~11~
母親の声がした。ノック音も聞こえる。
「起きないの?」
左側の頬が痛い。固い物にずっと押し付けられたかのような痛みだ。さすろうと思って、左手をあげると、カコッと音がして何かにぶつかった。手を広げて触ってみると、どうやら平べったい木みたいだ。右手を挙げてみようとすると、肩に痛みが走った。変な体勢で寝てしまった時と同じ感じがした。足も同じような痛みがある。眠さに勝って目を開けると、漫画やプリントが目に入った。
「机?」
顔をあげると、頬が圧迫から解放された。首をゆっくりと回転させると、ポキッポキッと骨がなった。背中を伸ばして座りながら伸びをする。
変な体勢で寝たときと同じ痛みは、変な体勢で寝ていたからだった。
「当たり前か」
扉が開いて、母親が入ってきた。エプロンをしたままの姿で俺のことを見ると「なんだ起きてるじゃないの」と言った。
「今、起きたんだよ」
さらにいろいろと体を伸ばして、ほぐしていく。椅子から立ち上がって、腰を回すと体が伸びる具合が気持ちよかった。左右に回していると、だんだんと調子が戻ってくる。
「随分。余裕ね」
「何が?」
「学校、遅刻するわよ」
「朝っぱらから冗談言わないでよ。頭回らないから突っ込めないし」
俺はいつも携帯のアラームで起きている。毎日同じ時間に鳴るようにセッティングしていた。ここ一年間ぐらいアラーム機能をいじったことはないし、母親に起こされたこともない。きちんと自分の力と携帯様の力で起きている。
母親が俺のことを起こしに来たわけはわからないが、まだ携帯は鳴っていない。そう思っていると、ちょうどタイミングよくポケットで携帯が震えた。ポケットから取り出して画面を見てみると、時刻がおかしかった。八時ちょうどを指している。学校に着くぎりぎりの時間だ。携帯でも間違えることもあるのだろう。そう思って壁にかかっている時計を見ると、八時。
「母さん。これってあれだよね。携帯と掛け時計が手を組んで俺にドッキリを仕掛けているんだよね」
「そうね。そうだとしたら、私も仲間の一人になるわね。それと世界中の時計と、すべての人が仕掛け人ということになるわね」
俺と母親の間で空気が固まった。母親の誇らしげな顔が目に痛い。俺がすべったのに、それにかぶせてきた母親もすべってしまっている。どうしようもない空気の中、俺はカバンを手に取った。
「ちょうど制服だし、その、いってきます」
「・・・いってらっしゃい」
ブレザーも拾って、母親と一緒に部屋を出た。そのまま一緒に階段を下りて、母親はリビングに俺は玄関に向かう。昨日のまま雑に投げられた靴を履いて、外に出る。
今日も秋晴れだ。カラカラとした乾燥とほんのり寒い感じにノスタルジックが混ぜ込まれている。心が絞めつけられている感じが嫌で、俺は駆け足で学校に向かった。
予鈴五分前に学校前についた。校門を通ったところで、二木を見つけた。俺と同じく少々急ぎ気味で歩いている。声をかけるべきだろうか。気まずいとはいえ、なにか挨拶をしないといけないと思う。どうせいつか仲直りをして親友に戻るはずだ。
おはようと声をかけようとして、手をあげた。その時ふと「おはよう」でいいのかと思った。他にも挨拶はある。軽く「よう」や丁寧に「おはようございます」など、いろいろと思いつける。本当に「おはよう」でいいのだろうか。
力が抜けて上げていた右の掌が勝手に丸まった。俺は二木にどういう挨拶をしたらいいのだろう。言葉を探してみても見つからない。頭の中にある言葉の引き出しを、あほみたいにひっくり返しても使えそうにない言葉しか出てこない。俺が知っている言葉で、このときにする適切なものがない。
もしかするとこの世に俺の今の状況で言える言葉は存在しないのではないだろうか。
二木は校舎に入る前に一度振り返った。俺に気づいて、でも何も言わなかった。二木は目を細めて俺のことを一瞬睨んだ。そしてすぐに無視するように俺に背を向け、校舎の扉を引いてさっさと中に入ってしまった。
俺は二木が見えなくなってから歩き出した。
教室の中に入ったときちょうど予鈴がなった。本鈴まであと五分はある。先生が来る時間はまちまちだ。俺は別に急いだ風でもなく席に向かった。
「ぎりぎりだな」と翔が俺を見て言う。
「そんなギリギリでもないよ。あと三分は頑張れる」
「どこに努力を費やしてんだ」
翔は笑いながら言った。カバンを机の横に置いて、椅子に横を向いて座る。
「ねぇ。夏凪は?」
夏凪の席には誰もいない。それどころかカバンも何もなかった。夏凪はいつも学校に来るのが早い。予鈴が鳴ってもいないのは結構珍しいことだ。
