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第4話  白銀の槍

 深く深く沈んでいくような感覚。

 何も見えず、何も聞こえず、ただ落ちていく。

 ずっと前にも感じたことがある。

 あれはいつだったっけ……。

 


 意識が朦朧とする。

 ここはどこだ……?


 薄暗い電灯。光に吸い寄せられた羽虫が踊っている。

 仄暗い部屋。酷い臭い……主に埃と腐臭が鼻についた。

 俺の住んでいた家。

 子供の頃過ごした部屋。

 壁にもたれかかるようにしてうずくまっているのは……俺に間違いない。

 ボサボサの黒髪はあまり風呂に入れてもらっていない証拠。

 顔や腹や足や腕の痣は殴られた痕跡。



 嫌な記憶だ。


 父の顔は覚えてない。母の話では俺の物心付く前には莫大な借金だけを残して忽然と消えてしまったというから、当然だろう。

 母。顔は覚えている。俺をあの目で見る女だ。

 

 不倫相手を見つけるまでは優しかった人。


 養子。俺にはついぞ、親が誰なのかだとか出生地は何処そこだなんて知る機会がなく、さらに言えば家を叩き出されるまで自分が養子であることすら知らなかった。

 まあつまるところ、あの女の血縁者ではないことは確かだった。


 そう……あの目だ。あの目はこう物語っていた。

 お前は邪魔だ。迷惑だ。面倒くさい。あっちにいけ。どこかに消えてしまえ。お前さえいなければもっと楽なのに。

 よそ者に対する保守的な対応を仮にも身内に対して行っていた。

 こんな憎しみの感情を向けられる子は――親たる存在にだ――多くはないだろう。


 邪魔。我が家の終末期において、子供というものは邪魔と言っても控えめくらいの存在であったことは確かだ。

 父の借金の金額。盗み聞きしたところでは何千万単位の話ではないくらいの巨額らしく、一体全体どうやってそこまで膨大な借金をこしらえたか知りたいところだ。

 そんなものを背負い込んだ上で、血も繋がっていない我が子を養育する余裕がどこに残されているのだろうか。

 俺の記憶では彼女はパートタイムの仕事くらいしか経験がなかったはずで、そんな人間に億単位の金額を返せなんて酷なんてレベルじゃあない。加えて、ヤミ金のような恐ろしい所に借りていたのか、893らしき人達が毎日我が家の玄関をたむろする始末。

 当時の俺にしてみれば何がなんだか分からない。でもあの音は覚えている。扉に硬い物をぶつけるけたたましい音。ガラスの割れる音。とても怖かった。



 …暗い。明かりが意味を為していない。天井の蛍光灯は切れかかっているようだ。


 向こうからの足音。音の主を確認しようと首を上げようとしたがまったく力が入らず、スイカのように重たいままだ。

 ゆったりとした足音だけが耳にねっとりと絡みついてきて、非常に気持が悪い。

 何かを床に擦るような音がそれに伴っている。


 木材と木材の擦れ合う音。


 丁度俺の目と鼻の先辺りで、止まった。


 視界の隅に見えたのは木製の丸い物体。これは……バットだろう。バットの先端部分だ。

 このバットは俺の肌によく馴染んでいる。

 俺に野球経験はない。


 あの女が、俺に使っているのだ。

 ふと視界からバットが消失した。


 鈍い音。柔らかいものに硬いものをぶち当てた時の、すっきりしない嫌な音。

 バットをクッションに思い切り打ち込むのがこの光景に近い

 バッドのフルスイングが俺の腹部を殴打する。

 

 最早痺れて感じないほどの痛みと、嘔吐感の後の食道を通り抜けていく吐瀉物が突き抜ける。

 いかに貧乏で一日一食食べれるかどうかの生活をしている女の力でも、五歳児の骨を粉砕するのには事足りていて、既に息をしようとしても上手くできない。

 

 再び俺の視界にバットの先端が帰ってきた。やあ、久しぶりだな兄弟。調子はどうだ? 今日の一撃はいつにもまして強烈だな。危うく意識がフライアウェイするところだったぜ。


 バットの表面は度重なる酷使で木片が毛羽立ち、釘バットと遜色なくなってしまっている。

 あの女の最近のトレンドはバットで、結構前までの平手打ちや拳の生易しさに対し、最近の武器を使用する傾向はこたえる。涙すら許されない激痛は子供には到底耐えられるものではない。


