3DAY・5
--------------------------------------------------------------------------------
真新しい巫女の正装に身を包むと、自然と背筋が伸びる。
水竜を表す、空のような泉のような色の正装を着ることによって、巫女になるんだっていうのを改めて実感する。
これから始まる水竜の巫女になるための儀式の為、生まれて初めて袖を通した巫女の正装は、思っていたよりもずっと軽くって着心地がいい。
気恥ずかしい気持ちと、誇らしい気持ちが入り混じって、まるでお祭りの前の夜のようにドキドキする。
神殿に来た時に与えられた部屋で、村から着てきた服から着替え、今はその時を待っている。
巫女になる時。
それが今目前に近づいているのに、まるで現実感が無い。
窓を開け、水竜の座す奥殿を見ても、今はまだ水竜の声が聴こえない。
この後の儀式が終われば、水竜の声が聴こえるようになるっていうのも、頭ではわかっていても感覚的には理解できない。
今巫女様が、巫女になった時に理解できるとおっしゃっていた、誰でも巫女になれるわけではないということも、あの奥殿に踏み入れた時に理解できるのだろうか。
陽がゆっくりと傾き始めている。
月明かりが支配する前に全ての儀式を済ませなくてはいけないので、巫女になる時は、もう目の前に迫っている。
二日前この部屋を出た時、どうして巫女に選ばれたのかわからない不安で胸がいっぱいだった。
今も、巫女に選ばれた理由がわからない。
水竜の声が聴こえたら、まず聞いてみよう。
「頑張らなきゃ」
自分自身を鼓舞するように呟いて、部屋のドアに手を掛ける。
カチャリという音と共にドアが開くと、決して広くはない廊下の両側に、神官たちが一列に並んでいる。
「どうされたんですか」
確か儀式について書かれていた書物には、こんなこと書いていなかったはず。
圧倒されるような光景に、思わず一番手前にいる神官に問い掛ける。
「我々は儀式に立ち会うことは出来ませんが、儀式へお送りする事は出来ます。次代様が巫女になるその瞬間に立ち会えない代わりに、こうやってお送りさせて頂きたいのです」
その言葉に胸が詰まる。
こんなにも望まれているのに、どうして巫女を投げ捨てようなんて思えたのだろう。
巫女にならないって言わなくて良かった、本当に。
「ありがとうございます」
半年前に、村にご神託を携えてきた神官の一人、一番年配の神官が一歩前に踏み出す。
あの頃と変わらず落ち着いた雰囲気で、そして微笑んでくれる。
「次代様。奥殿へご案内致します」
「はい」
その神官の後について歩き出すと、通路の両側に立つ神官たちが一斉に頭を下げる。
まだ慣れないけれど、こうやって接しられることに相応しい巫女になろう。
一歩一歩、巫女へと続く道を歩き出す。
歩いていく途中に、村へ一緒に行った、使者役の神官の姿がある。
今言わなくてもいいんだけれど、どうしても言いたい事がある。
頭を下げる神官の前で立ち止まると、驚いたような表情で顔をあげる。
「ありがとうございました」
あの時、ウィズに会いたいという我儘をこの神官が聞いてくれなかったら、今こうしていなかったと思う。
その我儘を通すために、きっと神官長様を始め、沢山の人を説得してくれたはず。
それはものすごい努力だったかもしれない。
「わたくしは次代様の望まれた通りにしたまでです」
何もなかったかのように深く頭を下げるので、いつかちゃんとお礼をしようと決め、歩き出す。
足音だけが廊下に響き、他には一切の音が無い。
その緊張感が、厳粛な儀式が待っていることを予感させ、心臓の音は否が応でも高まる。
ひらひらとまとわりつく巫女の正装に足を取られて転んだりしないようにと細心の注意を払って、一歩一歩歩いていく。
