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第四章 天使の降臨(1)

 友部亜梨沙は幼稚園の頃からの友達で、家も子供の足で五分とかからないところにあってよく遊んだ。小学校に上がるくらいまでは家族ぐるみの付き合いがあったほどで、日下部は彼女を『トモちゃん』と呼んでいた。

 昔から元気だけが取り柄で、しょっちゅう男の子を泣かせていた日下部と逆で、トモちゃんはとても大人しかった。幼稚園でも日下部以外の友達と話すことはほとんどなく、日下部がいなければいつも一人で絵を描いたり本を読んだりしているような子だった。それは親からも先生からも心配されていて、トモちゃんのお母さんからは「亜梨沙のことをよろしくね」とよく言われた。だからいつの間にか日下部の中で、トモちゃんと一緒にいることは無意識に義務化されていった。トモちゃんはあたしがいないと一人になってしまう、自分はトモちゃんといなくてはいけない、一人は寂しいから、だから、あたしが一緒にいなくては駄目なんだ、と。

 小学校に入って最初のクラスは別だった。日下部はすぐに友達ができたけれど、トモちゃんは違った。帰りに一緒になった時、なかなかクラスの友達と仲良くできないらしいことが窺えて、日下部は休み時間になると彼女のクラスに通った。日下部が行くとトモちゃんは笑ってくれるからそれでいいんだと思っていた。

 いいんだと、思い続けていたならきっと、良かったのだ。それならきっと、彼女を裏切ることはなかっただろう。

 なぜ、という疑問が日下部の中に姿を見せるようになったのは小学校に上がってすぐだ。しかし日下部はそれを誤魔化し、打ち消し続けた。だが消えずに蓄積されていったそれは三年生になった時、いよいよもって日下部を突き動かす。

 あたしだっていろんな友達と遊びたい。

 なんでいつもトモちゃんなの?

 日下部はトモちゃんのクラスに行かなくなった。帰り道も別の友達と帰り、徐々に遊ぶのもトモちゃんではなくなっていった。向こうから話しかけてくる時は普通に接したけれど、自分からは行かない。そんな関係が一年くらい続いたある日、日下部はトモちゃんがいわゆる虐めに遭っているという事実を知った。物理的な暴力はない。ただ、クラスで『いないもの』になっているだけだ。誰も彼女と話をしない、誰も彼女を見ない――ただそれだけ。

 そのことを知った時、日下部の中に同情の気持ちは欠片もなかった。逆に妙に納得したし、当然だろうと思った。自分からは話し掛けず、ただじっと誰かが来てくれるのを待っているなんて甘えだ。一人になるのが嫌ならば、自分でどうにでもすればいいじゃないか。「ねぇ」と声を掛け、「そうだよね」と相槌を打ち、ニコニコと笑っていれば友達なんていくらでもできる。一人にならないためにそれくらいの努力はするべきで、そこに壁を作っているのは彼女自身じゃないか。

 四年生の終わり頃から、トモちゃんを学校で見かけなくなった。そして五年生の夏休み明け、クラスで先生が言った。「友部は転校した」と。

 おそらくあの性格では学校を変えたところで意味はないだろう。子供は正直で、付き合いづらい人間と付き合うなんて許容は子供にはない。皆、自然と無視しているような状態になって、トモちゃんはまた『いないもの』になる。

 想像してみても、それならそれでいいじゃないか、と思えた。日下部にはトモちゃん以外にも仲の良い友達はたくさんいる。転校先の学校について行けるわけでもなし、幼馴染であるかもしれないがそれはもう過去の話で、彼女は日下部とは関係ない。

 でも、気付いてしまった。

 トモちゃんが転校したことに、ショックを受けている自分自身がいる。

 だって、きっと、あたしならできたから。あたしならトモちゃんと話せたし、あたしがいればトモちゃんは『いるもの』だったはずだ。「亜梨沙をよろしくね」って言われてたのに、あたしが近くにいなかったからいけないんだ。

