第四章 天使の降臨(2)
誰かが名前を呼んでいる。なんだかとても懐かしい音だ。体の中がほんのりと温かくなるのに、喉の奥がきゅっと摘まれるように苦しくなる。
そうだ。自分はこれが好きで、ずっとこれを探していた。
「日下部、起きて――」
――会いたい。
彼女はどこにいるのだろう?
辺りは真っ暗な闇だ。声はあちこちに跳ね返ってはっきりしない。四方の感覚はなく、そもそも体がまったく動かないし、声も出ない。早くしなければまた失ってしまうかもしれないのに――。
瞼を懸命に押し上げようとするが、固く閉じられてびくともしない。日下部の中に焦りだけが積もっていく。
どうしたらいいの?
「こっちだよ」
言葉と共に、何かが肩に触れた。
その瞬間、すっと全身から重力が引いていくような感じがした。何もかもが軽くなる。じわじわと指先までの感覚が蘇り、微かな木の匂いが鼻をつく。あんなに重かったはずの瞼はいとも簡単に退いて、射し込んでくる眩い光が暗闇を散らす。
学校だ。
日下部は教室の自分の席に座り、机に突っ伏していた。だが、何かが変だ。誰かの話し声どころか、雑音一つ聞こえない。
ゆっくりと体を起こす。自分以外の席はすべて空席だ。窓の外は明るく、ちょうど夕暮れに染まり始めた雲の色をしている。静かすぎて、怖い。まるで時間の流れすらも止まってしまっているかのようだ。
「日下部、起きた?」
耳に届いた声は今までよりも近くクリアだ。落ち着いた、少し低めの、女の子の声。目の前にいるのはわかった。けれど急に、それが違っていたらどうしようと怖くなる。そこにいるのが自分の思う、望む人でなかったら?
見慣れたセーラー服の紺色が机の向こうに立っている。その顔を拝むまでに随分と時間が掛かった。日下部がゆっくりと顔を上げ、視線が重なるまで、声の主は何も言わずにじっと待っていてくれた。
「久しぶりだね」
呆然としてしまって何も出てこない。言いたいことも訊きたいことも溢れんばかりにあるはずなのに、今は真っ白で何一つ思い出せない。
目の前のアリマは日下部の記憶にある通りの姿だった。日下部と同じ制服を着て、人形のように整った顔は相変わらずのポーカーフェイス。本当に久々に再会したというのに口調すら変わらず、寂しさや喜びの欠片も窺えない。
日下部は徐に右手を伸ばした。確かに彼女がここに存在していることを震える指先が教えてくれる。
「ホントに、アリマ? 偽物じゃない?」
「本物だよ」
腕を掴んで引き寄せる。抱き締めるとアリマの匂いがした。
「今までどこ行ってたの? 心配してたんだよ? 皆、アリマのこと知らない知らないって……」
「うん、ちょっと……」アリマは大人しく抱かれたまま首を傾げる。「アクシデントってやつかな」
アリマは日下部の体を少し離して、真正面から視線を合わせてきた。
「……やっぱり日下部は私のことをまだ完全に憶えているんだね」アリマは淡々と話しているが、こればかりは少し淋しそうに聞こえた。
「憶えてるよ。忘れるわけないじゃん」
「和登に聞いたでしょ? 宇宙人の話」
「……聞いたよ。けど……あり得ないよねぇ、宇宙人とか。しかも酷いんだよ、先輩ってば。アリマのことは忘れろなんてさ。無理に決まってんじゃんね、そんなの」
当たり前でしょ、と言ってくれたらいいのにと願っていた。しかしアリマは僅かに目を伏せて、ふと息を吐いた。
「日下部が信じないのも、混乱するのも無理ないよ。この世界は、明らかに遅れてる。他は皆この世界の存在を知ってるって言うのに、ここではまだ『宇宙人はいない』っていう常識が通っているんだから」
「それ、和登先輩も同じこと言ってた……」
アリマはくすりと笑った。こういう顔をするのは珍しくて、隙を突かれたようでドキッとしてしまう。
無意識のうちに彼女に見惚れていた日下部は、おいで、とアリマに言われて我に返った。彼女は机の間を縫って教室の前方へ向かうと、開けっ放しの戸から廊下へと出ていった。
その後ろ姿を見失わぬよう、日下部は小走りに後を追いかける。いつも見ているはずの廊下はぼんやりと全体的に白っぽい印象が強く、馴れ親しんだ場所の安心感は抱けない。先生も生徒もおらず、時間が止まっているかのように静かだ。
「実際ね――」前を向いたままアリマが口を開く。「皆、今までに何人も私みたいな宇宙人に会っているんだよ?」
「え、嘘」
「本当。他にもこの世界にはたくさんいるから。ただ普段はこの世界の生物の姿をしているし、いなくなると必ずその記憶は改竄されていくから、誰も憶えていないだけ。記憶上は最初から存在しなかったように辻褄が合っていくの」
日下部は足を止めた。
「あたしも……そうなるの?」
いつかアリマも、存在しなかったことになるの?
