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第五章 宇宙人の帰還

「一緒に帰ろう」

 入学式の日、下駄箱でそう声を掛けてきた彼女はどこか憂えた目をしていた。言葉を交わしたこともなく、名前すら知らない。さっきまで教室で自分の左隣りの席に座っていたような気がするだけ。ただそれだけの存在で、これからもそれ以上になることはないはずの彼女が、なぜそんなにも必死に自分を追いかけてきたのか有馬には理解できなかった。あの時もしも彼女があんな風に泣き出しそうな顔をしていなかったら、今も彼女の名前すら覚えていなかったかもしれない。

 宇宙人的にはそのほうが良かったし、そうあるべきだったのだ。でもあの時、有馬は彼女を拒否しなかった。あの瞬間、有馬は本当の自分を忘れていた。自分が宇宙人――アリマグリッド・クリステル・テイラーであることを。

「いいよ」

 嬉しそうに笑った彼女の顔を今でも時々思い出す。あの時の自分の答えが間違っていたなんて思ったことは一度たりとも、ない。

 そこから始まった日下部という奇人との付き合いは思いの外長く続いた。煩くて迷惑だと厄介がる反面、自分はきっと楽しかったのだと思う。

 ――「有馬、百円貸して」

 ――「有馬、今日うちでご飯食べよ?」

 ――「有馬、これ描いたんだけど読んでくれる?」

 いいよ、と答えると日下部は決まって嬉しそうに笑った。その顔が好きだった。そういう毎日が楽しくて、幸せだった。馬鹿らしくて、くだらなくて、理解できないことばかりだったし、たぶんほとんど中身なんてなかった。それなのに、いつの間にかそれを愛おしいと感じるようになっていた。

 気付いてしまったのだ。ずっと戦うことを、強くなることを求めていたはずの自分自身が、本当は誰よりも平和であることを望んでいたのだと。

 ここにはそれがあった。あの日突如奪われてしまったすべてが、ここにはあるような気がした。だから、知らぬ間に忘れてしまっていたのだろう。あの日はいつの間にか過去になり、銀河の果てよりずっと遠くへ行ってしまって、いつもすぐ傍で手に取れたはずの悲しみも、怒りも、悔しさも、すべてがこの世界の今というリアルに上塗りされていく。

 ここが本当に自分の世界だったらいい。宇宙人なんて知らず、戦う術も知らず、呑気に人間の女の子をやっていられたらいいのに――。

 だからきっと、忘れないで、と訴えたかったのかもしれない。或いは、忘れていることすら気付かない薄情者に立腹して、罰を下したのかもしれない――そう思わずにはいられなかった。どうして、気付かなかったのだろう? あんなにも憎んでいたはずなのに。

 台地に開いた原因不明の大穴の正体に気付いたのは、有馬がこの世界を飛び出た後のことだった。あの日、当たり前にそこにあったすべてのものが消え去って、瓦礫と絶望だけが累々と残った故郷の大地の真ん中に、ぽっかりと出現した巨大なクレーター――あの光景は決して記憶から消えることはないと思っていた。

 忘れるはずがない。

 故郷が滅んだあの日を。

 愛すべきものが壊されていくのをただ黙って見ているしかなかったあの日を。

 だってそれこそが理由だった。己が守る理由、己が戦う理由、己がここにある理由。


 強くなりたいと望んだ、理由。


 あの日の私に何ができただろう? 何度も何度も訊ねた。訊ねる度に誰かを消した。「あの日の私にはできることなんてない」。その答えが、自分を突き動かした。「今の私なら何かができる」――そう答えたくて。

 でも結局、自分は何も思い出せなかった。それが悔しくて、どうしようもない。

 夜闇に紛れて奇襲をかけてきたアイツの顔をテイラーは知っていた。いや、テイラーだけではない。きっとワトソンも知っているだろう。滅んだ故郷を命辛々逃げ失せたテイラーの同胞なら皆わかる。中にはアイツらを死神の前衛部隊だと言う者もいた。それを聞いた時、間違いではないと思った。あの穴が出現してから故郷の世界が滅ぶまで、要したのはたったのひと月だった。

 首に巻いたマフラーを掴んだ。戻らなくては。あの世界には、守りたいものがある。

 日下部明がいる。

「有馬、またね」

 ――あれが最後になるとは……。

 不可抗力だったとはいえ、一度世界の境界線を出てしまったテイラーはもう有馬栗珠ではない。あの世界の誰もそんな人物のことは知らず、そこにいたことも憶えていない。あれほど有馬の名を呼びまくっていた日下部でさえも、自然の摂理には敵わない。

 結果論としてはこれで良かったのだ。寂しがる隙間さえなく、誰かが強制終了させてくれたおかげで、もう有馬栗珠の終わらせ方に悩む必要もなくなった。一番理想的じゃないか――そう思うのに、どうして涙が出るのだろう?