 あたしなら、できたのに――。

 だから、ただ罪滅ぼしのつもりだったのかもしれない。あの日、入学式の後の教室でアリマに初めて会った時、アリマははじめから誰も寄せつけようとしない雰囲気を持っていて、まるで空気のようにそこに座っていたから。解散した教室から一番はじめに出て行ったアリマを追いかけて、日下部は下駄箱で声を掛けた。

「一緒に帰ろう」

 トモちゃんへの償いの気持ちがなかったなんて言えない。あの時日下部を突き動かしていたのは間違いなく、トモちゃんがいなくなった日に抱いた罪悪感と後悔だった。

 そのことに気付いたのはだいぶ後になってからだ。アリマはトモちゃんとは全然違うとわかって、日下部の中に初めて迷いというものが生じた時――アリマはいつも何を考えているのか読めなくて、日下部がどんな話題を振ってもいつも同じ反応しかしない。怒ったり笑ったりすることは滅多にないし、泣いたことなんて一度もない。日下部はだんだんアリマの近くに自分がいるのはいけないことなのではと思い始めた。

 ――無理に仲良くするのはやめよう。

 何度そう思っただろう?

 仲良くなりたいと思っているのはあたしだけで、アリマは何にも思ってない。アリマにはきっとあたしの知らないアリマの世界があって、そこにはアリマしか知らない人たちがいて、そして、あたしの知らないアリマがいる。アリマは強いから一人でいるのなんてへっちゃらで、あたし一人いなくても何とも思わない。それどころかあたしみたいなのがくっついていると迷惑だって思っているかもしれない。

 アリマは、あたしとは違うから。

 そんな片想いは虚しいだけ。


 虚しいだけじゃないか。


 あたしだけがアリマに近づきたい。あたしだけが、いつも一緒にいて、皆から「仲良いね」って言われて、喜んでる。「日下部だったら有馬さんと話せるでしょ?」と言われることで、自分は特別な存在になれているなんて勘違いだ。そんなのはただの自己満足でしかない。

 わかっている。

 あたしは、何でもない。

 だからやめよう。もう、やめよう――。

 思ってる。何度も何度も考えて、何度だってそうしようとした。

 でも、できないんだ。

 あたしは馬鹿だから。

 ごめん、あたしは馬鹿で、どうしようもなく我儘だ。

 あたしは楽しいよ。アリマと一緒にいるのが、どうでもいいこと話して、一緒にご飯食べたりするのが、一つひとつ、楽しい。そういう時間が好き。だから今のままでいられたらいいなって、もっと仲良くなれたらいいなって、思ってしまうの。

 ――ごめんね、アリマ。

 もう少しだけ、あたしの我儘、付き合ってくれるかなぁ?

「日下部と同じ高校で良いです」――あの時アリマがそう答えてくれたこと、嬉しかった。たとえその場限りのデマカセだったとしても。

 今日、終業式の後に二学期の成績表を貰った。あの日課題を見てくれたおかげで赤点を免れたよ、と報告したい相手は未だに行方不明のままだ。

 いや、違う。もはやこの世界にアリマは存在していないのだ。成績表を配る時、名前順に先生がクラスメイトを全員呼んだが、その中にアリマはいなかった。出席番号の二番目に呼ばれたのは、日下部の中では三番目であるはずの生徒だった。

 ――あたしは頭がおかしくなったの?

 あの日まで確かにいたはずの彼女のことを今は誰も知らない。

 日下部を除いては。

 夢でも見たんじゃないの、なんてことを言われる。最近はそうかもしれないと思うようになってきた。だって、思うしかないじゃないか。存在したはずの人間が皆の記憶からまったく消えてしまうなんてことはあり得ないし、写真も何も彼女の存在を示すものはないのだ。そんなの、全部夢だったのだと思うくらいしか片付ける方法がないじゃないか。

 もういい。毎朝目が覚めて、学校へ行く度に、今日は元に戻っているかもしれないと思う。教室に行ったら普通にアリマがいて、皆も彼女を知っている。そんな日常に戻っているかもしれないと期待し、落胆することに疲れた。眠りに就こうという時になって、夜が明けて自分も同じようにアリマのことを忘れていたらどうしようかという恐怖に苛まれることに疲れた。

 だけど、だけど、引き止めるのだ。自分自身が、それで納得しようとする自分を引き止める。

 本当に?