「それでいいんだよ」振り向いたアリマは微笑んでいた。「私は宇宙人だから。それは正常なことだよ」
アリマの表情は優しいが、真剣に話しているのだということはひしひしと伝わってきて息苦しい。
「やだ」日下部は頭を振る。「忘れるくらいだったらあたし異常でいいし」
「それだと私が困るよ。私は、もうすぐ本当にいなくなる。もうすぐ仕事の任期が終わって、自分の世界に帰るから」
「……アリマの仕事って、何なの?」
「和登は教えてくれなかった?」
日下部が頷くと、アリマはふと鼻息を漏らした。それから少し何か考えているように首を傾げる。
「そうだね……簡単に言うと、宇宙人の侵攻からこの世界を守る正義の味方」
「何それ。カッコイイじゃん」
「聞こえはいいけど、そんな綺麗なものじゃないんだよね」
その時、轟音と地響きが日下部の足元まで伝ってきた。金属の擦れるようなけたたましい音が辺り一面に響き渡る。
「何⁈」
しっかりと踏ん張っていなければひっくり返ってしまう。が、アリマは整然とそこに立っていて、じっと廊下の向こうを睨んでいた。
彼女の視線を追うと、爆音と共に何かが床を突き破って顔を出した。灰色のトカゲのような顔をしているが、見上げるほど巨大なトカゲなんて聞いたことがない。手は鋭く尖って、皮膚からは湯気が立ち上る。
「な、何、あいつ⁈」
「宇宙人」
「は⁈」
「日下部、私の仕事はね……――」
「ちょ、呑気にそんなん言ってる場合⁈ 早く逃げなきゃ――」と言いかけて、日下部ははっと言葉を呑み込む。
アリマはあの巨大な怪物に、黒くてごついものを向けていた。何かはわからないが、右手に握られたそれが機械で、相手を攻撃するためのものであることは一瞬で悟った。
「これが、私の仕事なの」
彼女の声はハッキリと聞こえた。
怪物は校舎の床や壁をいとも簡単に引きちぎり、大きなコンクリートブロックがガラガラと音を立てて落ちていくその衝撃が全身を貫くかの如く伝わって、日下部は立っていることすら危うい。それなのにアリマはまったく動じることなく、ただ口元だけが短く何かを発したように見えた。
彼女はメガホンのような形をした黒い機械の引き金を引いた。音はなく、そこから弾丸が発射された風もない。ただアリマは何度も何度も引き金に掛かった細い人差し指を動かした。表情一つ変えず、その目はあの巨大な怪物だけを捉えて。
日下部が怪物を見ると、トカゲの顔にも体にも大きな穴が開いていた。やがて怪物はボロボロと焼けた家屋のように崩れ、あっという間に湯気と共に蒸発してしまった。
ハッとしてアリマを見ると、彼女はもう黒い機械を持っていなかった。いつもの無表情なアリマが、怪物が破壊した跡だけを見つめて立っている。
「アリマ……?」
アリマは日下部に目をやると、これが私の仕事なの、ともう一度言った。日下部には『これ』がよく理解できない。あの黒い機械の引き金を引くこと? 怪物に穴が開いたこと? 怪物が消え去ったこと?
それらすべて、アリマがやったの?
