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第四章 天使の降臨(3)

 結局、図書館を出たのは閉館の五時になるほんの少し前だった。辺りは既にとっぷりと暗くなっていて、陽の光を失った空気はひたすらに冷たく素肌を打った。宮野と勉強をしているうちに塾をサボったことをすっかり忘れていた日下部だったが、外に出た瞬間に目が覚めた。万が一にもお母さんにバレていたら……と考えると空恐ろしくて、帰る足取りが重い。

「今日楽しかったー。明ちゃんのおかげで捗っちゃったよ。ありがとね」

 宮野は相変わらず上機嫌で、日下部の左腕にぴったりと身を寄せている。そのおかげで僅かばかりの温かさを感じる。

 日下部はますますわからなくなってきてしまった。宮野の何に気を付けろと言うのだろう? 今日一日ずっと一緒にいたけれど、何も害があるようには感じないし、むしろ好印象になるばかりだ。それに何より、彼女がアリマを埋めてくれる。寂しさも、物足りなさも、知らず知らずのうちに忘れさせてくれる。

 宮野といればこのまま自然と忘れられるかもしれない。あのリアルすぎる幻想を振り切って、この世界で生きていけるかもしれない。皆と同じように、有馬栗珠は夢であったと忘れて――。

 ――……何言ってんの? あたし。

「ねぇ、明ちゃん。この後って、何か用事ある?」

 はたと我に返ると、いつの間にか見慣れた街並みに戻ってきていた。急にそう切り出した宮野は、日下部の顔を覗き込んでいた。

「ううん、特にないけど……」頭の中で必死に宮野の言葉を噛み砕き、やっとのことで返事をする。

「ホント? あのね、もし急いでなかったらでいいんだけど、ちょっと付き合ってほしいところがあって」

「あたしに?」

「ほら、この間の約束」

 この間の、と言われてもピンとこない。何か大事な約束をしていただろうかと記憶を辿るが、思い出すよりも早く宮野が答えを言ってしまった。

「隕石の穴、一緒に見に行ってくれるんでしょ?」

「あぁ、あれ……――」

 特に何も考えず、別にいいよ、と返そうとしてふと止まった。あの穴って何かあるんじゃなかったっけ……?

「ね、行かない? 今から。ちょっとだけでいいんだけど」

「マジですか」

「マジだよぉー」

 アリマは、夢だ。だから公園に近づくなというのも言ってしまえば幻聴なわけで、従う必要なんてない。しかしどうにも気乗りしない。正直にそう言うこともできず、日下部は身動きが取れなくなってしまった。学校では綺麗に嘘を吐いているくせに、肝心な時にそのスキルが発動しないのは困ったものだ。

「駄目?」

 宮野が首を傾げる。おそらく今ここで断ったとしても、また同じ誘いがあることは目に見えている。そうなった時、再び断ることは自分にはできないだろうと日下部は予想する。それなら、さっさと片付けてしまったほうが良いのではなかろうか?

 ――「必ず戻るから、もう少し待って。それまであの穴の開いた公園には近づいちゃ駄目だよ」

 もう少しって、どれくらい? あたしはいつまで待っていればいいの?

 ――いいよ。だって、あれはただの夢なんだから。

「うん、ちょっとなら別にいいよ」

 宮野は嬉しそうに笑った。嘘を吐いたわけじゃない。それなのに少しだけ、口の中が苦い。


 *  *  *


 日が落ち、国道を行き交うヘッドライトが時折眩しい。図書館ですっかり温まっていた体にこの冷えきった空気はあまりに刺激的だ。

 図書館を出る時、日下部に遭遇した場合の言い訳を必死に考えていたが、結局使わずに済んだ。香月を駅まで送ったら、次は上層部に対する言い訳を考えなくてはならない。道すがらこの後の展開を想像すると、一歩前へ進む度に憂鬱が増していく。

「和登くん。もう、ここでいいよ」

 点滅を始めた青い信号機に、自然と足が止まる。ちょうど交差点の向こうに高架した線路が見えてきたところで、一歩後ろを歩いていた香月が声を掛けてきた。和登が振り返ると彼女の微笑みがこちらを向いていた。