いくつかの角を曲がり、前殿の突き当たりで奥殿へと続く渡り廊下のところまでくると、前を歩く神官が振り返る。
「わたくしがご一緒できるのは、ここまででございます」
渡り廊下のほうへと促すように、神官が手を差し出す。
この先に足を踏み入れられるのは巫女だけなんだと、立ち止まる神官の態度からもわかる。
木々が生い茂り、奥殿の入り口は見る事が出来ない。
ここに来たのも初めてで、この先にどんなことが待ち受けているのかもわからない。
低い木立が渡り廊下の両側を埋め、奥殿に近づくに連れ、その緑のアーチは高くなっていく。
まるで木のトンネルのように。
高ぶる気持ちを押さえるように、深呼吸をする。
木々の清涼な空気が、体中に広がり、現世の穢れが払われたように感じる。
――ここに入ってもいいですか。
心の中で水竜に問い掛けてみる。
しばらく返答がないかどうか、耳を澄ませてみるけれど、当然答えは聴こえない。
代わりに一陣の風が頬を撫でる。
不思議と暖かく感じたその風が、水竜の返答のように思える。
「ありがとうございます」
神官に一礼して、渡り廊下に一歩踏み出す。
一度足を踏み入れてしまうと、誰かに背中を押されているように、少しでも早く奥殿に近づきたくてしょうがなくなる。
でも、巫女らしく振舞わなきゃ。
しばらく歩いてから振り返ると、神官の姿は木々に隠されて、もう見えない。
神官が見ている時には、落ち着いて歩こうと思っていたけれど、どうしても小走りになってしまう。
この先に水竜が待っている。
意外に長い木々のアーチの間を行くと、だんだん奥殿が見えてくる。
半年前から、窓の外に見えた奥殿が今は手に届きそうなところにある。
少しずつ大きくなってくる奥殿に近づくごとに、胸の奥の高鳴りが一段と強くなる。
呼んでいる。
呼ばれている。
もう駆け出さずにはいられない。
早く、早くあそこに行かなきゃ。
水竜が呼んでいるんだから。
聴こえるはずの無い声が聴こえてくる気がする。
五感の全てが、奥殿へ行きたいと叫んでいる。
「サーシャ。走りましたね。マイナス十点」
渡り廊下を抜けたところで、神官長様が静かに佇んでいる。
巫女以外入る事は許されていないはずなのに、なぜ神官長様がここにいらっしゃるのだろう。
お行儀の悪さを指摘された事よりも、神官長様がここにいらっしゃるという事実に驚いて、目を見開いて、食い入るように見つめてしまう。
幻を見ているのかと思ったけれど、間違いなくここにいるのは、神官長様だ。
なぜという言葉が頭の中を占めているけれど、驚きのあまり言葉に出来ない。
「巫女が誕生するその時だけ、神官長は奥殿に入ることを許されているのですよ」
問い掛ける前に、ここにいる理由を神官長様が告げる。
それでやっと、頭の中の混乱が収まる。
半年間神殿にいても、知らないことの方が多いみたい。
老婆と言っても過言のないような年齢なのに、神官長様は綺麗に背筋を伸ばして立っている。
そして、まるでママのような瞳をする。
ずっと怖くてしょうがなかったけれど、本当はお優しい方なのかもしれない。
怒られるのが怖くて、呆れられるのが嫌で、どうしても近寄り難い方だと思っていたけれど。
「こちらにいらっしゃい、サーシャ」
着いてくるように促され、神官長様の後に続く。
目の前に広がる、湖の水を引いた人工的な水辺の中に、奥殿の建物が浮いている。
本当に浮かんでいるわけじゃないとは思うけれど、外から見ると浮いているようにしか見えない。
知識としては知っているけれど、本当に奥殿は水に囲まれているのを、初めて間近で見る。
そして思っていたよりもずっと大きな建物で、圧倒される。
ここに水竜がいる。
この奥で今巫女様が待っていらっしゃる。
儀式を終えたら、自分が今巫女と呼ばれるようになる。
今ここにいても、その事が信じ難い。
巫女はずっと、今巫女様のような気がするから。