 日下部はもう、有馬栗珠を忘れてしまっただろうか?

 忘れてくれていたらいい。それが正常で、あるべき姿だ。しかしテイラーはほんの少しだけ後悔していた。あの時、振り返っていれば良かっただろうか? おそらく街路灯の下で手を振っていたであろう日下部に、笑顔を返しておけば良かっただろうか?

 どちらにしても同じであることはわかっている。有馬栗珠は思い出の中にすら生きられない。どんな別れ方をしようと関係ない。喧嘩別れでも、涙色の別れでも、いずれは何もかも忘れてしまうのだから。

 でも、それでも、自分は憶えている。

 たとえ日下部がすべてを忘れてしまっても、テイラーはずっと憶えている。最後に彼女がどんな顔をしていて、どんな声で、どんな言葉をくれたのか。

 ――戻るよ、日下部。

 今日も明日も明後日も、君には笑っていてほしい。有馬栗珠が消えた後も、君には幸せでいてほしい。


 君の世界は、私が守る。




 日下部は目をまん丸にして、半開きになったままの口を金魚のようにパクパクさせているだけだ。しかしそれでも有馬は内心ホッとしていた。あってはならないことだが、日下部はまだ自分のことを憶えている。

「少しは言うことをききなさい、日下部。私が戻るまで、穴には近づいちゃ駄目って言ったでしょ。それと、その転校生にも」

 宮野愛莉――真の名は、ミリヤ・アントワネット・エ・カルティー。人間ではあるが、この世界のではない。正真正銘の、宇宙人だ。

 有馬は腹立たしかった。日下部が言いつけを守らないことが、じゃない。そんなことは日常茶飯事だからどうでも良いし、想像の範疇だ。この状況になるまで何も手を出せなかった自分自身に怒っている。そして他人様の庭にデカい顔をして入り込み、あろうことか日下部を餌に使おうとするこの女に殺意を覚えたのだ。

「なぁんだ。まだ生きてたの」ミリヤの高い声は波打つような調子で、有馬には不快極まりない。「結構遠くまで飛ばしたつもりだったんだけどなぁ」

「お陰で戻ってくるのが大変だった」

「褒めてあげるわよ。てっきりもう消え失せてると思ってたのに。運がいいのね」

 日下部は相変わらずアホ面を下げて、目は有馬とミリヤの間を行ったり来たりと忙しそうだ。正しく順序立てるなら、なぜいなかったはずの有馬が宮野愛莉を知っているか、というところから説明しなければならないのだろうが、そんなことをしている暇はない。

「早く日下部から離れろ」

「あら、ヤキモチ?」ミリヤはクスリと笑って、日下部を自分のほうへと抱き寄せる。「いいじゃない。私、明ちゃんとはお友達なの」

「騙して連れて来るなんて随分な友達だ」

 自分で言うのも難だが、有馬はそんなに気が長いわけではない。ふざけたお喋りを続けるつもりなら、そろそろ戦闘体勢に入らせてもらいたい。

 近距離戦が不利なのは既知だが、有馬は迷わず剣を右手の武具として選択した。するとようやく日下部は我に返ったらしい。

「有馬、だ、駄目! 宮野さんのこと殺しちゃ駄目!」

 慌てた様子の彼女は、おそらく夢で見せた光景を思い出して察しがついたのだろう。

 ――『殺しちゃ駄目』?

 有馬は眉を顰めた。自分の立場をわかって物を言え。こんな時まで馬鹿をやらなくたって良いだろう?