「今日、ありがとうね。大事な休日だったのに、付き合わせちゃって、ごめん」

 香月の声はなぜか少し震えているような気がしたし、何となく貼り付けたような笑顔だと感じる。

「全然、平気だよ」

「そう?」

 車道を走るエンジン音が異様に大きく聞こえる。何だろう? この居心地の悪い、しっくりしない感覚は――。

 ふと歩道の片隅に猫が行儀良く座っていた。どこか見覚えがあるように思えたが、きっと気のせいだ。綺麗な暗い灰色の毛並みは野良猫には見えないほど艶やかで、ふさふさの長い尻尾を蛇みたいに動かしている。宝石のような青い目でじっと見つめられるとドキッとしてしまう。まるで何もかも見透かされているかのようで。

 あまり見るなよ、と視線で訴えてみるも、猫はつーんと澄ました顔をしてそこから動こうとしない。

 信号機はまだ赤のままだ。

「今日、ホントに来てくれると思ってなかった」

「え、なんで?」

「だって、和登くんだよ?」香月は笑っている。「たぶん誘っても、行かないって言われると思ってたから、嬉しかったよ」

 優しく笑う彼女の瞳は確かにこちらを向いているのに、なぜか視線が合わない。

「……どうしたの?」

「えっ?」

「あ、ごめん、なんかいつもと違うような気がして……何かあるの?」

「ううん」香月は慌てた様子で頭を振る。「もう、終わっちゃうんだなぁって思ったら、なんか寂しくなっただけ」

「終わっちゃうって、何が?」

「全部。部活も終わって、次は生徒会。で、もうすぐ高校生もおしまい。三学期は学校あんまり行かなくなっちゃうから、友達もなかなか会えないし。楽しかったものが、一つひとつ、なくなっていくのが、寂しくて」

 和登は言葉を返せない。なぜなら彼女の拒絶する終わりは、和登が長い間ずっと待ち望んでいた終わりだからだ。

 こんな任務、早く終わってしまえばいい。高校生なんて二度とやりたくない――何度そう思ったか知れない。しかし今、和登はふと気付いてしまった。香月の言う寂しさを理解できる自分がいることに。

 雷に打たれたような衝撃が全身を駆けた。なぜだ? なぜ僕はこの世界を愛おしく感じている? なぜそんな風に、変わってしまったのだ?

「生徒会とか、大変じゃない? 僕は……正直早く終わんないかなって思ってたよ」

 香月は声に出して笑った。

「もちろん大変だったよ。私だって、途中で辞めたいと思ったことあるもん」

「本当?」

「うん、部活のほうも忙しかったし。だけど……――」そこまで言って、彼女は突然難しい表情を浮かべて黙り込んでしまった。

「どうかした?」訊ねると、香月は黙ったまま首を横に振った。しかし表情は変わらず、少しだけ下を向いて、強張っているようにも見える。

 何かあるの、と和登が口を開きかけた瞬間、ぱっと信号の色が変わった。同時に彼女の顔も元に戻る。

「ごめんね、今日はホントに……私の我儘に付き合ってもらっちゃって」和登の言葉を遮るかのように、彼女は早口で捲し立てる。「ホントにありがとう。すごく楽しかった。それじゃあね」

 香月はあっさりとそう言うと、目の前の横断歩道を小走りで渡って駅のほうに行ってしまった。一度も振り返らず、立ち止まりもしない彼女の後姿は、和登にはいつもよりずっと小さく見えた。

 追いかけよう、と考えたわけじゃない。考えるはずがない。だって自分は宇宙人で、この世界の馬鹿な人間たちにも、理解不能な高校生にも、興味なんてないのだ。しかし体が勝手に横断歩道の上を駆けていってしまったのだから、仕方がないだろう?

 気付いたら香月を捕まえていた。その瞬間、彼女はひどく驚いた表情をしていたが、それ以上に驚いたのは和登のほうだ。

 香月はいつだって笑っている人だった。行事前で生徒会が忙しくても、皆が刺々しい雰囲気を作り出していても、誰かがミスをした時も、怒りもせず、泣きもせず、ただ「しょうがないな」と笑っている人だった。そういう三年分の彼女を、和登は知っている。

 それが――。

「なんで泣いてるんだよ?」

 その顔を自由なほうの手が隠すようにして、彼女は視線を逸らした。初めて見る彼女の姿に、意外なほど冷静な自分がいる。

 香月は明らかに動揺していて、首を振りながら必死に泣くのを止めようとしているようだった。でも、止められない。彼女の中では何かが外れてしまって、どうにも溢れてくるものを抑え切れない。