 大人になって忘れていた記憶。虐待の記憶。

 

 バットが視界からまた消える。

 腹部に叩きつけられる激痛。

 あの女が何かブツブツ言っている。


 お前のせいで……お前のせいで……


 恨み言。


 繰り返される殴打。何度も何度も。終わりの見えないものほど恐ろしい物はない。


 怖い。


 痛い。痛いよ。

 やめてよ。痛いよ。

 本当に。死んじゃうよ。体中から変な音が。

 痛い。痛い。痛い。

 嫌だよ。嫌だ。嫌だ。

 

 死にたくない。死にたくない。死にたくない。




><><><><




 目を開ける。見知った天井。かなり古い木材が組まれた馴染み深い天井。

 小屋だ。

 我が家。

 その中で俺は寝ていた。

 いつも寝ている小さいベッドの上だ。


 体をゆっくり起こす。衣服は……汗でひどく濡れてしまっている。

 ひんやりとした空気が汗を冷やし、体を覚まし、頭を冴えさせていく。

 窓から陽の光が差し込んでいる。

 影の長さからして今は午前中だと分かった。


 悪夢を見ていた。もうずっと昔の夢。しかも今生のものではない。

 前世の幼少期の記憶。

 孤児院の前に五歳児をぶち込んだ段ボールが放置される前の話だ。


 転生して前世におさらばした俺にはもう関係のない……話だ。

 

 それよりも気になることがある。


 俺は、どうしてここで寝ているんだ?


 いつもの秘密の散歩に行って、森を見つけた。興味本位で立ち入り、道に迷った。方角も分からず歩いていて……。


 一角狼(エイダル・ルイホーン)に出くわした。

 本の挿絵から想像していたサイズより遥かに大きい個体。縄張り意識の強い生物。


 禍々しいほど美しい一本角。

 それが俺の、腹を貫いた。

 その筈だ。


 服をまくってお腹を見つめてみる。

 色白の肌。傷は……見当たらない。

 たしかに俺は、服に広がるどす黒い血を見た。生暖かい血に濡れた布の感触と生臭い鉄の臭いを覚えている。

 腹に空いた大穴もこの目に焼き付いている。もう一生忘れることができないだろう。

 

 そして、右手だ。

 服をまくった腕は右側だった。

 

 右手は――正確には肘から先だが――跳びかかってきた一角狼(エイダル・ルイホーン)から咄嗟に身を守ろうとして前に突き出し、そのまま食いちぎられた筈。あの時あまりのことに急速に目の前が暗くなったのを覚えている。痛みのショックで気を失ったのだろう。

 

 左手で右腕をさすってみる。すべすべしていて触っていて気持ちがいい。流石子供の肌だ。

 こちらにも怪我がない。力を入れて右腕を揉んだりして骨の形も確認してみたが、俺の感覚では全く異常がないように思える。


 気を失うその瞬間までがしっかり頭に残っている。

 じゃあ何故、体に何事もないんだ?


 小屋の中を見回す。ベッドのこちらから見て左脇に椅子が有り、そこに白髪褐色肌の麗人が腰掛けたままゆっくりと船を漕いでいる。


 メトセラだ。俺を拾ってここまで育ててくれた母。血がつながってない俺に愛情を注いでくれた女性。

 心なしか顔をしかめているようにも見える。


 俺はベッドから身を乗り出して彼女の手に触れた。

 メトセラの目が一瞬で見開かれる。


 瞳がゆっくりと俺の顔へと向いた。

 燃えるように輝く金色の瞳が俺を捉えた。


「……アル」


 いつもとは違う声音。疲れが見て取れる。


「起きたのか」

「うん」


 素直に首肯する。

 メトセラの眼光は、寝起きにしては鋭く俺を射抜いていた。

 普段のメトセラは起床後暫くは眼光はこんなに鋭くない。

 いつもとは違う、母だった。


「アル………お前は昨日一体自分が何をしていたのか、話せるか?」


 咎めるような口調に鳥肌がたつ。昨日、ということはもう一日経ってしまったのか。


 俺はメトセラに秘密で、外出していた。外を歩き回っていた。

 『霊峰(エレンヘナ)に住まう伝説の獣達(ホルト・クリスト)』を読んでいた俺には分かっていた。この霊峰が、とんでもなく危険だということを。

 一歩先には、死が潜んでいる。ここいらの獣にとって4歳ちょっとの子供なぞ餌以外の何物でもない。気候も厳しく人間が住みやすくはない土地だ。本からは十分そう伝わってきた。俺もそれを認識していたはずだった。