「優しいのね、明ちゃん」ミリヤは吸い付くように日下部を抱く。「有馬さんって酷い人だと思わない? 本当に明ちゃんの大事なお友達なの?」

「いや、宮野さん、違うの、有馬は……――」

 埒があかない。

「お前の身柄は必ず送致させてもらうよ。ミリヤ・アントワネット・エ・カルティー」

 それがその『友達』の本当の名前だ。

 その瞬間、ミリヤの口元がはっきりと歪んだ。

「生憎そう簡単にはいかなくてよ。あなただって、ちゃんとわかってるでしょ?」

 ミリヤが日下部を穴の中へと突き飛ばす。

 咄嗟に体はそっちへ反応したが、ミリヤが速かった。衝撃が刃を伝い、両腕が痺れる。意識の半分が穴へ向かっているが、もう既に余裕がない。

「まぁねぇ……――」高速で切りつけてくる刃に到底似つかわしくない歌うような口調。「気付かなくても仕方なかったと思うわよ。私もともと人間だもの。いくらあなたたちが優秀でも、他次元に住んでる人間まで感知する力は持ってなかったでしょ?」

 確かに、あの時は油断した。人間の能力なんてたかが知れていると思っていたが、それはこの世界の人間に限ったことだ。外星人であれば話はまったく変わってくる。能力なんて、進化の違いでどうにでもなってしまうのだから。

 特に、こいつらは――。

「戻ってきたばかりでしょ? ヘロヘロのまま戦えるのかしら」

 宮野が無邪気に笑う。ご指摘通り、普通なら違反だと止められるほどの長距離旅行をさせてもらったおかげで、有馬栗珠を維持しているだけで体力的にかなりのロスはある。が、今は違う。何かが有馬を動かすのだ。

 戦えるかどうか、じゃない。

 戦わなければならないだけだ。

「余計な心配は無用だ」


 *  *  *


 痛い、という感覚の代わりに柔らかな感触が全身を包んだ。名を呼ぶ声は爽やかな男性のもので、日下部は恐る恐る瞼を上げた。

 辺りは影に覆われて真っ暗だった。心臓が耳元で騒々しく鼓動し、地面に付いた手のひらは冷たい土を掴んでいる。

「……和登先輩?」

 目の前にいるその人は和登だった。だが、何かが違う。

 一瞬の間に何かとんでもないことが起きたような気がするが、思考だけがすっかり置いていかれてよくわからない。ここはどこで、自分は何をしていたんだっけ? なぜ和登がここにいるのだろう?

「怪我はありませんか?」

 その声に、徐々に冷静な自分が戻ってくる。宮野と公園にいたのだ。そうしたら、そうしたら……――。

「アリマ!」日下部は必死に和登にしがみつく。「先輩、大変なんです、アリマが――」

「大丈夫です」

 和登は淡々と日下部を制す。が、混乱だけに全身を支配されている日下部にその言葉はなかなか浸透しない。

「なんで? 何がどうなってるんですか? なんでアリマが……、ていうか、宮野さんは⁈」

「どうやらアリマさんは誰よりも早く宮野さんと面識があったようですね」

「はい?」

「アリマさんを境界線の外に飛ばしたのは宮野さんですよ。目的はおそらく、僕らをこの管轄から排除して、この世界の守備に穴を開けること。この世界を我が物にするために、ね」

 言葉の一つひとつが頭の中で閊える。どうして宮野がそんなことを? 彼女は一体何者なのだ?

 宮野は敵? それとも、味方?

「彼女は人間です。でも僕らと同じ、宇宙人なんです」

 その時、凄まじい轟音と共に地面が揺れた。咄嗟に穴をよじ登って顔を出すと、辺りは砂煙に覆われて視界がきかなくなっていた。

「アリマ⁈」

「出てくるな!」煙の向こうから鋭い声と共に、何かがぶつかり合う高い音が響いてくる。姿は見えないが、彼女が動く度に周囲の靄が渦を巻く。間違いなく、アリマはあの向こうで、戦っている。

「どうして……?」

 ぽつん、と言葉が溢れた。

 何かの間違いでしょう? だって宮野さん、さっきまで優しかったじゃない。宇宙が好きだと夢を話してくれたじゃない。友達だよねって言ってくれた彼女は、どこへ行ってしまったの?

「ここを離れましょう、日下部さん!」後ろから和登の声がする。「ここから先は僕らの役目です、日下部さんには危険すぎます!」

「でも……、――」

「行きましょう、早く!」

 和登が日下部の腕を引く。この状況で自分にできることがないのはわかっている。これは宇宙人同士の――おそらくアリマや和登にとっては日常的に繰り返されている戦闘で、そこに人間が介入するなんてあり得ないのだ。

 しかしここでこの場を離れたら、アリマはどうなる? 夢で見たのと同じように、アリマは宮野を殺すのか? 或いは宮野がアリマを殺すのか?


 それでいいのか?