「あれ……何なの? どうなったの?」
「今のは本物じゃないよ。でも、ああいうのがいるの。日下部の世界を壊そうとする、悪い奴」
アリマは日下部のほうを向く。「私はずっと、あれと戦ってるの」
「……アリマが?」声が霞んでしまう。目の前にいるアリマは凜として、強くて、日下部の知っているアリマじゃない。「あんたは、誰なの?」
アリマは淋しそうに笑うだけで質問には答えず、代わりに今度は階段を上がり始めた。
一瞬、ついて行くか迷った。もしあれが偽物だったら、と自分が自分に囁いてくるのだ。そんなはずはないと否定しても、自信のない主張は頼りなく揺らいで、正直な両脚はすぐにたじろいでしまう。情けない奴だ。友達なのに、本物か偽物かすら見分けられないなんて。
日下部は床を蹴り、階段を駆け上がった。いいじゃないか。偽物だったら捕まえて、本物はどこなんだと問いただしてやるだけだ。
アリマは途中階には止まらず、最上階でドアを開けた。屋上へ出る扉で、普段は鍵が掛かっているはずなのだが、アリマがノブを回すと何の抵抗もなく開いた。
外はよく晴れていたが、冬の日の太陽はどこか弱々しくて、辺りはホットミルクのような色に霞んでいた。てっきり夕暮れ時だと思っていたが、この空気はどちらかというと日の出時刻に近い。攻撃的でも感傷的でもなく、ただ静かに沈んでいる。
フェンスの手前まで歩いていくと、向こう側に街が見えた。もう三年も通った学校なのに、ここからの景色は初めてだ。
道路にも校庭にも、見渡す限り人気はない。校内と同様静まり返って、夜明け後間もないような澄んだ雰囲気だけが辺りに漂い、乳白色の空気が街を埋めている。ここはどこなのだろう? 住み慣れた街であるはずなのに、そんな疑問すら抱きたくなる。
「日下部」
右を向くと、アリマがこちらを見ていた。いつもと同じ、表情のない人形のような顔。
「私は、本当は有馬栗珠でもない」落ち着いた声が滑り出す。「日下部にとっては有馬栗珠でも、本当は違う。この姿も……この世界に浸透しやすいように人間の姿を借りて、ただ仕事だからここでこうして生活しているだけ。人間のふり、女子中学生のふり、有馬栗珠のふりをして、ね」
「ホントのアリマは? アリマもあんな恐竜みたいな奴なの?」
「あんなガサツなのと一緒にしないで」少し口調がムキになる。
「ごめん」
「……どんなかな? 定まった形はなくて、まぁしいて言うなら半液体かな」
「何それ」
「とりあえず何にでもなれるから。日下部にもなれるし、人間じゃなくても。決まった規格がないから、自由に何にでも。だから……結局、私は、何でもないってことかな」
「そんなことない!」
アリマはアリマだ。それ以外はない。
それにあたしにとっては、ずっと――。
「日下部は優しいね」アリマは小さく笑ってそう言った。
「学校来ないの? アリマがいないとつまんない」
「悪いんだけど、完全に戻るまではもう少しかかりそう」
「なんで? 何してんの? あたし迎えに行くよ」
「危ないから来なくていい」アリマはすぐに首を横に振った。「そもそも無理でしょう。日下部はもともと人間だからワープできない」
「……アリマ、今どこにいるの?」
ふと、和登が同じ単語を口にしていたと思い出す。世界には境界線があって、そこをワープで移動する、と。いつの間にそんなSF映画の技術が進歩したのだろう? アリマは今、その技術がなければ辿り着けない場所に行っているのだろうか?
アリマは日下部の質問には答えず、うっすらと微笑んだだけだ。しかし日下部にはそれで十分納得がいった。アリマが教えてくれないということは、説明されてもきっと理解できないということだ。
「日下部。早く私がいないことに慣れて。私は、任期が満了したら自分の世界に帰る。私に関わったすべての人の記憶は自動的に改竄されて、日下部にとっても、私は存在しなかったことになる」
「そんなのやだ」
「でもそれが普通なんだよ。私は、日下部とは違う……全部、私が悪かったんだ。宇宙人は所詮宇宙人だよ。それを……――」
日下部はアリマに抱きついた。それ以上聞きたくない。アリマが何かを口にする度に、アリマ自身が遠くへ行ってしまうような気がする。彼女は後悔しているだろうか? ここへ来たことを、日下部と友達になったことを、悔やんでいるのだろうか?
