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第二章 日下部明の混沌(1)

 幼馴染の友部(トモべ)亜梨沙(アリサ)は小学校五年生の途中でどこか遠くへ転校していった。しばらく学校にも来ていなくて、先生から転校したことを知らされた時には既に引越しが終わっていた。すぐ近くに住んでいるはずなのにまったく気が付かなかった日下部は、冗談なんじゃないかと思って彼女の家を見に行ったが話は本当で、表札も外された後だった。転校の理由を先生ははっきりと言わなかったけれど、日下部には何となく思い当たることがあって、それ以来ずっと彼女の件はシコリみたいに記憶の中に沈んでいる。

「うーわ、最悪。お母さん、またブロッコリー入れた」

 日下部の隣で、皆より少し遅れて弁当箱の蓋を開けた寺島(テラシマ)みのりは、一角に鮮やかな緑色の物体が入っているのを見た瞬間に顔色を逆転させた。バドミントン部では向かうところ敵なしの絶対のエース、寺島の天敵がブロッコリーだなんて拍子抜けもいいところだと日下部は心の中でくすりと笑った。

「なんでー? 食べないの? 貰ってあげよっか?」そう言いながら、寺島の正面では猫のような目をした沢田(サワダ)莉子(リコ)が獲物を狙って既に箸を構えている。

「あげるあげる! 早く持ってって!」

「いっただきー」

「あーぁ、せっかくのハンバーグにブロッコリー臭があぁ……」

「好き嫌いは駄目ですよー、みのちゃん?」

「だってさー、これ食べもんじゃないっしょ、もさもさしててさ、木じゃん、木!」

 気の毒なブロッコリーはすぐさま沢田の弁当箱に植え替えられる。寺島は世界の終わりのように嘆いているが、ブロッコリーにはこの世を破滅させるほどの強烈な臭いはないと日下部は心の中で思った。

 隣では鈴原(スズハラ)瑛里華(エリカ)がニコニコと笑いながら、幼稚園児のものかと思うくらい小さな弁当を誰よりも低速度で食している。日下部にとっては毎日変わらない昼休みの光景だ。寺島も沢田も鈴原も、特別親しい友人というわけではないが、昼食は近くの席の人とグループを作って食べるというのが原則となっているから仕方がない。幸い、このクラスで認識されている日下部のキャラクターやら立場的なものがクッション材になって、日下部がここにいることに違和感を与えないようにしてくれている――そういう自覚が、日下部にはある。

 時刻は十二時四十分――毎朝お母さんが作ってくれる弁当をほとんど味わうことなく、グループの中で誰よりも早く食事を終えた。これもいつものこと。日下部には食後に、用事とは言えないような用事があるのだ。

「ちょっといいかな?」

 空になった弁当箱を包み直していた時、どこからか声を掛けられた。ふと脇を見やると、一人のクラスメイトが立っていた。

「カナッペ、どしたのー?」

「ご飯中にごめんね。ちょっとこれ、選んでほしいんだ」そう言いながら、落合(オチアイ)加奈(カナ)は持っていたルーズリーフを差し出した。「卒業アルバムのクラス別のページに載せるランキングを作ってるんだけど、今、皆に一票ずつ投票してもらってるとこなの」

「ランキング?」横に寺島の顔が寄ってきて、日下部の持つルーズリーフを覗き込む。

 落合は我がクラスで卒業アルバム製作委員――通称・卒アル委員を務めている。中学三年の十二月ともなると忙しさは佳境を迎えているのだろう。各クラスで二人ずつ選出されている委員が休み時間に廊下を走り回っている姿は最近よく見かける。自分の高校進学を賭けた受験勉強だってやらなければいけないはずのこの時期に卒業アルバムを作れだなんて罰ゲームのようにしか思えないのだが、意外にもこの卒アル委員は人気で倍率が高く、落合は立候補の後ジャンケン大会でその任を勝ち取った。その甲斐あって、うちのクラスには割と早いうちからアルバムの構想はあり、今のところ準備は順調に進んでいるように見える。

「でもうちのクラスって、一人ずつちっちゃい頃の写真貼るとか言ってなかったっけ?」沢田が長い髪をくるくると指で弄りながら訊ねる。

「うん、それも貼るんだけど、ちょっとスペース余っちゃうんだよね。他のクラスはこういうのやるみたいだから」

「へぇー、いいねー。面白そー」鈴原の述べる感想は大根役者が棒読みする台詞のようでいつだって偽物臭さが漂うが、皆は気にならないのだろうか?