 だけど……。靴と外套をもらってからは浮ついていた。メトセラとの暖かな日々に慣れてしまった俺は、その他の何かを求めてしまった。今なら分かる。この時の俺は調子に乗っていた。


 危険だというのを分かっておきながら、一人でも大丈夫だろう、なんて思っていた。家から遠く離れなければと。結果として遠くまで行ってしまったのだが。

 生活への慣れが危機意識を低下させた。

 本来ならもっと方法があったは筈だ。メトセラに外に行ってみたい、と素直に頼めばよかった。

 なんで俺はそれをしなかったんだ?

 

 メトセラに大変な迷惑を掛けたのだろう。長時間歩き続けた記憶があるから、俺の感覚では小屋から森は大分離れていたように思う。

 おまけに大怪我もしていた。何かしらの方法でメトセラが治してくれたのだろうか。それ以外に説明がつかない。この世界には体の部位欠損すら直せる術があるのだろうか。それは最早魔法だ。 

 大変な手間を掛けた。


 メトセラは俺を迷惑に思っているのかもしれない。捨て子を拾って育ててみれば目を話したすきに自ら死へと猪突猛進する馬鹿な子供だったとか。


 このままでは、まずいかもしれない。生前のようになるかもしれない。

 俺が手間の掛かる子供だと分かれば、俺を……どうにかしてしまうかもしれない。

 言い知れない恐怖が心の奥底から持ち上がってくる。

 今までも育ててもらう上で手間はかけていたかもしれないが、それでもだ。

 命にまで関わることに首を突っ込む馬鹿は。血のつながりのない息子は。

 家から追い出されるかもしれない。


 質問に答えず黙ったままの俺をメトセラは見据えている。


 ここでの俺の発言で、今生の俺の人生が決まるかも知れない。

 これは人生の岐路だ。ターニングポイントなのだ。

 ならばやるべきことは一つだ。


「ごめんなさい」


「……?」


 メトセラの首がかしげられてしまったが謝罪の言葉を紡ぎ続ける。


「ごめんなさい。本当にごめんなさい。何も言わずに、お母さんに秘密で外を出歩いていました。そしたら森で迷って……大きい狼に襲われました。本で読んで知ってました。恐ろしい獣がたくさんいるって、知ってました。なのに出歩いてごめんなさい。手を掛けさせてごめんなさい。迷惑をかけてしまってごめんなさい」


 必死に謝り続ける。頭を下げる。

 もっと謝った方がいいだろうか。

 これでは足りない気がする。もっと謝らなければ。ここから追い出されるのだけは御免だ。

 今生では前世の様になりたくない。

 願わくば、またメトセラと穏やかな生活をしたい。メトセラに、嫌われたくない。


「ごめんなさ…」

「なんで、そんなことを言うんだ?」


 謝罪を続けようとして遮られた。頭を上げてメトセラを見る。

 困惑と悲痛が複雑に混ざった表情。

 目からは一筋の涙が流れていた。


「え……だって一杯迷惑をかけて…」

「当たり前だろう! お前はまだ子供なんだぞ!」


 メトセラの大声。今までに聞いたことのない声に身が固まる。


「子供は、親に沢山の迷惑を掛けて育っていくんだ! まだ知らないことも多いのだから間違えて当然だ! 最初から間違えない子供なんてのはいない! 許しを乞う必要なんてどこにも有りは……しない」

 

 メトセラの顔が更に歪んでしまう。お、俺が何かまずいことでも言ってしまったのだろうか。


 「むしろ……むしろ謝らなければならないのは私だ。私なんだ。アル。お前に私は何も言っていなかった。外で遊びたい年頃だろうに何も言わず小屋に閉じ込めていたのだ。私に黙って外に行くのも当たり前だ。最近外に出ていたことも知っていた。知っていて何も言わなかったのだ。この霊峰の恐ろしさも何も言っていなかった。私の配慮が足らなかった。お前を見守るばかりで助言も何もしなかった。何も言わずとも育っていくお前にすっかり安心しきっていた……」