 ――あたしはどっちも嫌だ。


「……行けない」日下部は頭を振った。「アリマのことおいて逃げるなんて、そんなことできない」

 それに、何よりも予感がした。この戦いが終わったら、アリマはいなくなる。日下部の中からも、この世界からも、本当の意味で有馬栗珠は消えるだろうと。

「助けてください、先輩! アリマのこと、助けてください!」


 *  *  *


 ワトソンは思案していた。助ける、と言っても後方援護が得意な自分がここで出て行っても役に立たないのは目に見えている。だから接近戦はテイラーに任せるとして、援護するならここから狙撃するくらいしかない。ただミリヤには訊きたいことが山ほどあるため、ここで消滅させてしまうわけにいかないのが難点だ。とすると、麻酔か麻痺か、捕獲用カプセルを撃ち込むしかない。

 この場所からの距離は百メートルもない。通常の狙撃ならまず外れることはないだろう。ワトソンにはその自信がある。問題は二人の動きが速すぎることだ。

 捕獲用カプセルなら命中したものを分解して小型の球体カプセルに吸い込ませるだけ。日常の戦闘で相手を捕らえたければよく使う手段だ。しかし発射後の速度が遅く、今目の前で繰り広げられている超高速な戦闘が対象では軽く避けられてしまうだろう。ならば、薬弾を使うしかないのか? しかし、それでは……――。

「どうするんですか?」

 日下部が不安げな視線を向けてくる。まさかこの世界の人間を宇宙人同士の戦闘の真っ只中に置くことになるとは、ワトソンにとって――いや、アルカにとって最大の失態である。

 しかしそんなことを嘆いている場合ではない。ミリヤ・アントワネット・エ・カルティー――彼女の存在は前々からアルカでも注視されていた。その理由はただ一つ、同種族の中でも度を超えた戦闘能力を持つからだ。実際にここから見る限りでも彼女が人間という種族であることを疑ってしまうほどに、それは抜きん出ている。ワトソンも、おそらくテイラーでさえも対面したことのないレベルと言っていい。考えなくはないが、あれではテイラーが負けることだってあり得る。

 早く、何かしら手を打たなければ。そのためのチームなのだ。でも――。

 ――「迷わずに撃て」

 テイラーがいつも言う。昔から優柔不断さだけが直らないワトソンが、立ち止まりそうになった時に。


 ――「私を殺してでも、撃て」


 そんな無茶を言うなよ、と反論したかった。だが、次第にわかってきた。戦闘とはそういうものなのだ。敵が味方か、選ばなくてはならない場面に遭遇した時、どちらを優先するかなんて考えている時間はないし、迷う価値もない。最優先にすべきは、『僕らは何のために存在するのか』なのだから。

 彼女は優秀だから、これまでそんな危機的状況に陥ったことがない。ワトソンはその天秤を使うことなくやってこられた。でも、今は?

「先輩!」

 自分はミリヤを撃たなくてはならない。テイラーは間違いなくそう指令を下すだろう。しかし本当に撃つのか? 撃てるのか? 万が一外れた時のことを想像すると両腕が震え出し、息ができなくなる。

 この少女の目の前で、自分にはそれができるのか?

「日下部さん、僕には……僕にはここから宮野さんを狙撃するしか方法がない」

 彼女はやはり目を見開き、言葉を詰まらせた。

「狙撃って……宮野さんを、殺すの?」

「いえ、一時的に動けなくするだけですから、当たっても宮野さんが死ぬことはありません」

「なんだ……」日下部は安堵の息を漏らす。が、そうも言ってはいられない事実がある。

「ただ……」

 本当に、これを使うしかないのか――?

 人間にとって『毒』というものが存在するように、宇宙人にだって当然それはある。ただ今問題なのは、ワトソンやテイラーの属する種族が、著しく薬品系に弱いというところ。つまり、もしこれが外れてテイラーのほうに当たったら――。

「もしこれが有馬さんに当たったら、有馬さんは助からない」

 有馬栗珠は死ぬことになる。

 日下部明の目の前で。


 *  *  *


 白い靄を斬り、大きく振り翳された刃を寸でのところで柄が受ける。有馬はぐっと奥歯を噛んだ。有馬栗珠の両腕では吸収しきれない衝撃が雷のように体を貫く。

「随分余裕じゃない。人の心配していられるなんて」ミリヤの綺麗な顔がすぐ近くで歪む。「本気でやりましょうよ、テイラー」

 そう言うこいつこそ余裕だ。人間という種族は体当たり戦には絶対的に不向きで、彼らの持つ高い知能で作り出した『兵器』を使うのが一般的だった。しかし今の彼女はそれに当て嵌まらない。