 要するに他クラスに感化されたわけか――とは言わず、日下部は頷きながらルーズリーフを眺めていた。細い罫線の上に、落合のものと思われる小さな字が行儀良く書かれている。いくつかの項目が箇条書きにされ、その横にクラスメイト数人の名前と『正』の字が並ぶ。

「『早く結婚しそうな人』は、これマッツンしかいないっしょ」

「あー、それわかるー」

「え、でもさぁ、ノンちゃんっていうのも何となくアリじゃない?」

「皆センスいいよねー。あたしどうしよっかなー?」

 自分のことを大して知らない他人に勝手にランキング化されても何の意味もないし嬉しくもないだろうに、皆こういうことが好きなんだな、と日下部の中で冷ややかな視線を送る自分がいる。たぶん、他人のことを評価すると気分が良いのだろう。誰かの陰口を叩くのとどこか似ているような気がして日下部はむず痒くなる。

 ルーズリーフにはその他に、『将来有名になりそうな人』『外国に住んでいそうな人』など十個くらいの質問が羅列していて、バラバラの名前が書かれている。これが載るのは中学の卒業アルバムであるし、おそらく一人最低一回はどこかに名前が登場するように調整したいという意図があるのだろうと直感的に思った。

 票数の多いところと少ないところでバランスを取りつつ、適当に自分の票を入れていった。その中で最後の質問欄に、とうとう自分の名前を見つけた――『未来永劫変な人』ランキング――第一位。


 ……おい!


「ちょっとー! 何このランキング!」

「なんでー? 日下部、一番ハマってるよ」

「有馬さんと競ってんじゃん」

「種類違うけどぴったりだわー」

 けらけらと笑う三人の横で、落合もくすくすと笑みをこぼす。

 アリマ――有馬栗珠は日下部のクラスメイトであって、親友……だと日下部は思っている。すごくいい奴だし面白いけれど、とても変わっていてあまりクラスには馴染んでいない。日下部が思うに、本人は一人でいるのが苦ではない――いや、むしろ一人のほうが好きなのかもしれない。ただ、日下部は中学一年の入学式の日からずっと一緒にいる。鬱陶しいと言われても、ずっと。

 そのアリマと一位のところに仲良く名前が並んでいるということが更に許せない。どう考えてもアリマよりあたしのほうがマトモでしょ⁈

「そんなことないでしょ! アリマが変なのは否定しないけど!」

「いいじゃん、一位なんかなかなか取れないよ」

「それ絶対間違ってるよ。あたしの一票はアリマに入れるから」

「いやぁ、これ迷うねー。あたしどっちにしよっかな」

「ウチは日下部にしよ」

「もー!」

 日下部の強い抗議は無残にも蹴散らされ、控えめに笑う落合の手によって『正』の画数が増やされていく。寺島らはさっさと別の質問について討論を始める。

「ねぇ、明ちゃん、有馬さんってどこ行ったか知ってる?」落合が訊ねてきた。アリマの席は昼休みが始まった直後から空いている。

「またどっか行ってんじゃない?」

「有馬さんにも投票してもらいたいんだけど……明ちゃんから言っといてもらってもいいかな?」

「あぁ、別にいいよ。言っとく」

「ありがとう」

 自分で言いなよ、という不満はもう随分前に湧かなくなった。おそらく、このクラスでアリマと話ができるのは日下部だけだろうと思うようになったから――いや、全校でと言っても大袈裟ではないかもしれない。アリマは誰かと(つる)むことで安心感を得ている人たちとはまるで違う。他人に関心がないというか、まず寄せ付けようとしないし、話を合わせたり媚びを売るようなこともない。大多数の人からはそれが『宇宙人』に見えるようで、そういう良くも悪くも一般的ではないアリマと関わろうという人は少ない。だから皆、唯一宇宙人とやっていける日下部に伝言を頼むのだ。

 ランキングの話をアリマにしたところで、面倒だから自分は投票しないと返されるような気がしたが、それは言わなかった。まだ盛り上がり続けそうなこの場を抜けるにはいいタイミングだ、と日下部はそそくさと教室を出た。