 呆然とメトセラの言葉を聞く。

 ふと手が伸ばされ、俺はメトセラに抱きしめられた。


「すまない。アル。本当にすまない……。不甲斐ない私を許してくれ。これからは、お前に沢山話しかけるから……お前を一人にはしないから……」


 そのままメトセラは黙ってしまう。

 沈黙。


 一体何が起こっているんだろう。

 俺は、彼女の言葉は聞き取れてはいても、内容が頭に入ってこなかった。

 メトセラが悪いことなんて1つもない。これまで、メトセラは俺に沢山の愛情を注いでくれたように思う。それだけで、俺は。俺にとっては十分過ぎる。

 メトセラは俺にとって十分母親としての役目を果たしているように思える。

 彼女が謝る必要なんてどこにもないのに。

 

 ここは俺を叱るところだろう。

 

 勝手に出歩いて自ら危険に飛び込んでいったのは俺だ。

 転生してから、どこか夢心地の気分でいて、全く気を張っていなかった。

 今までの生活があまりにも良くて、現実味がなくて。それでそのままの意識で外に出歩いてしまった。

 

 本来ならば日頃考えなくてはいけないことだ。

 世界は、恐ろしく危険なところだと。

 出歩くならば、自らもそれ相応の準備をしていかなければならないのだ。

 それは前世でも、今生でさえも変わらぬことなのだ。




><>< 




 どれ位時間が経っただろうか。

 未だメトセラにベッドの上で抱きしめられたままだ。

 義理の母とはいえ、少し恥ずかしい。

 そして、彼女の胸がその……当たっている。メトセラの体の曲線に見事に合致した美乳である。


 ふう……さっきまでシリアスな雰囲気だったというのに俺はなんてやつだ。

 外見は五歳児でも中身は成人した男だ。色々と仕方がないというものだ。


「メトセラ? その、もうそろそろ……」

「ああ、すまんな。苦しかったか?」

「え、いやそんなことない……ですけど」


 つい敬語になってしまった。

 メトセラは俺から手を離すと再び腰掛けていた椅子におさまった。


「すまない、少し取り乱してしまってな。お前ぐらいの歳の子供が言い訳もせずに素直に謝るとは思わなかった」

「うん」

「私はな、アル。お前に沢山迷惑をかけて欲しい。今までと同じようにこれからも、な。だから例え失敗しても謝らなくていいし、遠慮もしなくていい。次同じことを繰り返さなければいいんだ。私をもっと頼ってくれ」

「……うん」


 正直、そこまで母親に迷惑をかけていいものなのだろうか。生前では、迷惑をかければ、そのしっぺ返しが来ることのほうが多かったのだが。

 でも、メトセラがそう言うのなら、そう従ったほうがいいのだろう。これは別にメトセラを信頼していないということではない。

 だが彼女の泣いている顔は、なんというかあまり見たくない。親が泣いているというのはあまり気持ちの良いものではない。

 

「ところでなんだが、アル。お前に一つ提案がある」

 メトセラはそう言って椅子からこちらに身を乗り出してくる。


「お前はもう、4歳になったな。少し早いと思うが、まあいい。今回のような事態が二度と起こらないようにしたい。そこで、お前に自分の身を守る術を教えようと思う」


 身を守る術。護身術。必要なことだ。世界はいつも危険で、いつでも死ぬ可能性がある。特にこんな土地で暮らしている俺には欠かせない。


「別に今すぐに身に付けろとは言わない。ただ、今から始めるのだ。今からなら、10年もすればお前を襲った一角狼(エイダル・ルイホーン)に殺されることもなくなるだろう」


 10年。14歳位であの人間の背丈を大きく超える化物をやっつけることができるようになるということか。いや無理だろう。どんな術を習うのか知らないが、あれを倒すなんて想像もつかない。

 武器を使っての物理攻撃など通じないように思う。1回しか見ていない上に子供視点からだったから本来より恐ろしく見えたかもしれない。しかしそれを加味しても、あれを殺すにはそれこそ魔法のような奇跡の力が必要だろう。