 本当にそうだったの? ――と。


 あたしはちゃんと憶えてる。


 有馬栗珠。

 三年二組、出席番号二番。誕生日は六月六日、血液型不明。勉強できて、運動もできて、人形みたいな可愛い顔をしている。寒いのが大嫌いで、何を考えているのか読めなくて、本当に訳がわからないけれど、それでもすごくいい奴。

 あたしの大好きな友達。


 君は一体誰なの?

 今、どこにいるの――?


「日下部ぇ、このあとカラオケ行くんだけど日下部も行かなーい?」

 教室のドアのところで寺島が呼んでいる。彼女の周りにはいつもの顔触れが並んでいて、皆鞄を肩に掛け、マフラーを巻き、如何にも帰る直前といった雰囲気だ。そこに宮野がいるのももう見慣れた光景となった。たった二週間前に突然現れたとは思えない浸透度である。

「ごめーん、今日はやめとくわー」

「えー、なんでー?」

「明ちゃん来ないとつまんないよー」

 日下部はいつも通りの笑い顔を作りながら、適当に言い訳を考えた。絶対に反論されないようなものがいい。親を登場させておくのは説得力を増すための最も簡単な方法だ。

「ごめーん。なんか今日おかんが風邪っぽくてさぁ、家の手伝いしなきゃなんだよねー」

「うわ、偉すぎー。あたし絶対やんないわ」

「あたしもー」

「ホントごめんねー」

 大切なのはここで『私は行きたいのだけれど我慢せざるを得ないので仕方がない』という雰囲気を出しつつ出し過ぎないことだ。その加減は相手によっても変わるし、その相手の気分によっても微調整が必要だから難しい。

「ざーんねん」

「うん、また今度誘って?」

「しょうがないねー」

「じゃ、良いお年を、だね!」

「あ、そっか! 良いお年をー」

 日下部は大袈裟に手を振った。教室を出てもなお廊下から響いてくる賑やかな声が、徐々に遠ざかっていく。それを聞きながら、何の躊躇いもなくさらりと笑顔の嘘を吐けた自分が怖いと思った。

 日下部が行かなくても、彼女たちは楽しい。あの中に日下部がいなくても彼女たちの世界は成立する。人間の存在なんてそんなもの。

 ――アリマがいないと、あたしの世界は成立しない。

 ぼんやりと寄った窓辺から見下ろす校庭は、地面に立っている時よりずっと狭く感じる。四方をフェンスに囲まれた箱の中を黒い行列が縦断している。ようやく学校という縛りから開放され、浮き足立っているのがわかる。

 アリマがいなくなって二週間が経つ。ぼんやりと思い出すのはアリマが消えたあの日のことだ。

 ――「僕らは宇宙人なんですから」

 アリマが消えた直後、アリマの部屋の前で和登に会った。その時に言われた言葉だ。

 何を言っているのだと思った。しかし腹が立たなかったのは、覚えがあったからだ。アリマと最後に会った日、彼女自身に言われた。

 ――「私、宇宙人なのって言ったら、どうする?」


 ――宇宙人って、何だよ?


 確かにアリマはある意味で『宇宙人』だった。だが、それは性格的なことを指すだけで、あくまで人間であることが前提だ。本当に宇宙人だなんて、誰が信じよう? 自分はもう三年近くアリマと一緒にいるのに?