 暖房の届かない廊下は空気が冷んやりとしていて、日下部は小走りでアリマを探した。あそこで寺島たちに捕まってしまったから出るのが遅くなった。別にアリマは探しに来いだなんて一言も言っていないから、例えばここでアリマを発見できずに昼休みが終わったとしても何も言われないし、見つけたとしても何もない。アリマはそういう人だ。ただ、日下部は違う。

 渡り廊下に出るところで、物陰からじっと外を覗き見ている怪しい人影を見つけた。それが誰なのかすぐにわかる日下部は、後ろから忍び足で近付くと思い切り肩を叩いてやった。

「うわっ!」そいつは飛び上がり、三歩ほど後退ってようやく日下部を見ると、安堵の溜息を洩らした。「……なんだ、日下部かよ」

「なんだって何だよ。ストーカーめ」

「ストーカーじゃねぇから、たまたまだから!」

 日下部の怪訝な視線に対して必死に弁明をするのは、隣のクラスの松永(マツナガ)祐弥(ユウヤ)である。校則違反の茶髪に、着崩した学ランという生活指導係の先生から毎日追われる見本のような姿の彼は、昨年日下部らと同じクラスだった。そして何がきっかけか、その頃から密かにアリマに好意を寄せている。

 陰から見てみると、中庭のベンチにアリマが座っていた。松永はそんな彼女の姿をここから眺めていたのだろう。

「あのさ、超怪しいから、それ。やめな? 普通に声掛ければいいじゃん」

「いいの! お前には関係ねぇから」

 松永は真っ赤になった顔を腕で隠しながらばつが悪そうに目を逸らす。今は日下部より頭一つ大きくなってしまった彼だが、仕草は小学生の頃から変わらないな、と日下部は思う。

「あんたってさ、意外とチキンだよね。あたし呼んできてあげよっか?」

「やめろ、マジでやめろ」松永は真剣だ。「ホントお前、誰かに言ったらぶっ飛ばすからな」

「はいはい」

「言うなよ! 絶対だかんな!」

 松永は何度も念を押しながらすごすごと立ち去った。普段は大口を叩いているくせに、アリマのこととなると急に消極的になってまともに声も掛けられないなんて情けない奴だと日下部はいつも思う。

 なぜ松永がアリマのことを好いているのかは日下部も知らない。ただそういうアンテナを持たないアリマは一切気付いてもいないし、もしかしたら松永という元クラスメイトが存在することすら覚えていないかもしれない。周囲もまさか松永の想い人があの有馬栗珠だなんて思っていないだろう。日下部が気付いたのだって本当に偶然だった。

 あの調子ではたぶん、ずっと無理だ。このまま物陰から覗き見ているうちに卒業になって、サヨナラだろう。

 日下部は再び中庭を覗いた。『クリス』なんて今時珍しくも何ともなくなったドキュンネームを持って、外見だってそれに十分似つかう御人形みたいな顔つきをしているくせに、聞いた人が想像するような可愛らしさとか女子度なんか言葉すら知らないような機械染みた変人は、首元に厚く巻かれたマフラーに顔を半分埋め、古ぼけたベンチの背凭れに体を預けて空を見ているようだ。

 そう、アリマは基本的に変なのだ。だから日下部以上に寒いのが嫌いなはずなのによくこうして中庭に出ている。教室にいるのが嫌なのか、何か頭を冷やしたいことがあるのかは日下部にもわからないが、たぶん前者ではないかと思う。そろそろ皆部活も引退し、受験モードに突入し始めているこの時期、いくら期末試験が終わったばかりとはいえ、仲良く普段通りに見える教室内にも何となくギスギスとぎこちない雰囲気が漂っているのは日下部も感じているし、そんな空間が居心地が良いとは到底思えない。

 しかしだからってまたなんであんな寒いところにいるんだ……――とは思ったが、それは心の片隅で呟くだけにしておく。

「ねえぇー! アリマあぁー!」

 日下部が呼ぶと、アリマがこちらを向いたので手を振った。やっぱり表情は変わらず、無である。

「どうしたの?」

 アリマはベンチに座ったまま、顔だけを日下部のほうに向けて冷めた口調で訊ねる。わかりやすい表情が伴わないから、普通の人からは怒っているのだと誤解されるかもしれないが、これはスタンダードである。