「……戻ってきてよ。このままさよならはやだ」
「戻るよ。私にはまだ仕事が残ってる」アリマは日下部の肩を掴んで体から離すと、日下部の不安定な視線を捕まえた。「必ず戻るから、もう少し待って。それまであの穴の開いた公園には近づいちゃ駄目だよ」
「なんで?」
「なんでも。それから、あの転校生には気を付けな」
「え?」
転校生と言ったら、日下部は宮野のことしか思い浮かばない。だが、どういう意味だろう? そもそも宮野に会っていないはずのアリマがなぜ彼女を知っている?
どうして、と言い掛けたその時、突然サイレンのような音が辺りに響き渡った。あまりの爆音に思わず両手で耳を塞ぐもまったく効果はなく、日下部の鼓膜を痛いくらいに激しく揺らし続ける。
「そろそろ戻らないとね」彼女の声は微かに聞こえる程度だったが、至って平然としている。まるでこの騒音など何も聞こえていないかのようだ。
――駄目だ。煩すぎて目眩がしてきた。
「日下部には教えてあげる」
何を、と日下部はギリギリのところで顔を上げた。アリマはやはり微笑んでいたが、どこか寂しそうにも見えた。
「私の本当の名前は、アリマグリッド・クリステル・テイラー」
――長ったらしい名前だな。
そう思った自分は、もうベッドの上にいた。見覚えのある白い天井。外から射す陽光でカーテンの繊維が煌めいている。
日下部は重い体を反転させると、耳元で鳴り響く携帯電話を止めた。長時間力が入っていたのか、少し動かすと節々が軋む。急に静かになった部屋に、長く吐き出した息の音だけが響いた。異常なサイレンの音の正体はこいつだ。学校へ行く時のために平日は毎朝アラームが鳴るようセットしてあるのを、昨夜寝る前に解除するのを忘れたのだ。
何という夢だろう? 頭から布団を被り、ふつふつと込み上げてくる笑いを素直に放出した。かなりリアルではあったが、あれを現実だと真剣に信じていた夢の中の自分を思うと笑わずにはいられなかった。
――「私の本当の名前は、――」
今朝もまだ、自分は有馬栗珠を憶えている。顔も、声も、夢に出てくるほど鮮明に、すべてを憶えている。
夢でも見たんじゃないの、と言われた。アリマを探し、彼女を知らないかと皆に訊いて回った時だ。そうだったのか? さっきみたいな夢を積み重ねていくうちに、アリマは日下部の現実に顔を出すようになったのだろうか?
だとしたら自分は本当におかしい。
再び眠る気にもなれず、日下部はベッドから抜け出した。部屋は氷のような空気が支配し、床に着いた素足が現実の冷たさを教えてくれる。脚を伸ばし、散らばったスリッパを片方ずつ指先で手繰り寄せると、随分前から椅子に引っかかっている皺くちゃのパーカを羽織って、リビングへ向かった。
自宅で昼食を済ませた後、日下部は家を出た。申し込んである進学塾の冬期講習に行くためだ。しかし両足を引きずって歩く駅までの道のりは果てしなく遠く感じて、すぐにでも横道に逸れてしまいたい。
小石を蹴飛ばしてはそれを追いかけながら、だらだらと前へと進む。勉強しなくてはならないことは重々承知しているが、気持ちがついて来ない。日下部には学校の良し悪しもわからないし、特別どこかの学校でやりたいことがあるわけでも、将来の夢が定まっているわけでもない。ただ高校くらいは卒業しておかなくては、という世間体だけだ。行けるところに行けたならそれでいい。
ポケットから携帯電話を取り出し、時刻を確認する。もうまもなく講義の開始時刻だ。こんなところでもたついていたら確実に遅刻する。
――「サボっちゃえばいいじゃん」
心の中で囁くのは自分自身だ。しかし日下部は遅刻魔だが、サボり魔ではない。遅刻への罪悪感には免疫ができているが、サボりは重罪という印象が強く、簡単に承諾できるものではない。
曲がり角の手前で足元の小石を思い切り蹴った。小石は緩いカーブを描きながら、角よりもずっと遠くまで転がっていって止まった。誰もいない道の上で、その小石だけがやけに目立って見えた。早くここまで来て、と呼ばれているかのように感じる。