 しかしここは現実で、ある人物の存在そのものが急に周囲の記憶からも環境からも消えてしまうなんてファンタジーが生きられるような場所ではない。「アリマさんって誰?」――そう言われる度に、日下部は自分自身を否定されているように感じた。自分が楽しいと思っていたはずの時間が、大好きだった時間が、すべて幻想だったとこの世界は主張している。

 でも、あたしは知ってるんだよ。

 この前だってアリマと映画のDVDを見たし、家で唐揚げも食べたし、課題だってアリマが一緒にやってくれたからちゃんと出せて赤点を免れた。それなのに、なんで皆知らないの? なんでアリマはいないの?

 いくら日下部が本当だと言っても証明できない。この世界が、それを許してはくれないだろう。

 あの日、和登に連れられて川縁の公園に行った日下部は、まるで小説か何かのネタのような話を聞かされた。真冬の冷たい風の痛さを頬がまだ憶えている。時々遊歩道をランナーが通り過ぎていくくらいで、子供たちで賑わうはずのブランコや滑り台も寂しそうに風に吹かれているだけ。背凭れのないベンチにどんと腰を落として項垂れている和登の姿が、その雰囲気に妙にはまっていた。

 一体何がどうなっているのかと恐る恐る切り出した日下部に、和登はゆっくりと一つ呼吸をしてから話し始めた。

「日下部さんは、宇宙人を信じますか?」

 部屋の前でも和登の口からは同じ単語が発せられた。なぜいきなり現実味のない話になってしまうのか、流れが唐突すぎてすぐには馴染めない。

 和登からの質問に答えられずにいると、和登のほうが再び口を開いた。

「信じないのも無理はないと思います。この世界は明らかに、遅れていますから」と、和登はふと笑みを溢す。「日下部さんはすごいですよ。正直、しばらく時間を置いたら他の人みたいに忘れてしまうんじゃないかと思っていたんです」

「忘れませんよ、あたしはアリマを――」

 言いかけると、和登は頷きながらも柔らかく日下部を制した。

「でもね、本当は日下部さんも、他の人と同じように有馬さんのことを忘れていなければならないんですよ。日下部さんはこの世界の人なんですから」

「……でも、先輩は?」

「僕はこんな格好ですが、有馬さんと同じく宇宙人なんです。だから憶えていて当然なんですよ。僕と有馬さんが親しいのも、一緒に仕事をしているパートナーだから当たり前なんです」

「仕事?」日下部は眉を寄せる。仕事って何だ? アリマは中学生で、和登は高校生だ。学生という二文字以外に職業欄に書き入れる単語があるのだろうか?

 和登は頷きながらも、慎重に言葉を選んでいるようだ。話すスピードもいつもに比べればずっと遅い。

「とりあえず、僕らはこことは別の世界から来た宇宙人なんです。この世界ではまだ知られていませんから信じられないと思いますけど、世界は、一つじゃないんです。ずっと離れたところにたくさんあるんです。そして世界と世界の間には境界線……まぁ、国境みたいなものがあって、僕らはそこをワープして移動しています」いいですか、と時折和登は確認を取りながら話を進める。「でも世界と世界が繋がるということ自体、自然に逆らうことになるんです。万物の掟として、多世界は互いに干渉しないっていうルールがあります。だから、本来その世界に属さない者は、世界から出た瞬間になかったものとして処理されてしまうんです」

 和登は素早く左右を見渡すと、近くに落ちていた木の枝を手に取ってベンチに戻り、地面に絵を描き始めた。『A』と『B』がそれぞれ丸で囲われ、その間に壁のように一本線が引かれている。

「例えば、Aという世界とBという世界があったとします。AとBは本来、繋がることはありませんでしたが、技術が進歩してお互いの世界の存在を知り、行き来することが可能になりました。でもこれはとても不自然なことなんです。だから、世界はそれを正しい形に戻そうとする。怪我をしても、時間が経つと治ってしまうでしょう? それと同じような感じです。Aに住んでいる人がBに行っても、その人はもともとBには存在しない『異物』でしかないので、その人がBを出て行った瞬間に、世界の修正が始まってしまうんです」