「百円貸して」日下部は右手を差し出した。もちろんここで松永のことを言うこともできるが、これは黙っている約束であるからそこは義を通すのが日下部流である。

「なんで?」

「あのね、ジュース買おうと思ったの。そしたら財布に三十二円しか入ってなくて」

「蛇口を捻れば水が出るよ」

「駄目だ、あたしの脳ミソは糖分を欲してる」

 アリマはすっと立ち上がるとポケットに手を突っ込んで、百円玉を探し当ててくれた。有馬のポケットはこうして日下部が言うとたいてい何でも出てくる。

「ありがとう! アリマは神だ! 恩に着る! 明日絶対返すから」

「明日は休みでしょ」

「あ、そうだった! じゃあ、月曜絶対返すから」

 アリマは、うん、と頷いた。

 本当のことを言うと、日下部は別にジュースなんか買わなくても良かった。財布に三十二円しか入っていないことは今朝学校に来る途中でコンビニに寄った時に確認したから間違いないけれど、百円の借金をしてまで飲み物を欲しているわけではない。ただこれで月曜に話し掛ける理由を作れただけだ。例えばこの瞬間、アリマに話し掛けるなと言われても、日下部は百円を返すという名目でアリマと会話しなくてはならない。

 そのための、保険みたいなものだ。

「ねぇ、何してんの? こんなとこでさ。寒くない?」

「寒いよ」

「馬鹿じゃん。風邪ひくよ」

「そうかな?」アリマは首を捻り、ぐるぐると巻かれたマフラーを指す。「これがあるから大丈夫だよ」

「ホント?」日下部は思わずはにかんだ。それは去年、冬の到来を拒絶していたアリマに日下部があげたものなのだ。

 アリマの左手に触れてみると凍っているように冷たくなっていた。そもそもアリマの手が温かいことなんてないのだけれど、まるで蝋人形の如き白さに思わず心配になってしまう。

「死人の手みたいに冷たいよ?」

「これはいいの。もともとそうだから」

「教室戻るぞ」

 アリマはまた、うん、と素直に頷く。日下部に左手を占領されていても、アリマは拒否しない。いつだって悲しいくらい本当のことしか言わない彼女だからこそ、日下部は安心して手を繋いでいられる。均衡を保つために嘘やお世辞で塗り固められた上に成立する人間関係なんて、信用できない。

「あ、そうそう」廊下を歩きながら、日下部は肝心要なことを思い出した。「さっきカナッペが探してたよ」

「誰を?」

「アリマに決まってんでしょ」

「なんで?」何かの間違いでしょ、と続きそうな口調だ。

「なんかねー、卒業アルバムに載せるランキング? みたいなのに投票してほしいんだって。あたしもさっき答えてきたんだけど」

「それって棄権できないの?」

 ――ほぅら、予想的中。

 あまりに想像したとおりの展開だったので、日下部は思わず笑ってしまった。アリマは不思議そうな顔をしているが、何でもない、と流した。

「訊いてみれば? まぁ適当に横棒書くだけだからやってあげてもいいとは思うけど」

「そうする」

 アリマは本当に『そうする』だろう。

 食堂のほうに回り道をして、アリマに借りた百円で飲み物を買った。最近ハマっている甘い紅茶飲料なのだが、校内ではここの自販機でしか取り扱っていないし、外でも売っているのを見たことがないという名も知れぬメーカーの超貴重な飲み物である。

「またそれ?」ボタンを押した瞬間、アリマが隣で眉間に皺を寄せた。以前アリマに飲ませてみたら、一口で拒否されたことがある。

「なんで。美味しいじゃん」

「うん、日下部がそう思うならいいと思うよ」

 残念ながら日下部の味覚に同意してくれる人は少なく、アリマの感覚のほうが一般的に支持されるのが現状である。ただ、最終的に「いいと思う」と認めてくれるのは今のところアリマだけだ。

 もうまもなく昼休みが終わるだろう時刻にもかかわらず、食堂にはまだポツポツと少人数のグループが残って雑談をしている。話題はもっぱら誰かの恋バナか、或いは昨日の夜のこと――普段はドラマや音楽番組について、家族の悪口がおおよそを占めるのだが、今日は違う。昨夜の出来事で盛り上がるとしたら、今日はきっとほとんどが隕石の話になるだろう。