「ごめん、私……――」香月は途切れ途切れに言葉を発する。「そういうつもりじゃ、なかったの、ホントに……でも、気付かないうちに、私、好きになってた。和登くんのこと」

 丸い瞳に溜めきれなくなった感情は、言の葉と共にぽろぽろとビー玉のように零れてくる。

「そんなはずないって、違うって、何回も思ったんだけど、でも、やっぱりそう。私、途中からは、生徒会なんて、どうでも良かったの。でもあそこには……あそこには、和登くんがいるから、私、和登くんに会いに生徒会に行ってた。和登くんと一緒に仕事してるの楽しくて、普通に話もできて、私、それだけで十分だったよ。時々誰かに、陰口言われることもあったけど、そんなの全然平気。だって、誰も知らない和登くんを知ってるって、すごい特権じゃない? だから、私はずっと、幸せだった。でも……もう、夢は終わっちゃうから」

 本当にごめんなさい、と彼女は繰り返した。

 ――謝るなよ。

 和登は拳を強く握っていた。そうしなければ耐えられなかった。君は何も悪いことなんてしていない。謝らなければならないのは僕のほうだ。

 僕はもっと宇宙人らしくするべきだった。なるべく目立たず、空気のようにそこに在れ――それを守らなかった僕の責任だ。僕は君に、償いきれないほど大きな嘘を吐いている。僕はこれまでも、今も、存在自体が嘘だ。僕は君に詫びなくてはならない。君をこんな気持ちにさせてしまったことを。

 でも、僕は、きっと楽しかったのだ。阿呆らしいと思うことばかりだったが、それでも僕は和登蘭丸が楽しかった。ずっと昔、まだ故郷があり、家族があり、友があったあの頃のようで。

 もし、僕が宇宙人でなかったら。

 僕が本当にこの世界の人間だったなら。

 和登蘭丸が本当の存在だったなら。

 僕はきっと言えただろう。僕自身が君を好きになってしまったことを。

 君は僕を忘れる。近いうちに、すべて。君にとって僕は、本当に夢になるのだ。僕にはそれを阻害することはできない。

 ありがとう。直に消える僕のことを恨んでもいい。君にはその権利がある。でも、どうか僕のことを無事に忘れてください。きっと一生忘れることのない僕を置いて、君はこの世界を生きてください。

 君のおかげで、僕はずっと一人じゃなかった。僕にこの世界を愛し、和登蘭丸を愛することを教えてくれて、ありがとう。


 *  *  *


 公園へと続く急な階段の中程で、宮野は無邪気に笑いながら日下部を手招く。入り口に掲げられた立入禁止の看板をことごとく無視してロープを潜った彼女は、軽い足取りで頂上を目指して駆けていく。普段の清楚で大人しそうな印象からはとても想像がつかない所業だ。

 ――いいのかなぁ、これ……。

 一度は「いいよ」と言ったものの、立入禁止と大きく書かれたのを見ると何か途轍もなく悪いことをしているような気がしてそわそわしてしまうのだ。日下部は何度かやめることを提案したが、宮野は一向に聞き入れなかった。誰かが声を掛けて侵入を防いでくれればと期待してみても、生憎周囲に人の気配はなく、望みは薄そうである。今更「やっぱり行かない」なんて台詞は日下部には言えない。

 ロープを潜りながら溜息を吐いた。自分の意気地のなさに嫌気がさす。そして、公園に近づくなというアリマの言葉が、追い打ちをかけるかの如く日下部の罪悪感を刺激して痛い。

「明ちゃーん!」

 宮野が階段の上で手を振って呼んでいる。今の日下部にはこの階段が断崖絶壁のようにも見えて、何となく尻込みしてしまう。昔から宇宙に興味があるとは言っていたが、まさかこんなにもはしゃぐとは思わなかった。そういえば寺島が大好きなアイドルグループを追いかけている時によく似ている。

 そういう時はいくら他人が止めても、無駄。

 もう仕方がない! 心の中でスッパリと割り切った日下部は階段を駆け上がった。大丈夫、少し覗いたらすぐに帰ればいいんだから。

「入って良かったのかなぁ? まだ立入禁止のテープ張ったままだったけど……」

「大丈夫だよ、誰もいなかったし」

 いや、そうではない。公園には近づくなと言われているから後ろめたいのだ。……夢の話だけれど。

「すぐ帰れば大丈夫だよー。明ちゃん、意外と心配性なんだね」日下部はそう言う宮野の意外さに圧倒されてしまっているが、彼女はまったくお構いなしだ。「おいでよ、すごいよー。私こういうの初めて見た。これ、絶対隕石だよね?」

