エピローグ
中学三年の時に夢を見た。単なる夢にしてはあまりに長く、途轍もないリアリティを伴う不思議な夢だった。もしかしたら現実だったのかもしれない、と思ったこともある。しかし内容はまるでハリウッド映画さながらのSFアクション大作だ。人間に化けた宇宙人が地球で中学生生活を送りながら、外からやってくる侵略者と戦うなんて、現実としてはあり得ない。しかもその宇宙人が自分の一番の友達だなんて。
けれどその夢から醒めた時、日下部の中に淋しいという感情が残っていたのは確かだ。しばらくの間それは消えず、夜になると理由もないのに人知れず涙することもあった。
なぜそんな夢を見たのかは大方すぐに見当がついた。その頃趣味で描いていた漫画が地球を守る宇宙人の話だったから、きっと眠りに落ちる寸前まで頭が先の展開を考えていて、それが反映されてしまったのだろう。そのお陰で行き詰まっていたストーリーが一気にまとまって、今の自分がある。だから、あの夢には感謝しているのだ。
約七年経った今、漫画作品として完成し存在してはいるものの、その夢自体は日下部の中で消えつつある。が、未だに脳裏に焼きついて離れない一コマが、時折日下部の中でふと何かを擽る。丸みを帯びた白肌の輪郭に漆黒の髪という人形のような面立ちの彼女――ただその夢の中に存在するだけの宇宙人はどこか懐かしくて、ずっと前から本当に友達だったかのような気にさせるのだ。
だから、と言ったら笑われるだろう。本当に存在したんじゃないか、と今まで何度も卒業アルバムを捲っては彼女を探した。しかし、いるはずがない。彼女はただの夢。大の大人が昔見た夢と現実を未だに混同しているなんて笑い話以外の何物でもない。しかし日本を飛び出てこんな寒空の中、一人で星を眺めている理由は自分でもそれしか浮かばない。ただ、どうしても、忘れられない。あの夢に出てきた宇宙人が、時々、ごく稀に零す優しい微笑みと、あの何気ない口約束だけが。
夢のお陰で完成した漫画は、しばらく自分の中で温めた後、ネットサーフィン中に偶然見かけた出版社の新人賞に応募した。大学で宇宙工学を専攻した日下部にとって、漫画はあくまで趣味にすぎなかったし、その嗜好についてすら誰かに話したことはない。しかし運命とはつくづく面白いもので、何気なく応募したそれで日下部はあっという間に漫画家の卵としてデビューをものにしてしまった。何かの冗談のような、一瞬の出来事だった。
あたし、漫画家になるみたい――母は心配しつつも喜んでくれた。でも、何となく違う。本当は誰か別に報告したい人がいる。一番に駆けて行って伝えたい人だ。それなのに、誰にしたいのかわからない。
ここに来たら、何かがわかるかもしれないと思った。確証はない。ただそんな気がしただけだ。でも日下部はここまでやってきた。七年もの間、日下部を虜にし続けたあの夢との、あの少女とのけじめをつけるために。
滑らかな隆起の連なる蒼白い丘は、天高くから降り注ぐ星明りに煌めき、とんがり帽子の針葉樹の森は影に抱かれて静かに眠る。
「この世界は綺麗ね」
夜空は満天の星を抱えきれずに一欠片落としてしまったのかもしれない。静寂の中、滴る雫のようにその声は日下部の上に降ってきた。
日下部は座ったまま、頭を傾げて後ろを向いた。英語が話せないわけではない。しかし異国の丘で思いがけずその言語を聞くと心は揺れる。音、リズム、アクセント――何の抵抗もなく体はその言の葉を受け入れ、ふわふわと暖かな気分にさせる。
そこに立っていたのはまるでダルマだった。絵本の中によく出てくる、動き回る雪だるまだ。帽子にマフラーはもちろん、膨れ上がった体には何枚着重ねているのかわからない。辛うじて隙間から覗く灰色の瞳が、彼女が日下部とは違う民族であることを主張しているだけで、まったく全容は掴めない。
「あの……」言い掛けてから、せめて異国の言葉で返すべきだろうか、と躊躇した。しかしその心配はすぐに消されることとなる。
「日本人だよね?」声は女だ。が、それよりも日下部が驚いたのは別の点である。
「日本語、喋れんの?」
「うん」ダルマの頭部が縦に動く。「昔、日本に住んでたことがあるの」
「そうなの? どの辺?」
「忘れちゃった」聞いていると心地好いくらいにナチュラルなイントネーションである。「一人で来たの?」
「そうだよ」
「変わってる。女の子で、学生で、一人旅なんて」
「だよね。自分でもなんで来たのかよくわかんないんだよ。あたし、オーロラなんて別に興味ないしさ」
「じゃあ、なんで?」
なんで――本当に、なぜだろう? 自分でも可笑しくなってしまう。夢に出てきた名前も知らない友達と、一緒に見に行こうと約束をした気がするから、なんて。
「やっぱあたしが馬鹿だから、かな?」
日下部は笑うしかなかったが、ダルマは鼻歌のように、ふぅん、と頷いて空を見上げていた。時折星々のうちの一つが流れて消えていくが、もうそんなものは見慣れて、願うことすら忘れている。
「どのくらい日本に住んでたの?」
「三年くらいかな」ダルマは少し首を傾げてはいたが、すぐにそう答えた。
「留学?」
「そんな感じ。ちょっと問題があって、早く切り上げることになっちゃったんだけど」
「えー、そりゃ残念だったね。でも三年でそんなにベラベラ喋れるってすごくない? 日本人みたいだよ」
「だって私、優秀だもの」そう言って、ダルマの瞳が初めて笑った。金色の長い睫毛がキラキラと光って見えた。相変わらず真の姿はよくわからないが、おそらく可愛らしい顔つきをしているだろうと思った。
「日本、楽しかった?」
「うん」ダルマの返答に迷いはなかった。「初めて、大事な友達がいたから」
「彼氏?」
「違う、友達。すごく馬鹿な奴で、あんなの絶対に恋人にはしたくない。けど、私にはとても大事な友達だった」
褒めているのか貶しているのかまったくわからない。しかし彼女にとっては本当に大切な友達だった人なのだろう。それは瞳を見ている彼女の目だけで十二分に伝わってきたくる。
「じゃあまた会いに行かなきゃね」
しかし日下部が苦笑いをすると、ダルマは急に目を細め、顔を下に向けて首を横に振った。それが「行かない」という意味だと理解するのに少しの時間を要した。
「なんで?」日下部が訊ねる。
「行っても、あっちはもう憶えてないから」
「大丈夫だって」
「そういうものだから」
「淋しいこと言うなよ」
「淋しい?」
「当たり前じゃん」と言ったところで日下部は口を噤んでしまった。ふと、前にも同じことを誰かと話したことがあるような気がした。
――あぁ、嫌だ。
ここ数年、こういったことがしばしばあって、その度にドキッとしてしまう。所謂デジャヴというやつだろうが、皆もこんなに頻繁に起きているのだろうか?