 魔法。そう。俺の傷を治したのはおそらくメトセラの、魔法に該当するなにかによるものなのかもしれない。それを使ってメトセラは一角狼(エイダル・ルイホーン)から俺を救い出し、やつを撃退ないしは殺したりしたに違いない。

 そういう前世には存在しなかった力というのには、少し憧れがないでもない。

 しかしこういう場合、小説でよくあるのは元々魔力の素質がありました、だとか天才でした、というパターンが多いものだ。

 俺は、大丈夫なのだろうか。……だめだろうな。


「お母さん。あの、俺の傷を治すのに使ったやつとかも教えてもらえるんですか?」


 俺は純粋に質問をぶつけてみた。しかしメトセラは何も言わず、ただ目を見開いてこっちを見ていた。あら、また何かおかしな事を言ったかな。少し話をすっ飛ばしてしまったのかもしれない。


「……治した、だと?」

 

 メトセラはそう言ったまま文字通り固まってしまった。微動だにせぬままこちらを見つめている。心なしかその顔は青ざめているように見えた。

 しばらく沈黙が続く。


「え、ど、どうかした?」


 静寂に耐え切れず口を開いて見たが、メトセラは黙ったままだ。

 いや、よく聞くと小声でなにか言っている。


「あれは、確かに……。いやでも……アルダ…―……なのか? しかし……」


 あまりに声が小さいため途切れ途切れにしか聞こえない。聞いたことのない単語も聞こえたが何を指しているのかサッパリだ。


「お母さん?」

 少し声量をあげてみる。


「ヴぇッ!? あぁ……いや……」

 素っ頓狂な声を上げるメトセラの顔を覗き込む。何か考えているような、険しい顔。あまり見たことはない。その顔に、いよいよなにかメトセラを困らせることを言ってしまったのかという疑念が湧き上がる。

 しかし次の言は逆に俺を固まらせた。


「お前は、怪我をしていなかった」

「え?」

「私はアル、お前が襲われる瞬間に割って入った。一角狼(エイダル・ルイホーン)を始末した後、確認したから間違いない……。何も、なかった。傷は……なかった」

 メトセラは自分に言い聞かせるかのように声を絞り出した。


 どういうことだ。

 怪我をしていなかった(・・・・・・・・・・)

 それは有り得ない。確かに俺は腹からこぼれ出るおのが血の温かさをこの手で感じたし、主人の肘からすっ飛んでいった右腕をこの目で見ている。名状しがたい痛み、違和感すらも思い出せる。


 怪我をしていない、傷を負っていないということは、これらの感覚は偽りで、俺は白昼夢に恐怖し気絶していただけ、ということになる。


一角狼(エイダル・ルイホーン)の一角に貫かれれば命はない。もしそうなれば、アル、お前はここにはいない。そうだろう?」

 メトセラの諭すかのような一言に疑念が揺らぐ。確かに、そうだ。俺が見たあの獣の角。あれに刺突されるなんて想像したくもない。


「それに私は致命傷を治せるほどの魔術(エネーディア)魔法(エネディクトラ)も使えはしない。だからもう少し私の到着が遅れていたら、お前は……死んで、いた」


 つまるところメトセラは俺を治してなどいないということか。エネなんちゃらが何だか知らないが、おそらく傷を治す術か何かかもしれない。

 仮にメトセラの言が嘘っぱちで俺が本当にあの狼から傷を頂戴していたとして、外部からの施しなしに今の体の状態まで全快するわけがなく、あったとしてもそれは俺に人にあらざる治癒力等の自前の方法が備わっていた場合だ。

 しかし、今生のうち椅子から落ちる、紙の端で指を切る等しても傷が治るのには大変時間がかかった。自然治癒で元通りになったということだ。つまり異世界転生モノ小説のチート能力など俺には存在せず、紛れも無いただの人間であることが分かる。

 であるならばあの痛みは、あの感触は、あの臭いはすべて幻想だったということが、妥当な現実のように思えてならない。

 

 そもそも母たるメトセラを疑ってしまっている。メトセラの言葉には生前は大変馴染み深かった嘘の匂いが全くしない。ならば彼女の言った通りの事が俺に起こった、ということなのだ。


「分かった。分かったよお母さん。変なこと言っちゃってごめんなさい」

「いや別にいいんだ。なんでも、聞いてくれて」


 そう言ったメトセラの顔が曇って見えたのは気のせいだろう。


 