 なぜだ? 派手な戦闘に及ぶことは現段階での目的に反するのか? しかしこの状況が長引けばいつ何が出てくるかわからない。おそらくここで本気を出されたら、テイラーは勝てない。少なくとも有馬栗珠の姿では。

 競り合う柄がバチバチと音を立てる。腕が痛い。それでも自分自身が許さないから、有馬は踏ん張るしかない。ここで、日下部の前で、テイラーに戻りたくない。

 こんな時にまでくだらない意地を張っている場合か、と笑いたくなる。日下部はもうわかっている。有馬が宇宙人で、この姿がまゆつば物にすぎないことを知っている。だからもうそんな意気地は無用であるのに、なぜ有馬栗珠にこだわる?

 もうわからない。自分でも。

「失礼しちゃうわね」

 膨れ面のミリヤは押し切って一旦距離を取った。未だ余裕綽々、しかし有馬は腕が痺れて感覚がない。柄を握っているだけで精一杯だ。

「ホント、ここの人たちってお気楽っていうか、呑気っていうか。ねぇ、あなたもそう思わない?」

 無邪気に首を傾げる。そうやって何の罪悪感も抱くことなく、どれほどの世界を滅ぼしたか知れない。

「さぁ……どうだろうね?」

 優しさだの思いやりだの、自分たちが守ってもらっていることにすら気付かずにそんな生温いものに縋って、いつまでも平和なんて幻想から抜け出せない。

 ――同じだ。あの頃の、私たちと。

 なす術もなく、無様に、何が起きたのかも理解できないうちに皆が死んでいった。皆、馬鹿だ。誰とでも手と手を取って笑い合えば円満でいられるとでも思っているのか? その裏に敵の顔が隠れているかもしれないと、なぜ疑わないのだ?

 あの日、思い知った。平和なんてものは儚く脆い、ただの幻なのだと。確かにあの世界はミリヤたちに潰されたかもしれない。しかし本当の意味であの世界を滅ぼしたのは、その甘ったるい考えだ。我が目に見えるもの、聞こえるものしか存在しないと信じて疑わないその価値観だ。

「私たちは教えてあげてるのよ。力は力で制し、弱い者は屈する。それでこそ均衡は保たれる。ただ平和なだけじゃ駄目なのよ。わかるでしょ?」

「均衡だと? お前らの行為はただの支配だろ? 意味を履き違えるな」

「仕方ないわ。必要なのは争いなのよ。戦わずして進歩するなんてあり得ない。現にここだって、私たちのお陰でこれから大きな歴史的第一歩を踏み出すのよ。他世界の存在を認識する……それだけで文明は飛躍的に進歩するわ」

 ミリヤは間違っていない。戦えば、進歩するだろう。もっと強くなりたい、強くならなくてはと願うから、前へ行ける。己のすべてがそれを欲する。だから、間違っていない。もしそれを間違いだと言うなら、これまでのテイラーのすべてが間違いだったことになる。

 故郷の世界で、生温い平和に浸かっていたら、今の自分はあるだろうか? あの日、あの世界が滅んで、だからこそ強さを渇望したのだ。

 でも、それは本当に、正しい道だったろうか?

 誰かが誰かを傷付けなければ、誰かが傷付かなければ、前へ行くことはできないのか?

 ミリヤが地面を蹴った。ガツン、という衝撃。既に鼻の先で二つの刃は競り合っていた。

「親切で教えてあげるけど、私、あなたの相棒の弾なんて簡単に避けられるわよ」

 やはり気付いていたか。

 ワトソンは戦闘に向かない。特に近距離で戦えば自殺するようなものだ。でも、後ろは任せられる。

 狙っているのは知っていた。彼がテイラーの指示なしにどういう判断を下し、決意したのかは何となくわかる。それでいい。だからあとは突き進め。自分は彼の決意が無駄にならぬよう、立ち回れば良いだけだ。

 刃先が脇をすり抜ける。時々頬を鋭い風が掠めていく。冷たい。気配を聞きたいのに、鼓動が邪魔だ。有馬の体は動きづらい。

「ねぇ、テイラー。いつまでそうしているつもりなの? あなたがその可愛い中学生の姿でいる限り、私には勝てないわよ」

 それで十分だ。たとえこの世界で有馬栗珠が死んでも、この世界に穴が開くことはない。だから、勝てなくていいのだ。でもその代わり、お前も勝てない。お前はワトソンの弾を避けられない。どんなに劣勢でも、私が、避けさせないから――。