と、ダルマはくすくすと笑い出した。日下部は真剣に言ったつもりだったが、そうは捉えられなかったようだ。何かを言い返そうにも言葉は思い付かず、誤魔化しに使えそうなものここにはない。ただ、ただ、ばつが悪い。せめてオーロラがちらりとでも顔を覗かせてくれたら良いのに。
「私、もう行くね」ダルマの声は明るく、清々しかった。
「帰るの?」
「寒いから」彼女の言った理由は妙に説得力があって、日下部は「そっか」と頷くほかなかった。
平気だと思っていてもやはりどこかに心細さがあるのだろうか? たとえダルマだろうと関係ない。束の間に現れた日本語がまたどこかへ消えてしまうと思うと急につんと寂しくなる。
「ねぇ、――」日下部は彼女を呼び止めた。「あたし、日下部明って言うの。あなたは?」
少しあって、ダルマはふっと微笑んだ。その瞬間、とても懐かしい匂いが鼻をついた。日下部は焦った。咄嗟に顔を背け、下を向いた。どうして? まったく身に覚えがないのに、勝手に涙が溢れてしまいそうなのだ。
「日下部」
はっと顔を上げると、ダルマは空を見上げて彼方を指差していた。彼女の厚ぼったい手の先で、黄金色と玉虫色の巨大な羽衣が波打つように揺れていた。じわじわと自分の中で何かが通っていくような感覚がした。
「私の名前はね、――」
ダルマは嬉しそうに笑っていた。
実は二〇一二年の頃だったかと思いますが、一年ほど、海外に留学していたことがあります。
それ以前にも学校の行事やらで短期間の海外生活は何度か経験がありました。でもまさか自分が一年もの長期間、異文化の中で生活することになるなんて思ってもみませんでした。大学ももう卒業するつもりで単位もすべて取り終えていたのに、本当に突然日本の地を旅立つことになりました。人生は面白いものです。
当然、その国の言葉を勉強していたわけですが、読み書きは得意でも喋れない。おまけに僕が入ったのはインターナショナルスクールのような部門だったから、世界各国からの留学生が何百人も集まって、互いに不慣れな言語で、来る日も来る日も辞書を片手にコミュニケーションをとっていました。日本人ももちろん大勢いましたが、日本全国から来ているので話すのはあちこちの方言なわけです。時折認識の違う言葉があったり、食べ物の呼び方や味付けが違ったり、もはや外国の方とそう変わりません。
素晴らしい経験になりました。世界各国、それこそ聞いたこともないような国から単身やって来たという人もいるし、しばしばニュースに出てくる『絶対に旅行では行けない国』の人もいました。年齢も、職業も、宗教もバラバラ。でも、みんな良い人。価値観も何もかも違うけれど、みんな話せば良い人で、ニュースでは敵対し合っているはずの国の人が仲良くグループワークをしたり遊園地に遊びに行ったり、馬鹿みたいなくだらないことを言い合って笑っている。そういう世界がありました。本当に、素晴らしい経験でした。世界にはいろいろな人がいて、みんな違ってみんな良い。「世界中誰だって微笑めば仲良しさ みんな輪になり手を繋ごう」——あの歌の尊さを知りました。みんな、もっと話せば良いのに。あの小さな教室の中で、僕たちは互いに互いの思いを伝えようと、理解しようと、言葉を探して、目を見て、手を使い体を使い、来る日も来る日も必死になっていました。もちろん人間だから好き嫌いはあったと思うけれど、それでも相手を知ろうとしていたのです。
その一年間の『宇宙人』たちとの交流を経て、生まれたのがこの作品です。
はじめは演劇用の脚本として完成し、それから、何となく『アニメっぽい』と思って小説化しました。この作品がアニメだったら、と想像して、オープニングテーマはこんな曲にしようとオリジナル曲も作りました。
僕が海外で暮らしていたのはたった一年足らずでした。今となってはまるで夢を見ていたかのような感覚で、あの時学んだ言語も既に忘れてしまいました。ですが、その時間のおかげで得ることができた価値観や感性は、今の自分を形成する重要な一部になっています。あの一年がなければ、僕は日本語を素晴らしい言語だとは思わなかったでしょうし、この作品に出てくる愛すべきキャラクターたちにも会えました。あの時間をくれたすべての人に感謝すると共に、今まさに戦乱の中にある人々に一日も早く安寧の世が訪れることを切に願っています。