「アリマ、昨日見に行った?」よく冷えた缶を逆さまにして振りつつ廊下を歩く途中で、日下部が訊ねる。

「何を?」

「隕石」

 昨夜遅く、この街の北側にある夜見川台地公園に隕石が落ちた。普通なら何があっても朝まで一度も起きず、そのまま朝も起きない日下部だが、昨日はさすがに目を覚ましてしまうくらいの閃光と轟音が町中を包んで、真夜中だというのに大騒ぎだったのである。

「行かない」

「だと思った」

 開栓するとプシュッといい音がした。一口飲んだが、やはりどうしてこれが皆に認めてもらえないのか理解できないと思った。

「日下部は行ったの?」

「うん、隣のおばさんと。あのおばさん、そういうの大好きなんだよねー」

 落下した隕石はその衝撃で台地の斜面に大きなクレーターを作って、亀の甲羅のような形だった台地が今は欠けてしまっている。日下部が現場に着いた時にはその周囲にかなりの人が集まっていて、写真やビデオを撮ったりしてお祭りのような雰囲気になっていたが、すぐに警察や消防隊がやってきて強制的にお開きとなった。日下部も含めて今日の授業で居眠りをしている人が多かったのは、この隕石騒ぎが多少なりとも影響しているからだろう。

「あれ、本当に隕石なの?」階段を上りながらアリマが訊ねる。

「え、違うの?」

「ニュースでは違うって言ってたから」

「あたしニュース見ないもん。えー、隕石じゃないの? なんかつまんない」

「つまんない?」

「そうだよ。ロマンがないよねぇ、ロマンが」

「ロマン、ね……」呟きつつも、アリマはよくわからない、という顔をしている。

「隕石じゃないなら宇宙人の落し物かね? アリマ、宇宙人って信じる?」

 信じないな。

「信じるよ」

 マジかよ。

「ホントに?」日下部は飲んでいた紅茶を吹き出しそうになった。

「なんで?」アリマは真面目だ。

「期待してた答えと違った」

「だって、宇宙は広いのにこの世界にしか生き物がいないってあり得ないでしょ」

「そっか……」

「まぁ、この世界の人間が考えてる宇宙人とは全然違うんだと思うけどね」アリマは最後にそう付け足した。そういう意外なところでクソ真面目に答えてくれるアリマって、やっぱりよくわからない。まぁ、そこが面白いんだけど。

 授業中に飲み物を机上に出しておくのは禁止なので、日下部は急いで紅茶を流し込んだ。喉が渇いていたのか案外さらりと飲めてしまって、日下部は教室前の廊下にある水道で軽く缶を濯ぎ、隅の空き缶用ゴミ箱に放り込んだ。

「糖分チャージ完了! ごちそうさま」

「それじゃあ午後は私の分も頭使っておいてくれる?」

「全力で遠慮しとくわ」

 午後の始まりのチャイムが廊下に響くと同時に、二人は教室へと入った。




 日下部は数学の授業がこの世で一番嫌いだ。数字とアルファベットと記号の長たらしい配列を見ていると眩暈がしてくるし、なぜ数字がないところからいきなり数字が出てきたりするのか意味がわからない。勉強と名の付くものはすべてにおいて嫌いだが、数学はそのトップを爆走中である。今日のシメはその数学で、しかも先日のテストでかなり厳しい得点だった日下部は特別に課題をプレゼントされてしまったので、放課後にアリマと正門を出た時は本当に気分が沈んでいた。

 夜、アリマを自宅に招いた日下部は、夕飯を済ませた後いつものようにアリマに家庭教師をしてもらった。アリマは頭が良く、苦手科目もほとんどない。ほとんど、というのは理科の実験の時だけはどうしても受け付けないらしいからで、その他は特に問題ない。テストではたいてい上位に名前が入っているし、満点を取ることもあるくらいだ。