 その日はそのまま家で過ごした。メトセラも家から一歩も出ることはなかった。




><><><><




 その次の日、メトセラは一日中小屋に閉じこもってあるものを作っていた。


 槍。

 彼女は自慢気に教えてくれた。


 驚くべきことに、メトセラはあの一角狼(エイダル・ルイホーン)の角を持ち帰っていた。

 白銀の角は、窓から差し込む日光に照らされて宝石のように、恐ろしいほどに美しく輝いていた。それを削り出して一本の槍にするという。

 角を触らせてもらったが、明らかにただの角ではない。

 形は表面に模様のある円錐をしており、まるでコンクリートやフローリングの床を触っているかのようにすべすべの触感に加え、一番太いところでメトセラの太ももくらいの太さに、長さが目算で4メートルはある。だというのに四歳児の俺でもギリギリ持ち上げられる。

 さらに異常に硬い。といっても四歳児の力では何でも硬いのだが。

 要するに前世には存在しないであろうと思われるくらいの神秘感をそれは纏っていた。


 メトセラは珍しく、朝から狩りに行くこともなかった。俺と一緒に朝飯を食べ、茶――日本のような緑茶ではなくほうじ茶に近いもの――を飲みながら俺と過ごした。右手には真っ赤な刃先のナイフ大のものを握り、先程の一角狼(エイダル・ルイホーン)の角を削っていた。


 真紅の刃はまるで豆腐を扱うかのように角をさっくり削ったかと思えば、ヤスリのように表面をすり減らしたりも出来るようだった。まるで切れ味を自由に変更出来るかのようだ。

 その紅の色に見覚えがあったので聞いてみると、やはりメトセラがいつも肌身離さず持ち歩いているあの真紅の槍そのものだったらしい。

 槍の大きさを自由に変えられるらしく、いつもの槍状の形の他、ナイフのような形、さらにはもっと小さくして持ち歩くこともできるという。


 明らかにただの槍ではないが、それ以上の情報を聞くのは憚られた。メトセラがあまりにも槍を作るのに集中していたため、邪魔をするべきではないと思ったからだ。


 メトセラの金色の瞳は角をまっすぐ見据えていて、その手先に余念はない。

 褐色の肌と白い髪は日光に照らされ、色のコントラストがパリっとしていて美しい。

 我が母は、今日も綺麗だ。

 明らかに20代の体つきだが、目つきがそれではない。鋭くありながらどこか柔らかな印象を受ける眼差しは老年の女性を思わせる。つまるところ、ミスマッチなのだ。

 一体何歳なんだろう。


 窓の外からは快晴の青さが見てとれ、明かりは蝋燭くらいしかない薄暗い小屋の中は、暖かな明るさに包まれている。

 所謂高原の気候というやつで、ここらにあと草原と山羊とハ○ジでもいれば完璧なのだが、生憎そこまで豊かな土地でもない。

 それでも心地良い陽気なので少し外に出てみたい気持もあったがそれはしない。

 というのも外に出ようとすると、もとい小屋の外へと通じる扉の近くにいるとメトセラからの視線をもらってしまうのだ。それはもう射殺すぞ、と言わんばかりの眼光で。

 睨みつけるという程ではないが、メトセラはわざわざ作業を止めてまでこちらを見てくるので、言外に行くな、と言いたいのだろう。


 なので俺はメトセラの近くの椅子に座り、机に何冊か本を置いて茶を飲みつつ読書するという贅沢な過ごし方を満喫していた。こんなにゆったりしたのは前世でも両手で数えるくらいの回数しか無い。つい最近当たり前になってきてしまっていた幸せをもう一度実感していた。

 

 会話はほぼほぼないが、どこか満ち足りている。


 そうしてメトセラは一日中槍作りに精を出していた。




 あくる日、である。

 朝ご飯も早々にメトセラはいきなり己の真紅の槍を取り出した。


「アル。表へ出ろ」

 メトセラはそう言い残すとそそくさと外に出て行ってしまった。


 突然のことに呆気に取られながらも、俺は例の外用の靴を履いてメトセラに追随した。

 朝方だが昨日と同じく日は照っていて、外套を羽織らねばならないほど寒くはないので、靴以外は着の身着のままだ。


 扉を開けて外に出た。2日ぶりの外である。


 本日も快晴の群青色があって、悠久にそびえる山々は頭をを持ち上げてやらないと頂が見えない。

 山々の雪化粧はまだ当分落とされることはないだろう。


 メトセラは俺の方を向いて立ち尽くしていた。右手には地面に突き立てた槍を握っている。左手には灰色の毛皮製の袋で包まれた2メートルぐらいの棒状のものを同じように地につけている。表情は緩く、無表情ですらある。