溜息が出た。自分はそっちじゃない。そっちには行けない。日下部は小石に別れを告げ、右に折れる。
その時――。
「あー、明ちゃんじゃない?」
ふと足を一歩戻し、振り向いた。誰だか判断するのに一瞬の時間を要した。白っぽいコートに身を包んだ、人形のような雰囲気の可愛らしい女の子。日下部を見て、嬉しそうに微笑んでいる。
「宮野さん?」
小走りに寄ってきた彼女は微かに甘い匂いがした。昨日この場所で分かれた時とはまったく別人のように見える。
「えー、すごい偶然! びっくりだよー。これからお出掛け?」宮野が高い声で訊ねる。生地を重ねたようなふんわりとしたスカートに、白っぽいコート、ふわふわの髪飾り――彼女のイメージにぴったりだと思った。
「あ、ううん、これから塾の冬期講習があって……宮野さんは?」
「私これから図書館に行って勉強しようと思って」
「図書館って、高校の向こうにあるやつ?」日下部は行ったことがないが、高校の先をしばらく行ったところに大きな図書館があるのは知っている。ここからだと歩くより電車で隣駅まで行ったほうが早いくらいの場所だ。
わざわざそんなところまで行って、勉強? 日下部は目眩がしてきた。たかが駅前の塾に行くことさえ億劫なのに、もはや生き物が違うとしか思えないし、何も返す言葉が見つからない。
「偉いねー、ちゃんと塾とか通ってるんだ」
「休みの時だけだよ。皆みたく普段は行ってないし、基本勉強嫌いだし。今日も行きたくなくってさ、サボっちゃおっかなーなんて思ってたとこ」
「え、そうなの? じゃあ私と一緒に図書館行かない?」
「え?」
思いも寄らぬ誘いに、日下部は言葉に詰まった。が、宮野は相変わらずニコニコと微笑んでいて、冗談を言っているようには見えない。
「明ちゃん、このままホントにサボっちゃうのはどうかなーって迷ってるんでしょ? 同じサボりでも結局勉強してたらいいんじゃない?」
ドキッとした。さらりと心境を読まれたこともそうだが、本気で言っているのだとしたら見かけによらず大胆過ぎる人だと思う。しかしどういう理論だよ、とツッコミを入れたい自分と、納得している自分が共存していて複雑だ。建前上は前者を支持したいのに、自分の気持ちは後者のほうに寄っている。
――「あの転校生には気を付けな」
ふと声が聞こえた。そう、夢の中に出てきたアリマの忠告だ。あの転校生、つまり宮野には気を付けろというアリマの声。
しかし――。
「ね?」
ここで断ってしまったら、宮野はどんな顔をするだろう? 頭を傾げて微笑む彼女に日下部は逆らえない。あまりの意思の弱さに自分でもガッカリするほどだ。
「うん、まぁ……そうだね。勉強してれば、別に行かなくてもいっかな……」
「ホント? 嬉しい! 私もね、一人で図書館行くのホントはちょっと寂しかったんだー」と言うと、宮野は日下部の左腕にぴったりと抱きついてきた。「行こ?」
これは計算なのか、素なのか、わからない。ただ日下部は頷きながらも緊張して上手く話せない。体はぎこちなく、妙な気分だ。同性なのにドキドキしているなんて。これでは学校中の男共が噂するのもわかるような気がするな、と日下部は心の中で呟いた。
図書館というからもっと古くて埃臭いものを想像していたのに、そのスタイリッシュな面構えに見事裏切られた。昨年に建替工事を行って開館したばかりなのだそうだが、日下部はまったく知らなかった。
宮野はもう館内に詳しい様子で、すぐにエレベーター脇の階段で二階に上がった。各階に広い読書スペースが設けられているが、中でも二階が一番空いているらしい。大きなガラス張りの窓が一面にあって、あの閉塞的な図書館の雰囲気はまったくない。
と、階段を上がりきったところで知った顔に出くわした。ほんの一瞬誰だか判断するのが遅れたが、すぐに名前が浮かんだ。
「先輩」