「俺は知らない」と翔は言ってから、無言で座っている二木に向かって「知ってる?」と訊いていた。
「悪いけど、知らない」
「そうかぁ」
翔と二木は普通に話している。俺とだけ少し関係が悪くなっているのだろう。ならば、本当にほっとくだけでいつかは仲直りすることだろう。
「メールしてみれば?」
「ああ、でも確か昨日、携帯壊れたとか言ってたな」
「壊れた?」
一昨日は普通に使えていた。ビニールテープを巻き付けて、プリクラを剥がれないようにしていた。なのに携帯自体が壊れてしまったのか。あの痛々しい行為は完全に無意味になっている。
「なんか、どっかの馬鹿が携帯を下駄箱の中に入れていたらしい。それに気づかなくて落としたんだと」
翔は俺にジトッとした目を向けている。
「へぇえ。その人は優しさのつもりだったんだろうけど。まぁ運が悪かったんだろうね」声が少し震えた。そんな俺を見て翔はため息を吐いた。
「でも、まだ使えるは使えるらしいな。画面が半分黒くなっただけとか。電話はできるかはわからないけれど」
「そう、なんだ。まぁメールはいいか。待っていればきっと来るよね」
「いや、直己はするべきだろ。『携帯壊してごめん』って。たぶんだけど夏凪はあの壊れた携帯使い続けるだろ。早く謝ったほうがいいぞ」
翔の言った通り、夏凪はきっと使い続けると思う。半分画面が見えなくなっても、無理して使い続けるだろう。あのプリクラが大事だからだ。剥がれないようにしたと言うことは、剥がせないと言うことだ。新しい携帯に引き継ぐことができない。
いつか完全に壊れて新しいものを買ったとしても、しばらくは使えない携帯を持ち歩き続けると思う。それがいかに無意味でも、夏凪ならやりそうだ。
「後で、直接会って謝るよ。その、まぁ、十年後とかに」
「遠すぎんだろ」
「確かに未来すぎるかな。じゃあその半分ぐらいのときに」
「まだ、遠いだろ」
教室の前の方からドアが開く音が聞こえた。そちらを向くと先生が教室に入ってきたのが見えた。先生は俺ら三人の方をちらっと見てから、教卓のほうに歩いていた。昨日の葬式に出ていた俺らがクラスの雰囲気を下げてしまうことを案じていたのだろう。予想に反して普通な態度を取っている俺と翔に安心したに違いない。
「じゃあ、すぐに謝っておけよ」と翔は言って、座りなおして前を向いた。俺も横を向く体勢から、お尻を軸にして回転し前に向く。後ろに夏凪が居ないせいか、すこし背中側が寒い気がした。
朝のホームルーム活動を机に這いつくばりながら聞き流す。どうでもいいことばかりだった。そういえば机の上の花はきれいになっていた。誰かが新しい花に代えたのだろう。花とはいうのは存外値段が高いものだ。母の日にカーネーションを買おうとして、断念した覚えもある。ただ単にクラスメートだったやつにそんなお金を払う人はいない。どうせ先生が匂いに耐え切れず買ってしまったのだろう。
いつあの花瓶が撤去されるかが疑問だ。撤去されない場合、あの花の終着点は造花だ。遠くから見れば普通の花に見えても、触ってみればざらざらと生き物ではありえない固さがある。でも傷むことはない。どうせ腫物のように触れなくなるのならば、造花でも関係ない。ただ、翔はきっと「もういたまないんだな」と言うに決まってる。その時の翔の顔も簡単に想像できる。ひどいにやけ面でどや顔をしている。でも俺がそっぽを向いた瞬間、無表情に変わる、そんなところまで想像できた。
隣の翔をちらっと盗み見ると、俺と同じようにだらけた体勢で先生の話を聞いている。視界の隅であの花が見えて、俺は目を閉じた。
一人いなくなっても、もう一人だれか休んでいれば授業はあまり変わらない。例えば英語の授業でペアを作ってスピーキングしあうとか、科学で班を作るときでも班員が違う人になることはない。体育の授業では後ろだけ柔軟体操の相手がずれるくらいだ。本当に何事もなく授業は進み、午前中は終わった。つまり、夏凪は来なかった。
屋上でいつものように食事をとる。そこに二木の姿はない。二木は四限が終わった後すぐどこかに行ってしまい、屋上に誘う暇すらなかった。先に屋上に行ったのかと思って来てみても誰もいなかったので、やるせなく二人で食事をとっている。
「今日は二人だけか。どこ行ったんだろうな」
「さぁね」
二人だけの屋上は寂しいものがあった。翔と俺は出っ張っているところに並んで座っている。四日前までは五人でここで昼食をとっていた。円になっていたのに、二人だと並んで線にしかなれない。これから先、俺らはここで最高四人だが、集まることができるのだろうか。
「直己、告白されたのか?」