「修正って、どこを?」

「じゃあ、僕らの話に戻りますね。日下部さんの住むこの世界にとっては、僕と有馬さんは『異物』なんです。だから僕らはこの世界の境界線を出た瞬間に、修正の対象になります。この世界にとっての正は僕らが存在しないことです。だから僕らがいた間のことは全部、僕らが存在しなかった過去に変わります」

「そんなのあり得ない」

「あり得ないと思っても、それが自然の摂理なんです。現に、有馬さんは存在しなかったことになっているでしょう?」

 日下部はぐっと言葉に詰まった。確かに、置かれた状況は彼の言うとおりだ。

「で、でも、あたしはちゃんと憶えてますよ? アリマのこと――」

「日下部さんがいつまでも有馬さんのことを憶えているのは、日下部さんの中で彼女の存在が人より大きくて、修正がきかないからです。普通の人は、日下部さんが言うようにとっくに忘れています。有馬さんが境界線を越えて間もなく、修正によって記憶が改竄されてね」

「え、じゃあ……アリマはもうこの世界を出て行っちゃったってことですか? あたしに何にも言わずに?」

「それが少し気掛かりなんですよ」和登の表情が急に強張る。「修正が始まっている以上、この世界の境界線を出たことは間違いありません。ですが、僕らには任務期間中、境界線を越えちゃいけない決まりがあるんです。有馬さんは優秀です。今までもずっと、規則に反したことはありません。なのに今回だけこんな行動に出るなんて僕には納得がいかない……ひょっとして、自分の意思で出て行ったわけじゃないのかもしれません」

「どういうことですか?」

「誰かが有馬さんを追い出したってことです。もちろん、この世界の住人じゃない誰かってことになりますけど……」

 和登の口調はそこで急速に明瞭さを欠き始めた。日下部が何か訊ねても、返ってくるのは曖昧にぼやけた答えばかりだ。

 なんだか馬鹿らしく思えてきた。はたから見ればこんな話を真剣にしていること自体がおかしくて、完全に『中二病』である。もはや漫画を描くことを妄想と馬鹿にされる程度のレベルではない。

 何を信じたらいいのか、わからない。本当は自分の記憶が間違っているのかもしれない。夢と現実との区別がつかなくなって混乱しているだけで、和登はただ話を合わせるために宇宙人の壮大な作り話をした――それが一番すんなりと受け入れられる筋書きだ。

「……あたしは、どうしたらいいんですかね?」

「何も……とりあえず、待つしかありません。日下部さんはいつも通り、普通の生活をしてください」

 普通って何だろう? いつも通りの生活には、アリマが必要だ。

「待ってたらアリマは戻ってくるんですか? 待ってるうちにあたしがアリマを忘れちゃったら?」

「その時はその時です」

「そんなの嫌ですよ!」思わず日下部は声を荒らげた。「何か忘れない方法とかないんですか? あたし馬鹿なんですよ、アリマや先輩と違って頭悪いから、このままじゃホントに忘れ――」

「それでいいんです」和登は深く頷いた。「いいんです。忘れて。有馬さんは日頃から、自分がいなくなった時の日下部さんのことを心配していました。あなたは有馬さんと親しくなりすぎたんです。もしかしたら、存在を忘れていく過程で大きな負担がかかるかもしれない」

 ――でも、あたしは――……。

「日下部さんが有馬さんのことを忘れても、有馬さんは何とも思いません。どんなに嫌がっても、記憶の改竄は避けられませんし、それこそが正常だとわかっていますから」

 あの日以来、和登とは一度も会っていない。ただ待つことが彼からの指示だったから、日下部は大人しくそれに従った。そうすればアリマのいる日常が戻ってくるかもしれないと信じるしかなかったから。

 しかし、何も、変わっていない。相変わらずアリマは帰ってこないし、日下部は未だに有馬栗珠を忘れない。

 ――いつまで待っていればいいの? あたし、アリマのこと忘れちゃうよ? 本当にアリマはそれでいいの?

 それとも、やっぱりあたしは、アリマと友達になったらいけなかった――?