おそらく、何もしなければそのままやり過ごすこともできただろう。というのも、向こうがこちらに気付いたのは明らかに声を掛けた後だったからだ。しかしその判断が下るよりも先に、日下部の口は勝手に挨拶をしてしまっていた。
和登は一歩行き過ぎてから動きが止まった。丸くなった目が日下部を捉え、すぐに隣の宮野を捉える。
「日下部さんじゃないですか」
「こんにちは」
「珍しいですね、こんなところにいるなんて」
「今日は勉強しに……これでも一応受験生なんで」
「あ、そうでしたね」和登はクスリと笑う。「日下部さんのお友達ですか?」
「えっ? あ、えっと――」日下部はようやく、すっかり隣で取り残されてしまっている宮野に気付いた。「宮野さんです。この前転校してきたばっかりで、同じクラスなんです」
はじめまして、と宮野は会釈をし、にっこりと微笑んだ。もし相手が我がクラスの男子だったらこれでイチコロなのだろうが、和登の顔色は変わらない。
「和登です。よろしく」そう言って笑うのを見て、そういえば和登も綺麗な顔立ちをしている人だったことを思い出した。
「先輩は、今日はどうされたんですか?」
「日下部さんたちと同じですよ。僕も、一応受験生ですから」
「あぁ……」日下部は返事の仕方に迷ってしまった。そして同時に、学校で松永と話した時と似たような気分になった。
この人に最後に会ったのはいつだったろうか、と刹那考えて、たぶんアリマがいなくなった日だとすぐに思い付いた。和登の笑顔が何となく癪に障ったのは、まだ彼がアリマを忘れろと言う酷い奴だという印象がこびり付いているからだ。日下部が一人だったなら迷わずアリマの話を振っているところだが、それは腹の底に力を入れて押さえ付けた。宮野がいる以上はそういうわけにもいかない。
煮え切らない感じを残しつつ程々に和登とは別れ、日下部はまた宮野の後ろについて二階を歩いた。宮野は整然と並んでいる大きなテーブルの中でも一番奥の窓際を選んだ。周辺の席にいるのは主に高校生か、大学生だろう。イヤホンを両耳に挿し、視線は参考書とノートの間を行ったり来たりしている。なんだかすっかり場違いなところへ来てしまったな、と軽い後悔の念に苛まれながら、日下部も席に着く。
「私、今日は英語。明ちゃんは?」宮野は鞄からノートを取り出しながら訊ねる。見たこともない参考書は下の方が少しよれて、端から覗くカラフルな付箋が目立つ。
「え? あー……一応、英語と古典を持ってるけど」
「じゃあ一緒に英語やろうよ。私でわかるところだったら教えるよ?」
「うん、ありがとう」
宮野が優秀なことは周知の事実だ。先日の期末テストでも、まだ転校してきたばかりだというのに、彼女は成績優秀者のリストに名を連ねていた。大体いつもアリマの名前があった場所だ。
右隣に座った宮野は、取り出した参考書やノートは机の上に重ねたまま、何やら別の英文の本を読み始めた。見たところ注釈も挿絵もなく、ただアルファベットが羅列しているだけの本で、日下部は寒気がした。スッと視線を逸らした日下部は、一先ず開いたノートに英単語を書き並べることにした。おそらくこうして単語を覚えても、いざ文章の一部になったらわからなくなってしまい、結局無駄に終わるのは目に見えているが、自習なんてこれくらいしか思い付かない。宮野のように本なんて読んだら、五分ともたずに寝落ちしてしまう。
時折隣の彼女を横目で見やった。彼女は本を持つ右手の指にペンを挟んでいて、所々でさらりとの上を走らせていた。それが何の本だかもわからない。ただ背表紙の絵から童話の類だろうということだけが推測できる。
なぜ、あたしは今この人と一緒にいるのだろう? そればかりが不思議だ。小柄で、華奢な両肩、色白で儚げな細い指――どこか世界が違うようにすら思えてしまって、これが同い年で、しかもクラスメイトだなんて信じられない。少なくとも日下部とはまったく不釣り合いで、可笑しくなってしまうほどだ。それなのにどうして彼女は自分なんかと親しくしようとしてくれるのだろう?