「宮野さん!」

 唐突に二人の刃が遮られた。悲しいのか、怒っているのか、判別できない。穴から這い出た日下部は土にまみれていた。

「もうやめようよ! 宮野さんってそんな人じゃないじゃん。あたしのこと友達だって言ってくれたじゃん!」

 ――馬鹿なのか、あいつは。

 有馬はふと我に返った。そうだ。忘れていた。日下部は究極に馬鹿なのだ。馬鹿で、正直で、人が良くて。そんなだから、君は……――。

「明ちゃんってホントにお人好しの良い子なのね。だからすぐ宇宙人に騙されちゃうのよ」宮野が溜息混じりに笑う。「私たち宇宙人の目的は、学校で仲良くお友達ごっこすることじゃないの。その有馬栗珠だってそう。明ちゃんはずっと騙されてただけ」

「そんなことない」

「明ちゃんが見てきたものも、信じていたものも全部宇宙人の作りもの。嘘なの」

「嘘なんかじゃない!」

 嘘なんだよ、と言いそうになって、有馬は言葉を呑んだ。日下部はこの距離でもわかるくらい肩を震わせて、泣き出しそうな顔をしていた。

「有馬はちょっと変だけど、でもいい奴だよ。あたしが財布に三十二円しかない時は百円貸してくれるような、すっごい良い奴なんだから! 宇宙人でも何星人でも、それは……それは絶対嘘なんかじゃない」

 この世界にとって嘘でも、日下部には真実だった。

 有馬栗珠が死んでも、この世界に穴は開かない。

 しかし、日下部の世界には、大きな穴が開いてしまうのかもしれない。

「随分飼い慣らしたじゃない。あなたが死んだら、明ちゃんはさぞ悲しむでしょうね」

「有馬は死なない! アリマグリッド・クリステル・テイラーは、地球を守る正義の味方だもん! この世界のルールじゃ、正義の味方は絶対負けちゃ駄目なんだから!」

「『正義の味方』?」ミリヤは高らかに笑った。「あなたみたいに非道で残忍な人でもここではそんな美しいものになれちゃうわけ?」

 笑えるよ。有馬自身ももうわかっているのだ。

 正義なんて、儚い。美しく、強いようなふりをして、本当は脆くて、信用できない。知っているよ。絶対の形を持たない、卑怯な奴なのだと。

 ――お前の言うとおりだ。

 確かに、今の私にはこれが真の正義だと、正当化することはできない。

 しかし、それでも――。

「ミリヤ。悪いがここで私の正体を晒すつもりは毛頭ない」

 それでも私には、守らなければならないものがある。

 だから私は、ただ私の信じる正義を、最後まで貫くだけだ。

「変われば変わるものね、テイラー」ミリヤは短く鼻息を漏らした。「じゃあ、()()()()

 有馬は瞬時に身構えた。が、ミリヤの足は動こうとしない。ただ剣を持つ右手がすっと横に上がり、剣の形が変わっただけだ。それは黒い、銃だ。

 ミリヤは銃に持ちかえ、それを日下部に向ける。

「こうしたら破綻するのはあなたの正義? それとも、あなた自身?」

 ――愚問だな。

 有馬は笑った。そんなもの、訊くだけ無駄だ。己の何が壊れようと、何を失おうと、彼女がいれば、この世界があれば、何もいらないのだ。

 そのために私は剣を振る。

 それが私の正義だ。


 *  *  *


 無音。

 日下部が目を開けると、白く柔らかな地面に両膝をついていた。夜空からは雪が降り、辺りは一面真白い。不自然なほど静かな空間の中に、日下部の微かな息遣いだけが響く。

 ふと顔を上げると、遠く小高い真っ白な丘の上に、夜空を見上げて立っている一つの影が見えた。よく知る紺色のセーラー服に、紺色のマフラーを巻いている。黒い髪が背を撫でるように下がって、その蒼白い横顔は微笑んでいた。

「アリマ!」

 日下部は呼ぶが、声は静寂に吸い込まれてアリマには届かない。

 立ち上がってアリマのほうへ駆け出そうとしたが、すぐに足を止めた。

 アリマはゆっくりと片手を夜空に向かって伸ばし、微笑んだ。彼女の見つめるほうを日下部も見ると、夜空にはオーロラが揺れている。驚いて言葉を失い、その美しさに暫し目を離せない。