 校庭に連なる制服集団の中に、寺島らの後ろ姿が混ざっているのが見えた。皆が同じ姿のあの群衆の中にいてもすぐに見つけられたのは宮野の存在が大きい。ふわふわの長い髪を揺らしながら歩く彼女はなぜか一人だけ浮いている。周りのように太腿を露わにしたり、戯けてみせるわけでもない。それなのに、ただぼうっと眺めているだけの日下部の視線をふと引く。

 ドキッとした。さり気なく振り向いて、手を振られた。はじめはまさか自分に向かって振っているのだとわからなかったくらいだ。戸惑いながらも小さく右手を上げた。まだ心臓の音が聞こえる。

 帰ろう。日下部は窓辺を離れ、机の横に掛けてあった鞄を拾い上げるように右肩に背負った。家に帰っても用事はないが、ここにいるよりはマシな気がする。

 廊下に出ようとしたちょうどその時、左から駆けてきた誰かにぶつかりそうになって思わず身を引っ込めた。遅れて、鼻の先をふわりと風が抜けていく。

 三メートルほど行き過ぎたところで急ブレーキを掛け、振り返ったのは松永だった。

「あ、悪ぃ、日下部!」

 日下部はムッとした。正直なところ、日下部が今一番見たくない顔だった。彼が相変わらずチャラチャラしていて、受験生としての意識の欠片も感じられないからではない。

 彼もまた、覚えていないのだ。

 有馬栗珠のことを。

「あれ、寺島とか一緒じゃねぇの?」

「何? 一緒じゃなきゃいけないの?」

「別にそういうわけじゃねぇけどさ……」

 堪らず口調が鋭くなってしまう。日下部の不機嫌さは間違いなく松永にも伝わっているだろう。松永はばつが悪そうに後頭部を掻く。

 二週間前、クラスメイトの誰もが有馬栗珠を知らないと言った日、日下部は松永にも同じ質問をした。「有馬栗珠って知ってる?」――彼の答えはノーだった。皆と同じように、アリマが存在したことすら消えてしまっていた。

 ――なんでだよ?

 あんた、アリマのことが好きだったんじゃないわけ……?

「あのさ、なんか最近、お前変じゃん?」松永が訊いた。

「もともと変だけど」

「や、そうじゃなくて、なんつーか……よく一人だし? お前そういう奴だったっけ?」

 そういう奴じゃない。あたしはいつだってアリマと一緒だった。あんたの知らない、アリマと。

 でも考えてみれば松永の言うことは正しいかもしれない。アリマがいなければ、日下部は一人だ。友達はいるが、結局どこのグループにも属していないし、誰かと遊びたいと思った時に頭に浮かぶ人物はいない。

「……そういう奴、だったのかもね」

 松永は笑っているが、心細いような表情を滲ませている。自分は何か拙いことを言ったのだろうかと不安になったのかもしれない。

「アリマがいなくなっちゃったからさ、ホントつまんないよ」

「なぁ、それこの前も言ってたよな。誰なの? その、アリマって奴」

「友達。あんた、アリマのこと好きだったじゃん」

 日下部の記憶の中では本当のことだ。先週だって中庭にいるアリマを陰から覗き見ていたし、顔を真っ赤にしながら必死に弁明していたのを日下部は確かに聞いた。昨年同じクラスになってから一年以上もの間、松永はアリマに恋をしていた。

 だが、今の松永にとってそれは単なる日下部の妄想でしかない。思わず吹き出してしまうくらいの、冗談なのだ。

「あり得ねぇな! 俺、今は宮野さん一筋だから」

「……あんたさ、……――」

 ムカつくほど清々しい笑顔に、思わず拳に力が入って小さく震えていた。普通ならこの場でぶん殴っているだろう。ふざけるな、と怒鳴っているだろう。しかし日下部はそれを必死に抑えた。和登の言葉が脳裏を過ぎるから。


 ――「日下部さんも、本当は忘れていなければならないはずなんです」


 今、普通でないのは日下部のほうなのだ。アリマの存在を知っている日下部が異常なのであって、松永は悪くない。

 ――悪いのは、あたし。

「何でもない」

 日下部は松永に背を向けて歩き出す。後ろから松永が呼んでいるのが聞こえたが、無視した。喉の奥がつんと痛い。誰に何を言ったって、わからない。それなら口にするだけ無駄だ。

 そうだろう?

