第3話 母親
その子は捨てられていた。
神々の祠に。
この山に数百年いる私でもほとんど入ることはない場所だ。
その日、「狩り」の途中だった私は一角狼を追って普段あまり来ない場所にいた。
ここら一帯は標高が高く、霊峰の中でも特に吹雪が厳しく、一年中止むことはない。
一角狼は肉などは食用に、毛皮は衣服にするもよし、なめして革製品にすることもあり、とりわけその角は装飾品や武器などに加工され高額で取引される。
こやつ以外の獣も殺せないことはないが、時間が掛かりすぎて効率がすこぶる悪い。霊峰に住む猛獣達を狩って生きる私にとっては貴重な収入源なのだ。逃すわけにもいかん。
しかし獲物を追ってきたはいいものの、そのまま見失ってしまった。
真冬の吹雪というのを少し舐めすぎていたようだ。
死ぬことは流石にないが、視界が全く取れない。
標的が見えなければ槍の投擲しようもない。
取り敢えず、目の前の岩肌に穿たれた洞穴で一息ついてから奴らを探そう。そう決めた。
中を覗き込んではっとした。
壁のいたるところに張り巡らされた特徴的な文様。
奥まった場所の祭壇に安置された白聖石。
間違いない。祠だと分かった。
神々の霊峰には誰がいつ何の目的で作ったか知れない代物が幾つかある。祠もそのうちの一種に数えられる。
ロイド語の母体言語であるミレイドゥ語において、「アルク」とは「得体の知れないもの」「よく分からないもの」という意だ。
それをロイド語では神々なんて意味合いで使ったりする。
大昔の人間が自らの認識を超えるモノに神性を感じていたのがよく分かる例だ。
そういうわけで、これらの祠は神々の祠なんて発音する。
私の心当たりがあったのは住居の近くにあるものだけで、それ以外には全く知らなかった。
そもそも複数あるとは思っても見なかった。
よくよく壁や天井を見回して再確認する。近所のそれと非常に似通っている。
違うのは年季の入り方というか汚れの程度ぐらいなものだ。
最も前者は私が10年に一度ほどの割合で掃除に入っているからだろう。
私は祠に一歩踏み入った。
しかし、外に通ずる穴から直線上に続くという形状でありながら、これだけの吹雪だのに雪の一欠片も入り込んでいないのが不気味だ。
何かしらの加護や魔術的な措置が施されているのだろうか。
過去にこのような場所には腐るほど遭遇してきたが、ここはその中でも群を抜いて色々おかしい。先程までの吹雪の轟音も今や私の耳には入らない。
嫌な静けさに耐えつつ二歩目を踏もうとして、止める。
即座に槍を抜き腰を落とす。
気配。
そう気配だ。一つの気配がある。奥の祭壇の近く……。
そこを注視して度肝を抜かれた。
赤子。
それはどう見ても赤子だった。
鼠色のみすぼらしい布にくるまれたまだ生後間もないだろう赤子。
同じような色の髪をした子。
私はその時、何故このような場所に赤子がいるのかということより驚いた事があった。
その赤子の存在に、祠に入ってから二歩目まで気づけなかったのだ。
普段の私では考えられない。
「狩り」においては獲物を仕留めることと同程度にその存在を察知することが重要になってくる。
何百年とやってきたことの筈。
やろうと思えば一つの町程度の広さに神経を研ぎすませる事ができる。況やこの洞穴をや……、である。
だが結果、察知できなかった。
これも祠の力によるものだろうか。
赤子に向かって歩みを進める。
近くに寄って覗き込むと、彼か彼女かは目を見開いていた。
こちらを見ている。
ふと脳裏に捨て子、という言葉がよぎった。
あまり好きな言葉ではなかった。
このご時世、捨て子はそう珍しいものではない。
大陸をもう少し西にいけばそういう子らはごまんといる。
誰も彼らを助けたりはしない。
彼らはそのまま死んでしまうか、孤児院、または孤児出身の者を中心とする反社会的勢力に取り込まれる。
そういう奴らに、人々は関わりたがらない。
こちらを不思議そうに見つめる赤子の瞳。
その無垢な姿に、母性をくすぐられる。
この体にまだそんなものが残っていたことに少々戸惑った。
まだ親を知らぬ目。
大昔の誰かと重なった。