「アリマは先生に向いてるよ」

「どうして?」

「だって教えるの上手いもん。もうちょっと愛想は必要だけど」

「じゃあ難しいかもね」

 そんな話をよくする。

 そういえばアリマが具体的に何を目指しているのか知らない。以前学校で進路調査をした時も、高校には行かないなんてさらっと爆弾発言をして先生をあたふたさせていたっけ。

 ――冗談抜きで、向いてると思んだけどな。先生。

「明、あんた、そろそろアリマちゃんのこと帰らせてあげなさいよ。遅くなっちゃって、アリマちゃん大丈夫なの?」

 八時を回った頃、片付けにひと段落ついたお母さんが部屋まで呼びに来た。夕飯の唐揚げの残りがタッパーに詰められている。

「私は大丈夫です。でも、そろそろ帰ります。遅くまですみません」

「うちは全然構わないわよ。泊まっていってもいいのよ?」

「いえ、それはさすがに……」

「あぁ、そうだよ、アリマ。泊まってっちゃえばいいんだよ」

「今日は帰るよ」

「またご飯食べにいらっしゃいね。明、アリマちゃんのこと送ってあげなさい。あんたは襲われても平気でしょうから」

「どういう意味だよ、母さん……」

「いえ、一人で帰れます。送ってもらわなくて大丈夫です」

「でも最近物騒じゃない。お家も一人なんでしょう?」

 アリマは、はい、と頷いた。詳しくは知らないが、アリマは両親が共働きで海外を転々と飛び回っているらしく、まだ中学生だというのにマンション一人暮らしをしているのだ。洗濯やら食事やら、ありとあらゆることをアリマ一人でこなし、その上学校の勉強だって手を抜かずにやれているなんて、何もできない日下部にはまったく考えられないことで、初めてそれを聞いた時は心底驚いたし尊敬した。「いいなぁ」と羨むより、「あたしには無理!」のほうが断然強かった。

「大丈夫です、慣れてます。この問題が終わったら、帰ります」

 だから日下部はこの三年間、アリマのお父さんやお母さんに会ったことがない。たぶんカッコいいお父さんと美人のママなのだろうな、と勝手に想像を膨らませているだけで。

「これ、残り物だけど、良かったら持って行って」と、お母さんは持っていたタッパーをアリマに渡した。

「日下部が食べたらいいのに」

「この子はいいのよ」

「そうそう、アリマが食べな?」

「……ありがとうございます」

 その後、玄関までアリマを見送りに行って、日下部ははたと思い出した。アリマに借りた二百円のことだ。

 リビングに戻ってしまったお母さんのところへ行って、片栗粉代を請求する。ついでに胡麻を擦りながらもう百円を支給してもらった。急いでジャケットを片手に玄関へ向かうと、アリマはもう靴を履いてしまっていた。

「途中まで送るよ」日下部は羽織りながらアリマを呼び止めた。ドアの磨りガラスには真っ黒い闇が映り込んでいる。

「一人で平気」ミイラのように鼻まで巻き付けられたマフラーのせいで、アリマの声は篭っている。

「でも夜だし危ないよ? アリマは可愛いんだから、襲われたら困る」

「その心配はないよ」アリマは珍しくふふと静かに笑った。「一人で帰れる」

「ホント?」

「うん。今日はありがとう」

「あたしこそ。宿題手伝ってもらっちゃったし」

「残りはちゃんとやって出すんだよ」

「わかった。あ、そう――」日下部は握りしめていた右の拳を慌てて開いた。一番大事なものを忘れるところであった。「はい、これ、ありがと」

「いらない」アリマは即答して首を横に振った。まったく受け取る気がない態度だ。

「なんで?」

「今日は美味しい夕飯をご馳走になったから、その分」お土産も貰っちゃったし、と紙袋をちらつかせる。

「そんなの気にしなくていいよ。あたしのカテキョ代もあるし」

「それは、まぁ、ボランティアだから」

「そう? でもこっちの百円は片栗粉代だからちゃんと貰ってよ」

「いらない」

「夕飯はホント気にしなくていいんだよ? おかんもアリマが来ると喜ぶしさ。ていうか、無理矢理連れて来てるのはこっちだし」

「ううん。ありがとう。でもとりあえずそれはいいよ。またジュースでも買えば? それがあったら二本買える」

 日下部は困ってしまった。無理矢理に押し付けようにもアリマの両手はそれぞれのコートのポケットにすっぽり隠れて出てくる気配がないし、行き場を失った二百円は日下部の掌の上で狼狽えている。しかしおそらくいくら言ってもアリマはこのまま譲らないだろうと感じた。そういう顔をしている。

「じゃあ、そうする」素直に日下部がそう言って手を引っ込めると、アリマはほんの少しだけ嬉しそうに笑ったような気がした。

 玄関のドアを開けると、氷のような空気が一気に流れ込んできた。アリマは既にマフラーをぐるぐると巻きつけて、顔が半分見えない状態になっている。これもすっかり冬の風物詩である。