「日下部」

 静寂の中に、日下部の名を呼ぶアリマの声が響いてくる。我に返って丘の上を見ると、アリマがこちらを向いていた。彼女の口元は何かを言っているように動いているが、声はまったく聞こえない。

 アリマ、聞こえないよ――そう言おうとした時、突如として静かだった雪景色が吹雪に変わり、日下部は反射的に目を覆った。

 次に目を開けると、そこにはもうアリマの姿はなかった。

「アリマ、どこ⁈ ねぇ!」

 辺りを見回すがどこにもおらず、雪が舞い上がるだけだ。

 靄がかかったような彼女の声が聞こえる。

 歩き出そうにも柔らかな雪はいとも簡単に日下部の膝頭までを呑み込んでしまい、思うように動けない。焦れば焦るほど足をとられ、ついには雪を掻き分けた途端に前のめりに転び、日下部の顔が雪に埋もれた。

 ――どこにいるの? アリマ、あたしは、アリマのところに行けないよ……。

 アリマの声が聞こえる。

 今度はもっと、すぐ近くで。

「日下部! 起きろ、日下部!」

 目を開けた。上からアリマの酷く焦った顔が覗いていて、その背景に夜の空が広がっている。ちらちらと舞う雪はもうどこにもない。

 どうしたの? そんな顔をして。

 初めて見る顔だった。


 *  *  *


 私が追う、とテイラーは言った。そうすればワトソンはまだ境界線を越えずにいられる。和登蘭丸はまだ()()の記憶の中に在る者でいられる。だが、彼は躊躇いもなく行ってしまった。

 僕はまだ間に合う。

 でも貴女は、終わりにしなくては駄目なんだ、と。

 あの瞬間、ワトソンは撃てた。それなのに、撃たなかった。撃てなかったのかもしれない。薬弾が逸れてテイラーに当たれば溶けてしまうことを彼は知っていた。いかにもワトソンらしい。撃てば良かったのに。いつも言っている。迷うな、躊躇するな、味方に捉われずに撃て。未だにワトソンが最も苦手としていることだ。彼も日下部のように、優しいから――。

 彼の背中が消えた瞬間、この借りは一生かかっても返せないものになるだろうとテイラーは悟った。

「日下部、起きろ」

 怖くて堪らないよ。目を醒ました君に、お前は誰なんだと訊かれたら、どうしたらいい?

 君って奴はさ、もう既に私が百円貸してやったことしか記憶にないんだろう? いざという時、あのくだらないジュースを味わわせてやるために百円融資してやったことしか思い付かないってどういうことだよ?

 いいよ。もういいよ。私は知っている。わかっている。君は馬鹿で、緊急時に、咄嗟に、たまたま思い付いたのがそれだった。

 本当に君は、馬鹿なんだから、だから、怖くて堪らないよ。そうして私のことなんかすぐに忘れてしまうんじゃないかって。

「……有馬?」

 有馬は惑う日下部を抱き寄せた。

 馬鹿なら馬鹿のままでいろよ。すっかり油断していたから驚いてしまったじゃないか。

 アリマグリッド・クリステル・テイラー――私の本当の名前を君がちゃんと憶えていたなんて。

「……知らなかった。あんな長ったらしい名前、絶対に憶えられないと思ってたのに」

 たった一度だけしか言わなかったのに、憶えていたなんて。

 私の負けだね。

「友達の名前くらい、憶えてるよ。憶えてるけど……、憶えてるけどね――」耳元で日下部の声がだんだん潤んでくる。「ねぇ、有馬、あたしね……――」

 日下部は有馬にしがみ付き、左肩に顔を埋めている。彼女の顔色を覗き見ることすらできない。

「どうしたの?」

「……有馬が誰と戦ってたのか、思い出せないんだよ」

 日下部はゆっくりと泣き出した。その言葉は宮野愛莉がこの世界から消えたことを――世界の境界線を越えたことを意味していた。

 強烈な印象を受けたからだろう。彼女の記憶にはまだ宮野の残像があって、ここで戦闘があったことだけは認識している。しかし現段階で確実に改竄はされているし、おそらくすぐに進行して完全にわからなくなるだろう。