私はその子を抱き上げた。
なおも不思議そうな目をしているその子に笑みを向ける。
突然赤子が口を開いた。
言葉にならない発声。
私は頭を撫でてやる。
どうしようもなく可哀想な子。
こんな山奥の寂しい場所に一人取り残されれば待つのは死のみ。
そんな子を置き去りに出来るはずがあろうか。
私が。この子を見つけたこの私が。
育てなければいけない。
そんな気がした。
子供など育てた経験はない。
それでもだ。
少なくともこんな場所に赤子を捨ておいた者は許せなかった。
私は赤子を連れて帰ることにした。
こうして私に子ができた。
この子は男の子であった。
彼の名にはアルクディウス、と。
神々を表す語に、我が一族に伝わる伝説の戦士の名。
別に彼に進んで槍を教えようとは思わんが、ヤツのように強く逞しくなって欲しいとは思っていた。
アルは順調に育っていた。
育児の経験は皆無だったので、麓町のバルギエラに住む知己を頼った。
直接連れて来い、なんて言われもしたがそれは無理だ。
小さい子を連れて霊峰は下山出来るほど甘くない。仕方がない。
毎日通って一通りの知識を身につけた。
それでも分からないことは山とあった。
苦労もたくさんした。
だがこんなに満ち足りた日々は久しぶりだった。
ここ百年にこれほどひたむきに打ち込んだことは一つとしてない。
幸福。
この一言に尽きる日々。
帰ると誰かが私を待っててくれている。
こんなに幸せなことは多くはない。
アルは大人しい子で全く泣かず、ただ私の話すことを黙って聞いている子だった。
私は彼に話しかけ続けていた。
そう助言されたのだ。
反応がなくとも、あちらはしっかり聞いていると。
別に助言がなくとも新しい同居人には話しかけるつもりだったが、念を入れて言われたので殊更頭に残っていた。
泣かず、あまり笑わず、そしてあまり居住している小屋の中を動きまわろうとはしなかった。
時折口角を僅かに上げることはあっても、それは歳相応のものではない。
彼の顔には憂いというか、その年齢には似合わぬ表情が張り付いていたこともあった。
しかし日を経るごとにその表情は消えていき、入れ替わりに笑顔が増えてくるようになったのだ。
これは嬉しい事だった。
自身に自覚がなくとも、親に捨てられた子は自らの境遇を本能的に感じ取っているという。
そのような子が自然に笑える環境を作ることが大事だ、などと説教されたものだ。
半年を過ごしたあたりでアルは返事をするようになった。朧気ながらも私の言に対してである。
これも嬉しい事だった。
特に私の名を呼んでくれた時は歓喜のあまり涙を流してしまった。
時には忌み嫌った名。
それを呼んでもらえることがこんなにも嬉しい事なんて。
今までに気づかなかった。
気づいたことが、なかった。
子供はあっという間に成長する。
我が一族の慣習である、一年の節目に成長を祝う「年の儀」。
バルギエラの町民の間ではその子の誕生日に同様の催し物をやり、贈り物を贈ったりするらしいが、アルのその日を私は知らない。
なので我が家では「年の儀」とそれとを兼ねていた。
もう四回もやっていたのか。
初回と二回目は何をあげたらいいか迷った挙句渡すことが出来なかった。
悩みに悩み抜いて答えを出せないところが私の悪い癖だ。
でも三回目は、渡すことができた。
バルギエラに古くから伝わる慣習に倣って儀礼用の靴と防寒具を選んだ。
知己の助言が今回も私を助けてくれた。私は彼女に頭が上がらない。
アルも珍しく目を輝かせて大喜びしていたので、尚更だ。
彼の笑顔を見れて幸せな気持ちになった。
ずっと守っていてあげたい。そういう気持ちだった。
四回目はまた迷ってしまった。
正直前回は自らの選択から逃亡したという感じが否めない。
なので今回こそは、と張り切ったのだが……。
別に物品を何かあげたりしなくても贈れるものはある。
例えば技術とか。
しかし槍を教えるにはまだ少し早い気がする。
家の中からあまり外に出てない様子なので、いきなり武術を教えても体がついていかないだろう。
であるならば、家の中で出来ることで何か授けてやれないだろうか。
