花を、私にくれた。これは、そういう意味だと——お前自身が、選んだんだ。だったら、もう、私のものだろう?)

もし、また逃げようとするなら。その時は——どこにも行けないように、鎖ででも、繋いでおけばいい。

「……待っていろ、ユウ」

クレアは、微笑んだまま、小瓶を、宝物のように、胸に抱いた。

それは、恋を知ったばかりの少女の、生まれて初めての執着。そして——静かに歪み始めた、愛の、最初の一滴だった。

白い花は、変わらず、静かに、咲いていた。

まるで——遠い、どこかで。腹を空かせて、目を覚ましているだろう、あの間抜けな男の、無事を、告げるように。

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