「それでいいんだよ」有馬は日下部の肩を優しく叩く。それが正しいのだ。気に病むことなど何もない。「和登って知ってる?」

 ミリヤが境界線を越えたなら、追ったワトソンも同じだ。ならば、日下部は彼のことも忘れてしまうはずだ。

 案の定、日下部はしばらく黙ってから首を横に振った。一度は思い出そうとしたのかもしれない。答えるまでには少し間が空いた。

「聞いたことある気はするけど、誰だかわかんない……」

「……うん。それでいい」

「皆、ホントに宇宙人なの?」

「そうだよ」

「有馬はホントにいなくなっちゃうの?」

「任期が満了したら、だけど……そこまでもたなくなっちゃったな」

 宇宙人の交戦に人間を巻き込んだのは日下部が初めてだ。だいぶ派手にやらかしたし、これが何事もなかったなんて都合良く片付くはずがない。おそらくすぐに帰還命令が下るだろうし、アルカ本部に戻って詰問と叱責の嵐に見舞われるのは避けられない。

「じゃあ有馬のこともこうやってわからなくなるの?」

「……そうだよ」

 頷きながら、自分の声が震え、霞んでしまっていることに気付いた。これだから人間は嫌だ。自分の意思よりも正直に、勝手に体が動いてしまうのだから。

 ――怖いなぁ……。

 君に忘れられるのが、すごく怖いよ。

 自分はきっとしばらく時間が経ったら、またこの世界のどこかでここの人間のふりをする。誰かを生き、何かと戦い、そしてまたしばらくしたら消えて、また別の誰かとして戻ってくる。この世界が異世界の存在を発見し、自らの身を自らの力で守れるようになるまで、テイラーはずっとそれを繰り返すだろう。しかしそれまで有馬栗珠は日下部の頭の中にはいられない。これはあくまで自然現象であって、日下部が馬鹿かどうかに限らない。仮にもう一度この姿を作って会えたとしてもテイラーがわかるだけで、日下部にはもうわからないだろう。

 そういうものなのだ。

「でもね、――」日下部はぱっと有馬の肩を離れた。兎のような赤い目が有馬を見つめる。「夢を見たんだよ。雪の中で、有馬がオーロラを見てる」

「それは本当に夢だよ。あり得ない」

「見に行こうって言ったじゃん。もう少し大人になったら、一緒に」

「うん、それはね、すごく……嬉しかったんだ。本当は。でも……――」有馬は言葉を選びながら続ける。「体質的に、寒いところへ行くと行動できなくなっちゃうんだよね。もとは半液体だから、その……――」

「凍る?」

「そう、そんな感じになって、とにかく動けなくなる」

「なのに、なんで見たいの?」

「昔、故郷では、よく見られたから」

 今はもう存在しないんだけど、と付け足しながら見上げた空は黒い。故郷の空もこんな風に黒くて、有馬はそれが嫌だった。いつかあの黒い塊がドンと地上に落ちてきて、すべてが真っ黒に染まってしまうのではないかと思って眠るのも怖かった幼き日に、時折現れる不思議な光の羽衣が辺りを明るく照らしてくれた。

「どうして?」日下部が訊ねる。「有馬の故郷って、きっと綺麗なところなんでしょ?」

 ふと記憶の中の風景が目の前に浮かぶ。もうどこにもない、あの頃。

「……私の故郷はね、――」綺麗なところだ。今だからそう言える。「ここと同じ、異世界の発見が遅れてる世界で、気付いた時には侵攻されて、壊滅状態だった。私も和登も、その生き残りっていうわけ」

 だからここのは消したくなかった。

 ただ、それだけだ。

「……あったかくして、行けばいいじゃん」

「は?」

「カイロ貼ってー、耳あてとマフラーと帽子と……あ、スライムなら魔法瓶にでも入ってく?」

「……やっぱり日下部は馬鹿だね」有馬はくすりと笑ったが、日下部は至って真面目に考えているようで、有馬が数学を教えてやっている時と同じ顔をしている。

「だって何にでもなれるんでしょ? てかそれじゃあもしかして、その見た目も好きなのにできるの?」

「そうだよ」

「なんでその外見にしたの?」

「なんでって……――」アリマは頭を僅かに右に傾けた後、真顔で答えた。「どうせ化けるなら中の上くらいがいいでしょ」

 日下部は堪らなくなったのか、けらけらと声を上げて笑い出した。なぜ彼女がそんな風に笑うのか有馬にはいまいち理解できなかったが、それでもいいと思った。そこにあるのは自分がいつまでも憶えていたい顔だ。

 サヨナラ、世界。

 有馬栗珠は宇宙人。

 これをもって、任務を完了する。


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