本。
私にも僅かながら蔵書がある。その中から何か一つでも……。
ああ。まだ文字を教えて無かった。
ということで文字を教えることにした。
既に四回目の「年の儀」は終わってしまっていたが、まあ許容範囲だろう。
教材にはなかなかの古書ではあるものの『英雄エピドラスコと仲間達』を選択した。子供に読み聞かせる昔話のようなもので、私にとって馴染み深い話でもあった。
アルはまるで布が水を吸うが如く、教えることを吸収していた。
若いというのも勿論あるだろうが、なにより彼からは熱意を感じた。
余程この話が気に入っているのだろうか。そんなに面白くはないと思うのだが。
だが教えがいがあるというものだ。
アルには立派に育って欲しい。生い出ちに囚われない、自由な人物に。
私はそう願っていた。
願っていた一方で私には一つの仄暗い懸念が抱かれていた。
私はアルに、自分が本当の母親ではないことを言っていなかった。
私が、義理の親であるということを。
私が、彼を拾ったことを。
アルは気づいているのだろうか。
明らかに肌の色が異なっており、瞳の色も違う。
我が肌は褐色に染まり髪からは色が抜け落ち、瞳は禍々しい。
凡そ人外にしか思えぬ身体。
アルは聡い子だ。年を重ねるにつれ気づくかもしれない。
その時が怖かった。
何故教えてくれなかったのか、と問いつめられるであろうその時が。
彼は私が長い間裏切っていたと思うだろう。
本当の母親のふりをしていた偽物だと。
ずっと。彼の笑顔を眺めている間もその心配は常にあった。
言い出そうと決心したこともあった。
だが実行には移せなかった。
私はこんなにも軟弱になっていたのか。
自らに失望した。
それでも。
それでも今の生活を壊してしまうのは嫌だ。
だから私は今後もこの仮初の安寧に甘んじるつもりだった。
そのつもりだった。
でも事態は。
いつも私の思惑とは真逆の方へと突き進んでいく。
その日はいつもの通り「狩り」へと出かけた。
無事に一角狼を数頭仕留め、その場で解体し取るべきものをすっかりしまってから帰途についた。
住居が見えてきたところで異変に気づいた。
普段ならここから遠目を効かせれば霧の中でも小屋内で動く人影が窓に見えるはずだった。
アルの影だ。
だがその時は動くものが見えなかったのだ。
まさか。
不安を拭うように一歩一歩を速める。
小屋の扉をほとんど蹴破るようにして開けて、身の毛のよだつような悪寒に顔を覆いたくなった。
もぬけの殻だったのだ。
そんな。
人攫い。まず有り得ない。霊峰には生半可な者では立ち入ることすら許されない。勝手知ったる土地に新顔が来たとなればこの私が気付かないということもない。これはない。
獣の類。これも無い筈だ。そもそもここらの獣は私を恐れて私の匂いのする場所に近づこうとしない。加えてそもそも小屋に荒らされた形跡がない。
ならば。
アルが自らの足で外に出たということだ。
と言ってもだ。3回目の「年の儀」の際に贈った儀礼用の靴に時折土や雪が付いている事があった。
前々から私の居ぬ間に外に出かけていたのだ。
そのことは少々黙認している節があった。
私の帰ってくる時は必ず家に居たので長時間は外出していないと踏んでいた。
だがよく考えなくてもここは霊峰。
危険度は世界中でも抜きん出ている。
一歩間違えれば子供などひとたまりもない。
私は自らの基準でのみ物事を判断していたために子供を危険な目に晒していたのだ。
私の責任だ。
探して迎えに行ってやらねば。
今の時間に帰ってきてないのは何故だ。
道に迷ったか。あるいは……。
とにかく行動しよう。
私は小屋を飛び出した。
すぐに立ち止まって地面を注意深く観察する。
あった。
足跡だ。
子供の足跡。アルのもので間違えないだろう。
ほぼ薄れてしまって一見分からないが、意識を集中すれば見えないことはない。
ここらの地面は豪雪地帯も相まって湿気がひどく、ぬかるんでいて足跡の判別がすこぶる難しい。
注視しなければ見えないような足跡を追うのは時間がかかりすぎる。
両手に力をこめ、小声で詠唱する。
使うのは久方ぶりだ。