 立ち姿は草木の生えない不毛の大地に一輪の花が咲いているようだった。ここらの大地は黒色で、彼女の白髪は目立つ。時折風になびく髪は白色の花弁に見えた。


「約束通り、お前に身をまもる術を教える」

 

 はい、と俺は返事をした。返事は必要不可欠だ。メトセラは俺の母親であると同時に、先生にもなるのだから。教えてもらう以上、親しき仲にも礼儀ありだ。


「これを」

 メトセラはそう言って左手で袋に包まれた長い棒状の物を俺に手渡した。


 軽い。非常に軽い。

 袋は白銀の毛皮で出来ている。おそらく一角狼(エイダル・ルイホーン)由来であろうそれを手の中で滑らせながら、慎重に紐をとく。


 出てきたものは、これまた白銀の美しい一本槍だった。


 俺の身長の大体二倍くらい、2メートルほどの長さの槍。槍の刃、穂は50センチ、柄は150センチくらい。表面には微細な芸術的模様が入っており、メトセラの技術の高さが伺えた。

 柄を握ってみると、完全な円ではなくほのかに楕円形をしているのが分かる。大変握りやすい。

 穂の形は槍によくある平たい三角錐ではなく、平面の二等辺三角形をしていて柄と一体化するように根本の角が丸く流線を描くように穂先に終結している。


 凄い槍だ――なんて槍については何も詳しくないが、素人目に見ても洗練されたデザインからは神聖さすら感じ取れた。

 一つの角からそのまま削りだした一本物。穂と柄が別々の素材で構成される普通の槍とは全く異なるだろう。剛性という点でも、取り扱いという点でも。


 毛皮の袋を綺麗に折りたたんで置き場所に困る。ここらの土は湿っているため物を置くと汚れてしまう。


「地べたに置いていいぞ」

 メトセラの助言に、多少ためらいながらも黒色土の上に置いてしまった。母の忠言には逆らわない。あとで土を払おう。


「さて、アル。身を守るために必要なものとは何だ」

「武器、ですか」

 何も考えず漠然と答えてみた。今手にあるのが槍だからだ。


「確かに武器は重要だが、それを扱うのは私達だ。本当に必要なものは私達の心の在り方。心構えだ」

 メトセラが自分の胸の辺りを指差しながら言う。

 

 確かにそうだろう。どんなに強い剣でも心に意思ががなければナマクラと化す。どんなに弱いバットでもその心に意思があれば鬼の棍棒となる。


「それは基礎だ。戦いだけではなく、身を守ることだけでなく、全ての基盤だ。生きるための基石だ。言葉では理解できても、これを体で実感し、納得するのはとても難しい。まだ幼いお前に、心構えを説くのは酷であるとも思う。しかし、ここは霊峰だ。この山々はとても危険な場所だが、とても美しい。小屋より出て、お前がここらを歩きたいというならば、私にはお前に、身につけさせねばならない。心の振る舞い方を。己の心の扱い方を」

 抽象的な話だが、言葉に重みが有り、どこか現実味を帯びている。心を構える。コントロールする。至極簡単な言葉で至極難しいことだ。


「であるから、最初に槍を教える。かつて私もそうだったようにお前も槍より学べ。槍は己の身の丈より長く、取り回しづらい。しかし槍は自分と他者との間合いを教えてくれる。槍を振り回せば自分もそれに引っ張られるだろう。だが槍はお前に他者との息の合わせ方を教えてくれる。心は常に他者に影響される。槍はそれらからお前を守る尺度となる。槍から、学べ」


 そういうなりメトセラは俺の隣まで歩いてきた。そのまま流れるように真紅の槍を構える。体に一本芯が入ったかのように真っ直ぐだが、まったく力んでいない。槍の根本は上段に。穂は下段に。


「私の真似をしろ」



俺の修行が、アルクディウスの修行が始まった。


 



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