良くないのはわかっている。しかしどうしてもそう勘ぐってしまう自分がいる。
「どうかした?」
「え?」
無意識に書く手が止まり、じっと彼女の横顔を見つめていたことに気付く。動揺する日下部に、宮野はふふと口元に手を当てながら微笑んだ。
「ご、ごめん、何でもない」
「そう? ねぇ、明ちゃんって推薦組じゃないよね?」
「え、うん、あたし馬鹿だもん。推薦なんか取れないし。てか宮野さんこそ推薦組だと思ってたけど、学力試験のほう受けるの?」
「あー、私はね……」宮野は少し考えている様子で首を傾げ、やがて開いていた本を静かに閉じて机に置いた。「あのね、誰にもまだ言わないでほしいんだけど……私、ホントはもう決まってるんだ」
「え、そうなの?」
「私、大学でやりたいことあるから、そこに行けるように附属の高校に行くの」
日下部は正直驚いていた。ここにいつもの柔らかい微笑みはなく、じっと真剣に話す宮野を初めて見た気がする。
「何をやりたいの?」
「笑わないで聞いてくれる?」宮野はそっとこちらに顔を近づけると、更に声を低くした。
「そりゃもちろん」
「……あのね、私、宇宙とか星とかそういうのに興味があって、だからそっち系の勉強がしたいと思ってるの。だから大学も宇宙工学とかがあるとこに行きたくて」
「すごいじゃん。なんか難しそうだけど」
「小さい頃からすごく好きなの。でも周りに言うと結構笑われちゃって。女の子なのに、面白いものが好きなのねって」
「えー、なんで? あたしはいいと思うけど」
そうかなぁ、と苦笑いを浮かべながら首を傾げる宮野はやはりどこか儚げだ。確かに彼女の言うように、宇宙だとかロケットだとかいう話はどちらかというと男の子が夢中になるものというイメージは日下部にもある。しかしそれ以前に、今の時点で将来の目標をしっかり定められていることに尊敬の念を抱いてしまう。日下部にはまだ見えてもいない景色を彼女は既にはっきりと捉えている。
「明ちゃんは、何か好きなこととかないの?」
「え、あたしはー……」
真っ先に頭に浮かんだのは漫画のことだった。何をしているより、今は、絵を描いているのが楽しい。そう感じていることを日下部自身も認識はしている。しかし将来にわたってそれをやりたいかと訊かれたらわからない。やっていける自信もなければ、勇気もない。そんな不安定な未来に縋ることなどできない。
――「日下部って絵が上手だったんだね」
そう言ってくれたのは、ほんの少しでも背中を押してくれていたのは、幻だった。
「あたしはまだ将来のこととか、よくわかんないんだよねー」
笑いながら、本当は不安だった。皆、そうなのだろうか? わかっていないのは日下部だけで、本当は皆もう見えているのだろうか? その景色に向かって、歩き始めているのだろうか?
「頑張りなよ。宮野さん、頭良いし、きっと大丈夫だよ」
「ありがとう。そう言ってもらえたの明ちゃんが初めて」宮野は頬を赤らめる。「不思議だねー。明ちゃんの前だと何でも素直に話せちゃう」
宮野は上機嫌な様子で鼻歌を歌いながら、再び参考書に戻っていった。日下部の中にはむず痒いような余韻が残っていた。正直、不快には感じない。いつもなら心の中では一歩引いてしまうところなのに、宮野だと平気なのだ。
「明ちゃん、私たち、もう友達だよね?」
一瞬遅れて、もちろん、と答えた。彼女の笑顔は幼い子供みたいにあどけなくて、羨ましくなるくらいだ。
* * *
薄茶色のケープを羽織り、肩甲骨を軽く越えるくらいの長い髪をハーフアップにしたその後姿は、普段生徒会室の席に座る彼女の姿を見るのが習慣化している和登にとってはやはり違和感が強く、視界の中に捉えてもそれが香月紗枝だという判断が一瞬遅れる。その上どこか確信が持てないらしく、実際に声を掛けて顔を見るまで内心ドキドキしている自分がいるのだ。
「おかえり。探し物は見つかった?」
和登が近寄ると、気配からか香月は手を休め、参考書に落ちていた視線を上げた。学校ではほとんどの場合その綺麗な黒髪はだらんと垂れているので、今みたいにただ少し束ねただけの、たったそれだけの変化で妙に女の子らしく見えてしまうのは僕の視覚に狂いが生じているからなのだろうかと戸惑ってしまう。