 痛みをごくん、と呑み込んで階段を下る。松永がどんな顔をしているか、日下部は一度も振り返らなかった。




 校庭を埋める群衆の中を縫って、速足で正門を潜った日下部は、前面道路を左に折れたところで、どこからともなく自分の名前が寒風に乗って聞こえてくることに気付いた。が、あまり聞き覚えのない声であったために、はじめのうちは自分のことではないと決め込んで流していた。

 しかしどうやらそうではないらしい。立ち止まり、声の主を探して辺りを見回すと、道路の反対側でこちらに手を振っている人影が目に留まった。

「明ちゃーん!」

 花畑と洋館が似合いそうなオーラを放っている、というのはおそらくほとんどが日下部の偏見だろうが、本当にそう見えるのである。ああいうのを人は『可愛い』と表現し、好むのだ。現にガードレールの向こうにいる宮野愛莉を見た周囲の男子の内緒話は、彼女が一体誰であるのかという疑問と、容姿に関するありきたりな感想に終始しており、それらは嫌でも日下部の耳に入ってきてしまう。

 宮野は車の流れが途切れた隙に、小走りでこちら側へと渡ってきた。

「どうしたの?」そう訊かずにはいられない。確かつい今し方、寺島らのグループと一緒にカラオケに行くからと教室で別れたはずだ。

「一緒に帰ってもいい?」

「え、別にいいけど……今日、みのたちと遊びに行ったんじゃなかったの?」

「うん、ちょっと抜けてきちゃった」と、宮野はやや声を低くする。「カラオケ行こうって言われたんだけど、ホントは歌、ちょっと苦手で」

「そうなんだ」

 それこそ本当の話かどうかはわからないが、どちらにしろ意外に感じていた。宮野のような人は常に周囲に合わせてばかりで、誰にでもニコニコと愛想良く媚を売っているタイプで、「ごめん、やっぱりやめる」と言う度胸なんてないと思っていた。

「私、今日てっきり明ちゃんも来るんだと思ってたよ」

「そう?」

「うん。明ちゃんが来るなら私も行ってもいいかなーって」

「え、なんで?」

「だって明ちゃんが来てくれたら、いつも教室にいるみたいに盛り上げてくれそうだもん」宮野は満面の笑顔でさらっとそう言った。

 二週間前に宮野が転校してきてから、まともに話をするのはこれが初めてだ。日下部の興味は転校生よりもアリマのほうにあったし、特に話す機会もなかったからだ。しかしそれにも関わらず、宮野は日下部を既に『明ちゃん』と呼び、ずっと親しかったように接してくる。それが不思議と嫌じゃない。

「前はどこに住んでたの?」歩きながら日下部が訊ねた。転校生に対しては一番オーソドックスな質問である。

「いろいろだよ。うち、お父さんが転勤族でね、国内でも海外でもあちこち移動してるの」

「そうなんだ」

「だから転校ももう慣れちゃったよ。みんなね、こんな時期に転校って可哀想って言ってくれるんだけど、前の学校はクラスの人と仲良くなる前にすぐ変わることになっちゃったから全然愛着なくてね」

 へぇ、と頷きながら、日下部は転校したことがないからよくわからないと思った。宮野は相変わらず笑顔を崩さない。これは地なのだろうか? だとしたらすごく疲れるだろうと思う。何時も笑顔を保ち、鳥みたいな高い声で話し――