奥殿の建物を回りこむようにして渡り廊下とは反対側に着くと、奥殿の入り口が見える。
入る事を阻むように広がる水辺の向こうに奥殿の入り口があり、その入り口に向かって伸びるように橋が掛けられている。
その橋の手前で、神官長様が立ち止まる。
巫女になる瞬間が近い事が、神官長さまは何もおっしゃらないけれど、横顔の険しさから感じ取ることが出来る。
巫女が巫女で無くなる時と、人が巫女になる時が近付いている。
神官長様の横に立ち、その時が来るのを息を詰めて待っている。
この世に、水竜の声を聴けるのは唯一人。
私が巫女になるということは、今巫女様が巫女じゃなくなるということで、そしてこの先必ず自分にも「その時」は訪れる。
巫女を辞める時、どんな事を考えるのだろう。
今はまだ想像すら出来ないけれど、その時も、こうやって神官長様が見守ってくださるのだろう。
そう思うと、ほんの少しだけ気持ちが軽くなる。
その時までには、減点されないで満点で毎日を過ごせるようになろう。
巫女になろうという小さな決意が、今は色んなことを前向きに考えられるようにしてくれる。
ほんのちょっと考え方を変えるだけで、人はこんなにも変われるものなんだと、身をもって実感している。
前は怒られると、最初から何でも出来る人なんていないのにとか、育ってきた環境が違うんだからしょうがないとか、そういう言い訳がいっぱい出てきたのに。
儀式の書物に書かれていたとおりに、今巫女様が奥殿から出てくるのを、じっと立って待っている。
巫女になる儀式は、この橋の前で行なわれる。
きっと今頃国中の村で、水竜の大祭が行なわれている。
今日、新しい巫女が誕生するなんて、祭りを楽しむ人たちは知らないに違いない。
今巫女様が巫女になった日を、私が知らないように。
今巫女様が、奥殿から姿を表すのが見えると、鼓動は最高潮に達する。
そのお姿からは目を離すことが出来ない。
振り返らずに奥殿に背を向け、ゆっくりと、でも確実に一歩ずつ奥殿から遠ざかる。
細い橋に足を掛けたところで、ふっと立ち止まり、口元が歪む。
それが笑みのようにも見えるし、痛みを堪えているようにも見える。
それは本当に一瞬のことで、注視していなかったら気が付かなかったかもしれない。
何もなかったように、一歩一歩、決して長くはない橋を渡り、今巫女様が目の前に立つ。
手には小さな水差しを持っている。
その水が意味するものを私は知っている。
儀式に使われる、水竜の涙と呼ばれる水が入っている。
その水は、奥殿で今巫女様が巫女で無くなる為に、巫女の力を水竜に返す儀式に使われたもの。
水竜の涙で身を清めた時、巫女としての力を得る事が出来ると、何度も読み直した書物に書かれていた。
水竜の涙。
巫女と別れる時に、水竜が流した一筋の涙がそこにはある。
唯一人声を聴き、理解してくれる存在を失う水竜が流した涙は、次の巫女を誕生させる力を持つ。
「次代の巫女、水竜様がお待ちです」
その言葉と同時に、水差しの中の水が頭から掛けられる。
冷たい水を想像していたのに、不思議とその水は冷たくなく、体の中に全て吸い込まれていく。
一滴たりとも、巫女の正装も、髪の毛一本さえ濡らすことない。
唖然として今巫女様を見ると、まるで泣いているみたいな笑顔で、奥殿を指差す。
水竜の座す奥殿を仰ぎ見る。
その刹那、体中の血が沸き立つ。
体という枷が無くなって、感覚が皮膚を越え、空中に広がっていく。
全身が粟立ち、自分の体を抱きしめていないと、どこか遠くに引っ張られていってしまいそうになる。
解き放たれた神経が、どこまでも広がっていく。
広がっていく意識が、呼ぶ声を捕らえる。
ずっと呼んでいた声。
今まで聴こえなかったけれど感じていた声。
「待っていたよ。ボクの巫女。」
そして、誰も知らない新しい物語が始まる。