「よくわかんない。隕石じゃないって噂もあるみたいだし」

「えー、そうなの? ねぇ、これ写真撮ってもいいと思う?」

「あぁ、別に……いいんじゃない?」

 日下部が返事をするのを聞いているのかいないのか、宮野は早々に鞄からデジタルカメラを取り出した。

「それ撮ったら帰らない? 誰か来たら怒られるよ、絶対」

「そうだね。あぁもう、暗くてよく撮れないし。どうするー? 何か写ってたら」

「何かって?」

「え、幽霊とか」と笑いながら、宮野はカメラの画面を確認している。その仄かな光が顔に当たってそれこそ亡霊みたいに見える。「宇宙人が写ってたら楽しいのにね」

 宇宙人、ね……。

 再び穴のほうへレンズを向ける宮野の背中に向かって、日下部は訊ねる。

「宮野さん、そういうの信じる人?」

「もちろんだよ」彼女は即答し、すぐさま「明ちゃんは?」と返してきた。

 ――どうかな?

「昔は全然信じてなかったけど……今はわかんないな」

「えー、何それ」

 宮野は笑うが、本当にそうなのだ。信じたほうがいい、というか、信じるしかない。そう思うことがあるから。

 昔、近所に住むおじいさんがここでUFOを見たと自慢していた。結局誰もそれを信じず、おじいさんが認知症になったという噂のほうが高速で拡散していった。日下部がおじいさんの話を信じていたかというと、正直なところあの頃は微妙だった。でも今なら信じるかもしれない。

 馬鹿だな、と少し前までの自分が笑っているのが聞こえる。笑うがいいさ、存分に。きっとこの状況になったら、笑ったことを心底後悔するぞ。

 あのおじいさんは昨年亡くなったと聞いた。今更遅いが、もっと真面目におじいさんの話を聞いておけば良かったと思う。UFOはどんな姿なの? 中の宇宙人を見た? 彼らは何をしていたの? ――もう何一つ訊くことはできない。

 ようやく気が済んだのか、宮野が戻ってきた。

「明ちゃんがそういうの信じてるって、ちょっと意外だなぁ」満足げな顔をして画面を見ながら、宮野は独り言のようにそう言った。パッと撮影したものを見せてくれたが、暗くて何を撮ったものだかよくわからない。

「あたし馬鹿だし、結構あり得ないことでも信じちゃうんだよね。特に今は」

「宇宙人とかホントにいたら怖くない? なんか、地球なんてすぐ侵略されちゃいそうじゃん。映画とかよくあるし、そういう対策してなさそうだし」

 そうだ。大抵の人はそう考えるだろう。でも、アリマは?

 この世界を守る正義の味方――あくまで夢の中での話だが、彼女は自分のことをそう説明した。それは日下部を欺くための嘘かもしれないし、本当かもしれない。日下部にはわからない。

 わからないけれど、自分は、どっちであってほしい?

「……中には、正義の味方みたいなのも、いるんじゃない? あたしらの代わりに、この世界を守ってる、みたいな」

「えー、そんなの聞いたことないよ」宮野はけらけらと笑う。「面白いこと言うなぁ、明ちゃん」

 あたしだって聞いたことなかった。

 宇宙人なんて、この世界を守るために戦っているなんて、そんな話は映画の中だけで十分だと思っていたし、今もそう思っている。

 だけど……――。

「じゃあ明ちゃんのためなら、来てくれるかな?」

「えっ……何が?」

「もし明ちゃんが危ない目に遭ったら……その正義の味方の宇宙人さんは、助けに来てくれるのかなぁ?」

 宮野を見た。頭を右にやや傾け、彼女はやはり笑っている。何となく、違和感を帯びて。

「宮野さん、何、言ってるの……?」

「助けに来てやるさ」

 その時、突如ざわめき出した黒い森の合間にはっきりと聞こえたその音は、日下部の中を強く揺さぶった。

 あたしは、知ってる。

 この声をずっと待ってた。

「日下部から離れろ」


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