「ねぇ、明ちゃん。クレープ食べに行かない?」

 唐突に、宮野が言った。だが、日下部が驚いて一瞬詰まってしまった隙に、宮野は自分でそれを撤回した。

「あ、ごめん。今日急いでるんだったよね。お母さん、大丈夫?」

「あぁ……」自分が先ほど嘘を吐いたことをすっかり忘れていた日下部は、内心冷や汗をかいている。「たぶん全然平気だよ」

「お大事にね。今度一緒に食べに行こ?」

「う、うん。ごめんね……」何とかしてこのギクシャクした雰囲気を脱したい日下部は既に話頭を転じることばかり考えている。「宮野さんって、家どこ?」

「公園のほうのマンションだよ。ほら、前に隕石が落ちたってテレビに出てた公園、あるでしょ?」

「うん、市民公園でしょ?」

 頷きながら、そういえばあの隕石騒ぎが話題に上るのは久方ぶりだと思った。少し前は皆口を開けば隕石のことばかりだったのに、最近では進展がないのかニュースでもほとんど見かけなくなった。

「そうそう。明ちゃん、あの公園行ったことある?」

「あるよ。まぁ最近は行けなくなっちゃったけど」

「本当⁈」宮野は急に声を高くした。「ねぇ、今度一緒に行ってくれない?」

「えぇっ?」

「私、隕石とかそういうのすごく興味があってね、こっちに来る前から一回見たいなって思って楽しみにしてたの」話しながら、彼女の瞳は爛々と輝いている。丸くて大きくて、宝石のようだ。「明ちゃん、見に行った?」

「う、うん……でも規制されてたから、ちょっとだけだよ」

「えー、いいなぁ。明ちゃん、今度連れてってよ」

「だけど、あそこまだ当分立入禁止だと思うよ? ほら、警備のおじさんとかいつもいるしさ……」

 何より正直気が進まない。明確な理由があるわけではないが、何となく今の自分は行きたくないと思っている。

 が、宮野は引き下がってくれない。

「そんなのこっそり入れば大丈夫だよ。ね、いいでしょ? お願い」

 小さな顔の前で両手を合わせて頼んでくる宮野は、クルミのような丸い目をキラキラと輝かせていた。彼女がそんな大胆なことを言い出すとは夢にも思わなかった日下部はすっかりその勢いに圧倒されてしまう。

「まぁ……いいよ。今度、そのうち、ね」日下部はひとまずそう答えた。『今度』とか『そのうち』なんて言葉はこういう時のためにある。

「ありがとう! 約束だよ?」

「う、うん……」

 宮野はたいそう嬉しそうにはしゃいでいる。他所から来た人からすると、あの公園はそんなにも魅力的な場所なのだろうか?

 まぁいい。別に本当に日下部が連れて行く必要などないのだ。少し時間が経てば興味も薄れて、こんな約束をしたことすら忘れる。人間なんてそんなものだ。

 T字路に突き当たり、宮野はそこを左に行くと言った。日下部も本当は左だったが、気付いた時には手が勝手に反対方向を指していた。それも、スーパーに寄ってから帰る、というデマカセ付きだ。

「じゃあ、また明日ね」

「うん、明日……明日ってもう休みじゃん?」

「あ、そっか」宮野が舌を出す。「じゃあまた来年ね」

「そうだね」

 一応そうは返したものの、実際三年の三学期なんてほとんど学校自体に行かなくなる。宮野に限らず、来年になったら卒業式までクラス全員が揃うことはほぼ不可能に近いだろう。

 じゃあね、と宮野は小さな顔の横で右手を振り、左の道を駆けて行った。

 日下部は溜息を吐いた。一人になって肩の力が抜けたのと、今後の展開への不安と、両方の入り混じった白い靄は顔の前で渦を巻いた後で消えてしまった。明日から冬休みだというのにちっとも嬉しくない。アリマはまた勉強を教えてくれるだろうか、と考えてすぐに思い出す。彼女はいないのだ、と。

 これでも受験生と認識はしている。だからというわけではないが、学習塾の冬期講習に申し込みはしてある。しかしそこで教えてくれるのは、頭が良いのか悪いのかもわからない得体の知れない大学生のバイト君だ。

 日下部は右の道を歩き始める。辺りをぐるりと周回して帰ろう。


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