「アリマ、また明日ね」日下部は片手でドアを抑えながら言った。

「明日は土曜日でしょ」

「そうだった。また月曜ね」

「うん。早く閉めな?」

 アリマは軽い足取りで玄関先の階段を下り、人気のない道を歩いていってしまった。アリマの家まではここから大体歩いて十五分――やはりついていくべきだったろうかと、日下部はしばらくドアを開けたまま彼女の後姿を見ていた。アリマはいつでもどこでも振り返らない。だが、今日は日下部の視線が強すぎたのか、曲がり角の手前くらいで一度だけ振り向いた。日下部が思い切り手を振ると、アリマも振り返してきた。表情は暗くて見えないが、たぶん呆れているような感じだろうと思う。

 いいのだ。それでも。

 角を曲がって姿が見えなくなるまで日下部は見送りを続けた。玄関のドアを閉めた時、この二百円はお母さんには内緒にしておこうと決めた。月曜になったらまた食堂へ行き、これであの甘ったるい紅茶を二本買って、一本はアリマにあげよう。

 自室のハンガーに掛けた制服のポケットに二百円を入れておいた。アリマと過ごした後の日下部の心は、いつも決まってホクホクと焼き芋のように温かくなるのだった。




 風呂から出ていそいそと自室に戻った日下部は、ターバンのようにタオルを濡れた頭に巻きつけて机に向かった。湯船の中で浮かんだ景色を忘れないうちに書き留めるためだ。教科書に紛れて棚に隠してある無地のノートは、使用中のものも含めると八冊になる。こんな風にメモ帳代わりに使っているから、授業用のノートなんかよりずっと激しく消耗する。

 小さい頃から絵を描くのが好きだった。小学生の頃、休み時間に自由帳に落書きをしていると、寄ってきたクラスメイトに「絵ぇ上手いね」と褒められた。自分の性格上、そう言われると調子に乗るからますますたくさん描くようになる。そのうちただ書いているだけでは物足りなくなってきて、何かバックグラウンドが欲しくなった。それが漫画という形におさまっているというわけだ。とは言ってもベタやトーンは使わない。ただ鉛筆でサッと描いて、誰に見せることもなく自己満足に落ち着いているだけなのだから、落書きという身分は何も変わっていないと思うけれど。

 でも、それで良いのだ。自分にとってこれは日記。今は宇宙人の話を描いているが、それを通して日下部は自分自身の日記を書いているのであって、誰かに見せ、評価してもらうことは必要ない。

 それに、日下部のような絵を描くことを良く言う人間が少ないという現実もある。どういうわけか漫画を描くというだけで妄想家だのアニオタだのと言われ、陰口を叩かれる。特に中学に入ってからはその風潮が激しく、半ば虐めのような状況に置かれている生徒がいるのも日下部は知っている。

 理不尽だと思う。自分は何一つ、後ろ指を指されるような行為はしていないし、これで誰かに迷惑を掛けているのかと訊いてみたい。理解できないならそれでいい。なぜ人は無関心のままでいられないのだろう?

 日下部は黙っている道を選んだ。平和のためだ。もともと必要がないのだから、敢えて公表することもない。他人と共有するために面倒を背負うくらいなら、自分だけが知っていて、自分だけが楽しめたらそれでいい――ずっとそう思ってきたはずだった。

 それなのになぜ、アリマには見せてしまったのだろう? このノートは秘密で、ここに日下部以外の誰かの指紋が付くなんて絶対にないと思っていたのに。

 ――「日下部って絵が上手だったんだね」

 緊張した。いっそのこと心臓が止まってしまったほうがいいのではないかと思うくらいに苦しくて、照れ臭くて、なぜ見せてしまったのだろうと心底後悔した。しかしノートをこちらに差し出しながらアリマが口にしたのは、小学生の時に友達が言ったあの台詞だった。

 あの時の解放感はこれからもきっと忘れられないだろう。

 真っ白なページを一つ絵で埋めて、日下部は手を止めた。

 ――「明ちゃんは絵が上手だね」

 初めてそう言ってくれたのが誰だったか、日下部は憶えている。ずっと昔の話だ。彼女はいつも日下部が絵を描くのを横から覗き見て微笑んでいた。ただそれを思い出すと、どこか体の真ん中辺りがキュッと詰まって痛むから、そこまでは思い出さない。いつも無意識にやめてしまう。

 日下部はノートを閉じ、元あったのと同じ位置に戻した。


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