翔はコンビニの袋から、パンを取り出してパッケージを開けている。俺のことも見もしないで、世間話のように話しかけていた。俺は何も言い返さないで翔の方を見ていた。俺の視線に気づいた翔は、顔をあげて「何?」と訊いてくる。
「ん、えーと。なんだそのパン?」と取りあえず話題を変えてみる。
翔は持っているお案をまじまじと見て、眉にしわを寄せた。一口かじってから
「これは、にしょくぱんだな」と言った。
「二色パン?」
チョコとカスタードでも入っているのだろうか。俺の目からは普通のサンドイッチにしか見えない。世の中にはイチゴサンドやチョコサンドという邪道もあるけれど、翔がそういうのを食べるのは珍しい。
「ああ、二つの食パンに具が挟まれてるから、二食パンだな。具はツナだ」
「なるほど、ツナサンドね」
いままでサンドイッチと言う名前を誰かから聞いたことがないのだろうか。そんなわけはないか。パッケージにも書いてあるはずだ。どうせいつもと同じギャグなんだろうけれど、とてもわかりにくい。話題がそれたから俺からすれば満足ではあるが。
「で、直己。告白されたんだろ?」
話題はブーメランのように戻ってきた。確実に聞く気なんだろう。翔はツナサンドを食べながら、俺の方を見ず前を向いている。前にあるのは屋上のコンクリートと、青い空だけだ。
俺も翔に倣って前を向いてみる。でも、どうでもいい物しか見えないので、下を向いて答えた。
「ああ、言われたよ。俺のことが嫌いだって」
コンクリートでできた床は、ところどころ崩れて小さな破片が転がっている。それをつま先でいじくっていると、パキっと言う音がしてさらに小さくなった。
「へぇ。嫌いねぇ。本当にそんなこと言われたのか?」
「言われたって」
「そうか。まぁ勝手に仲悪くなっていいけどな。でも俺は両方ずっと友達だと思っているから。俺を巻き込むなよ」
足に力が入って、さらに破片は砕けた。粉々になって、大きい破片でも足の親指より小さくなっている。翔はまだ前を向いていている。俺は足を振り上げてから思い切り踏み、
すべて粉々にしようとした。けれど、靴裏のゴムの部分に食いこむだけに終わった。
「なぁ、今日の放課後、暇だろ?」
翔はペットボトルを出してから、コンビニに袋を丸めて上着のポケットに突っ込んだ。今日はスポーツドリンクではなくて、炭酸飲料みたいだ。見たこともない銘柄だった。新商品なのかもしれない。どうせ来年にはなくなっているだろう。コカ・コーラや三ツ矢サイダーに勝てる商品がこれから来るとは思えない。類似商品など、すこし冒険臭がするものは翔みたいな人しか買わないからだ。
「暇だけど」
「あれ買いに行こう」
「あれ?」と訊くと翔は両手を回して宙に大きな円を描いた。そして「あれだよ。あれ」と言う。
「どれ?」
「あれ」
翔は中年男性の物忘れみたいに、喉元までは来ているみたいだ。その来ているものを口から出して、溜飲を下げたいのだろう。でもこのままだと溜飲ではなく、喉元まで来ている言葉が下がりそうだ。
「だから、どれだよ」
「あれだって」
「ちゃんと『変身ベルト』って言ってくれないとわからないよ」
「わかってんじゃん。それだ。それ。さすがに一人で買いに行くのは恥ずかしいだろ」
翔はペットボトルのキャップを開けて、においをかいでから一口飲んだ。あまりおいしそうな顔はしていない。外れだったみたいだ。来年どころではなく来月にはもうあの商品はないだろう。そう考えると試しに少し飲みたくなってくる。
「まぁ。恥ずかしいね。ところで、それおいしかった?」
「いや、ひさびさの外れだ」
翔は俺に突き出してきた。受け取って飲んでみると、確かにどうしようもない味だった。人生で一回も味わわなくてもいい感じだ。開発者もおふざけで出したのだろう。それか舌か頭がおかしい人だったかの三択だ。
「じゃあ、放課後、よろしくな」と翔は言って、ポケットから音楽プレーヤーを取り出した。ぐるぐるにまいていたイヤホンをほどいて、耳にさしている。
「寝るの?二人しかいないから片方が寝たら、俺困るんだけど」
翔は片耳だけイヤホンを外して、「まぁしょうがないだろ。暇だし。チャイムで起こして」と言ってからまたつけた。腕を組んで目をつぶって、完全に寝る体勢だ。俺は眠気が全くないので、携帯を取り出して適当にネットサーフィンをする。まとめサイトを巡っているといつの間にか翔の静かな寝息が聞こえてきた。
俺は翔の足に載っている音楽プレーヤーをゆっくりと拾って、音量を二つ上げた。翔の耳から聞こえてくる音漏れが大きくなるのに満足して、また俺はネットのくだらない記事に戻った。