魔法。それもかなり古い系統の。
今の魔術師はこんな魔力の使い方はするまい。
匂いを追跡する魔法が発動した。
淡い灰色の魔力の残滓が指し示した方向を確認して、体が強張る。
そっちは「魔の森」だ。
「魔の森」。草木のほとんど生えない不毛の大地に不自然にある森。
正確にはただの植物達ではなく、魔力を多分に含んだ魔力生物だ。
それ自体に害はあまりないのだが、そこに住む者達が問題だ。
一角狼。その群れが住んでいる。
私がいつも狩っている群れを追放された一匹狼とは格が違う。
狡猾な立ち回り。凶悪な一本角。
危険だ。
特に群れの長は。
縄張り意識が強く気性が荒い。
そいつにアルは。
アルは襲われていた。
「魔の森」中部の少し開けた場所。
私が辿り着いた時はもうほとんどことが終わっていた。
腹部に開いた穴。
食いちぎられた右腕。
体のあちこちの切り傷。
地面に広がるおびただしい量の赤黒い血の跡。
アルはそこに横たわって動かなくなっていた。
何が起こったのか考えなくても理解できた。
獰猛な一角狼はアルを食おうとしていた。
いや実際にはもう噛み付いた後だったかもしれない。
如何ともし難いどす黒い感情が心に渦巻いた。
次に気がついた時には白銀の狼はただの肉塊に変わっていた。
あまりのことに我を忘れていたのだ。
己の真紅の槍から血が滴り落ちている。
無意識に殺してしまったみたいだった。
だが当然だろう。奴はアルクディウスを殺めたのだから。
横たわったまま微動だにしないアルのもとに跪く。
なんてことだ。
私がもう少し霊峰の危険についてよく言い聞かせていればこんなことにはならなかったかもしれない。あまりにも長くこの地にいたせいで霊峰の危険性を忘れて去ってしまっていた。
私のせいだ。私がアルを殺したのだ。
私の認識の甘さが。殺した。
私の態度の不甲斐なさのせいだ。
私はアルに対してあれやこれやとあまり注意してやることはしなかった。
あくまでも諭す程度だ。
真摯な態度ではなかった。
今となってはその理由がわかる。
彼に対してやましいことがあったからだ。
自分が本当の母親ではないことを必死に隠そうとすることばかりを意識して仮初の安寧ばかりを求め、母親を演じきることのみに集中し、アル本人と真摯に向き合ってなかった。
自らの欺瞞が守られることに安心し、アル自体を考えたことなんて一度もなかったのだ。
あまりに利己的だった。
私が仮にもアルの母親になる資格などそもそもなかった。
だが後悔してももう遅い。
私の涙が幾筋流れようが関係ない。
アルは死んだ。私が、殺したのだ。
数時間はその場を動けなかった。
そして、もう一日はそうしていただろうか。
夜になっても朝がきてもなにも考えられなかった。
考えてたくなかった。
一角狼の死骸には蝿がたかり、悪臭が広がっていた。
ふとアルクディウスの亡骸を見て、違和感を感じた。
彼の体には虫の一匹もたかっていない。
それどころか身体からは腐臭すらしない。
亡骸を一時保存をするための魔法にそういった効果があるものがあると聞いたことはあったが、私には行使できない。
一体どういうことなんだろう。
朦朧とした頭でそう考えた。
次の瞬間、である。
アルの亡骸にどこからともなく光の粒が集まりだした。
それだけではない。遠くにちぎり飛ばされた右腕も、地面に広がって染み込んだ血の跡もアルの体に戻っていく。
私はその様子をただ呆然と見つめていた。
たちまちアルの体に元あったかのようにそれらは収まってしまった。
アルの胸が上下している。
呼吸しているのだ。
私は目を疑った。
先程までは体温すら失われていたのだ。
それがどうだろう。今触れると確かな人肌の温かさを感じる。
服は破れてはいるものの、外傷は全く見られない。
腹に開いていたはずの穴もすっかり塞がり、右腕に至っては切断された跡などこれっぽっちも残っていなかった。
死んだと思っていた者が蘇ったのだ。
魔力の力は感じなかった。
だから魔法ではない。
にわかには信じ難いことだった。
そこにはボロボロの服を来て横たわる少年とその側にうずくまる女性のみが存在していた。




