仕上げの味噌、熊の影、そして天麩羅の夢
言葉を紡ぐというのは、どうにも不思議な営みである。
五・七・五という器に言葉を盛ることもあれば、その器をあえて叩き割って、生身の感情をさらけ出したくなることもある。
最近、私の心の台所から、そんな凸凹な三つの言葉(句)が生まれ落ちた。
まず、私の生き方の根底にあるものを、型に嵌めずに吐き出した自由律の作である。
「家訓には 仕上げにふたつ 味噌と塩」
季語もない。定型でもない。だが、人生の「仕上げ」に本当に必要なのは、奇をてらった智慧や飾りではなく、誰もが知る基本(味噌と塩)を愚直に守ることではないか。そんな暮らしの真理を、飾らぬ言葉で置いてみた。
かと思えば、自然の猛威と人間の可笑しみに振り回されることもある。
春の息吹に誘われて山へ入った時のことだ。
「若芽摘み 熊恐ろしし 糠待ちし」
山菜採りののどかな空気は、茂みの奥の気配一発で、命がけの緊迫感へと一変する。心臓をバクバクさせながら、命からがら持ち帰った若芽。さあ食おうと思いきや、アク抜きの「糠」の準備がまだできていない。
熊の恐怖に怯えた直後に訪れる、なんとも言えない日常のじれったさ。この落差こそが、人間の愛おしい業というものかもしれない。
しかし、そんなスリルを乗り越えた先には、やはりこの世の極楽が待っている。
「山ほどに 天麩羅食べて 夢の中」
揚げたてサクサクの天麩羅を、お腹がはち切れんばかりに平らげる。口いっぱいに広がる旨味と満足感。そうなれば、あとは心地よい睡魔に身を任せ、布団へ吸い込まれるだけだ。満腹から睡魔へ、そして幸福な夢の中へ……。これ以上の贅沢が、果たしてこの世にあるだろうか。
自由律で生き方を語り、有季定型で命のやり取りと至福の時間を切り取る。
私の打つ不揃いな三つの歩調が、誰かの心のどこかに、いい塩梅の出汁となって染み込んでくれれば幸いであります。