「うん、訊いたら下の階だったよ」和登はそう答えながら、隣の席に腰を下ろした。机の上には自分の勉強道具が置きっぱなしになっている。
一緒に図書館で勉強をしないかと誘ったのは香月のほうだった。家にいたら急に連絡が入り、なぜか素直にその誘いに乗った和登はこうしてはるばる市立図書館までやってきて、受験勉強というやつをやっている。まるで本当の高校三年生のように。
こんなものは無駄だ。和登は受験なんかしない。それどころかもうすぐ人間ですらなくなる。それなのに今こうして難関校と言われる大学の赤本を手にこの席に戻ってきたのは、おそらく先日放課後の生徒会の集まりを仮病でボイコットしてしまったことへの埋め合わせのつもりなのだ。そうでなければこんな誘いを受けたりはしない。それも大勢での集まりならともかく、香月と二人きりの約束なんて宇宙人として絶対にするべきでないことは重々承知している。
だが――。
「和登くん、ごめん。数Bわかる?」
自分はこの状況を楽しんでいるのだろうか? 喜んでいるのだろうか? 今日香月に会った時から、いや、香月が連絡をしてきた時から、ずっと胃の上の辺りがそわそわと擽られているようで、そこから喉元を遡って勝手に笑顔が溢れてきてしまう。駄目だと頭では理解しているのに、感情が理性を押し退けてしまう。
「たぶん大丈夫」
「ホント? ちょっと訊きたい」
「どこ?」
おかしい。こんなの、自分じゃない。
本当ならこんなところで高校生なんてやっている場合じゃない。有馬栗珠が消えて、何日が過ぎただろう? そろそろアルカの上層部だって、このあってはならない異変に気付いてもおかしくない頃だ。あの穴の正体もわからない、同僚は行方不明――これではお話にならないと自分でもわかっているし、先行きを案じてもいる。ここで自分が動かなくて一体どうするのだ?
和登がワトソンを壊していく。偽物のくせに、本当の自分じゃないくせに、じわりじわりとワトソンを支配していく。こんなにも自分は弱かったのか? こんなにも脆かったのか? これはあくまで仕事で、そこには私情なんて挟まっていたらいけないのに。
「えー、嘘。和登くんってホントに文系?」和登がノートに並べてやった数列を見ながら、香月は苦そうに笑った。
「……ごめん」
「何謝ってんの? いいことじゃん」
違うんだよ。僕がこの問題に答えられるのは、過去に積み重ねた偽物の人生の中で勉強したことがあるからだ。
僕は君のように正々堂々と問題と勝負しているわけじゃない。
「ありがとね」
「いや、別に……」
ほら、また、無重力。
君は御伽噺に出てくる魔法使いのようだ。無垢な微笑みには魔力が忍ばせてあって、不意に和登の無防備な心をぐるりとかき混ぜる。嬉しくもあり、どことなく照れ臭くもあり、戸惑いと困惑と、そして少しばかりの罪悪感――忙しくて追いつかないほどの感情が一気に押し寄せてくる。
持ってきた赤本を開いた。英語、現代文、歴史――どれも簡単だ。ほとんど考えなくてもわかる問いばかりで、まるで読み物のようだ。これでは自分の世界に逃げ込むこともできないじゃないか。
香月は結局どこの学校を受けることにしたのだろう? そんなものはワトソンには不要な疑問だし、もっと他に考えなければならないことは山ほどある。なのに、気付くとそればかりが頭の中に浮かんでは消えていく。もうやめてくれ――自分の中で自分が悲鳴を上げているのに、それでも一緒にいたいと願ってしまう自分は正真正銘の馬鹿だ。
横からクスリと聞こえた。見ると、香月がこちらを見て小さく笑っていた。
「どうしたの?」
「あ、ごめんね。なんか可笑しくなっちゃって」
「えっ、なんで?」
「内緒」
「それすごい気になるじゃん」
香月は笑みを浮かべるばかりで教えてくれそうにない。やはり何か変なのが誤魔化せていないのだろうか? 先ほどから耳のすぐ後ろに心臓があるみたいだと思っているのが、実は本当にそこにあるとか――和登は何気なく後頭部の髪を掻いた。何ともばつが悪い。
「和登くんと勉強するなんて想像してなかったな、と思って」
彼女はそう付け足すと、困惑する和登を置いて、また参考書に意識を戻してしまった。
意味がわからない。最初に誘ったのは香月のほうなのに、矛盾している。和登はますます混乱の渦に飲み込まれていく。
せめてこの光景を日下部明に見られなかったことだけが救いだ。




