第二章 日下部明の混沌(2)
学校では毎朝八時二十分に予鈴が鳴り、特別な集会がなければ各クラスでホームルームが行われる。内容的には出欠席の確認と先生からの諸連絡だけだから、三十分に本鈴がなる頃にはほとんどの場合もう終わっていて、一時間目の授業の準備をしているか、いつものグループで固まって駄弁っているかのどちらかになる。本当は予鈴までに学校にいなくてはならないはずなのだが、日下部はたいてい本鈴ギリギリに滑り込む部類の人間で、毎朝教壇に立つ先生からの睨みを受けている。反対にアリマはというと八時頃には既に教室にいるらしく、学校を休むこと自体がないため、日下部が来る頃にいなかったことがない。
しかしその朝、いつものようにホームルームに忍び込んだ日下部はアリマが来ていないことに気付いた。クラス中の皆が黒板のほうを向いて座っている中、アリマの席だけがぽっかりと空席で、日下部にとっては前代未聞の朝だった。
――やっぱアリマも風邪ひくのか。
あとでこっそりメールでも送っておいてあげようと考えながら、日下部は先生からの叱責を自分の席で聞き流していた。こうして怒られるのなんて毎度のことすぎて、もう皆も先生も呆れて笑ってしまうくらいだ。
「先生、アリマ今日休み?」
教室を出て行く先生の背中をドアのところで捕まえて訊ねた。しかし振り向いた先生は日下部の予想とは正反対の顔をしていた。
なんでそんな顔をするの?
無意識に体に力が入ったが、日下部は必死に普段通りの態度を装う。先生の目は冷たかったし、口調も少し強かった。だがそんなことはどうでもいい。先生は突然に、日下部の構えを崩すには十分すぎる一言を放つ。
「誰のことを言ってるんだ?」
――誰の?
誰の、って、何――?
「アリマの、ことです」
「他のクラスのことは他のクラスの奴に訊け」
「違う、先生、うちのクラスのアリマです」
「はぁ?」
「うちのクラスの有馬栗珠です」
「寝惚けてるんじゃないのか、日下部。うちのクラスにはそんな奴いないだろう?」
先生はそう言って行ってしまった。
日下部はその場に立ち尽くしていた。何が起こったのか理解できず、頭が停止している。
アリマがいない?
そんな馬鹿な。
いないなら昨日一緒に帰ったのは誰だったんだ? 家で唐揚げを食べたのは誰だ? あたしが百円を借りた相手は誰なんだ?
先生、なんでそんなこと言うの?
なんでそんな冗談言うの?
確かにアリマは空気のような人だけれど、自分のクラスの生徒を先生が忘れちゃ駄目でしょう?
「日下部、何してんの? 一時間目移動だよ?」
いつの間にか寺島が教科書を持って立っていた。その脇に沢田もいる。
「どうかしたの?」沢田は心配そうに眉をひそめ、日下部の顔を覗き込む。
「……みの、アリマのこと知ってる?」
「え?」
「今日来てないんだけど、風邪か何かかなぁ? アリマも風邪ひくんだねー、珍しい」
「ねぇ待って、日下部。アリマって誰よ?」
「は?」
自分の顔が引き攣っているのがわかる。平静を装おうとしているのに、心臓がうるさいくらいに鼓動している。
「何言ってんの? アリマだよ、アリマ」
いくら日下部が主張しても、寺島と沢田はさも不思議そうな顔を見合わせているばかりだ。
なんで? 皆、どうしちゃったの? みのも莉子もおかしいよ。なんでアリマのこと知らないの? 同じクラスなのに、あたしの友達なのに――。
「日下部、大丈夫?」
「寝惚けてんの? 起きろー」
寺島が顔の前に翳した手を小刻みに振る。
違う。
そんなことない。
「本気で、言ってる? 冗談じゃなくて?」
「冗談はそっちでしょ」
「日下部、やばいって。それイタイ子だよ、ガチで」
するとそこへ落合がやってきた。知らぬ間に教室にはもう誰も残っておらず、日下部らが最後のようだ。
「どうしたの? 電気、消しちゃっていい?」
「あ、うん、大丈夫。ごめんねー」
「今日カナッペ鍵当番?」
「うん、そうなの。もう閉めちゃって平気?」
「いいよー、ありがとう」
落合は教室前方のスイッチで電気を消し、エアコンも切った。寺島と沢田が「寒い」を連発しながら廊下に出ていく。
「ねぇ、カナッペ」咄嗟に、日下部は落合を呼び止めた。「あのさ……アリマって、今日学校、来てないよね?」
「アリマさん?」
寺島と沢田は自分をからかっているだけだと思いたい。そのために、たちの悪い嘘を吐いているのだと。
だが、落合は日下部の期待を見事なまでに裏切った。
「明ちゃん、うちのクラスにアリマさんなんて人、いないよ?」
そんなはず、ない。
日下部は教室を飛び出した。アリマがいない? それならあたしの中にあるこの記憶は一体何なの?
でもあの目は、本当だ。鈴原も、寺島も、沢田も、皆嘘なんて吐いていない。皆、本当にアリマのことを知らないのだ。
それなら、記憶に刻まれている彼女は一体誰なんだ?
あたしは誰のことを知っているんだ?
急速に失われていく自信に逆らいたくて、日下部はとにかく走るしかなかった。このリアルが怖かった。廊下を駆ける自分の足音が全身に突き刺さるようで、通り過ぎる空気の匂いもどこか懐かしさを感じる。走っても、走っても、廊下はどこまでも続いていた。皆がいる。耳を掠めるのは友達の声、たわいもない会話――日常は何も変わらず流れているのに、そこにアリマはいない。中庭のベンチは空っぽで、冬の木が一人寂しそうに揺れていた。
あぁ、きっともう、会えない。
アリマには二度と会えないんだ――そう思った時。
「明ちゃん――」
誰かが呼んだ。
そこで、目が覚めた。
日下部はいつの間にかベッドから落ちて、見慣れた部屋の天井を床から見上げていた。冷たいフローリングに接しているはずの背中は汗で濡れて、起き上がってみても自発的に呼吸していないと苦しい。
頭が夢だと理解するのに時間を要し、それから時計を見ると、もう十時を過ぎていた。カーテンの下から弱々しい日の光が差し込んでいる。やがて落ちた時に床に打ったのであろう肩とお尻にじわじわと痛みが現れ、ここが現実であることを主張してくる。
なぜあんな夢を見たのだろうという疑問よりも先に、止める間もなく日下部の中を不安が支配していく。この現実にアリマはいるだろうか? あたしの記憶は、正しい?
誰か、教えて――。
お母さんは出掛けていて留守だった。そういえば昨夜寝る直前、隣町のおばあちゃんのところへ行くと言っていた。日下部は朝食も採らずに家を出た。確かめたって仕方がないのはわかっているけれど、立ち込めた不安を払うにはこれしかないような気がした。どうしてもこの目で見たい。アリマがこの世界にいるんだってことを。
アリマが住んでいる丘の上のマンションにはこれまでに何度か行ったことがある。あまり生活感がなくて、アリマらしいと言えばアリマらしい部屋だが日下部はあそこが割と好きだ。休日にアリマが一人で何をしているのかはよく知らないが、今は以前聞いた「寝てる」という彼女の言葉を信じて、日下部は坂道を駆けた。
呼び鈴を三回鳴らして、ようやく彼女はドアを開けた。ふわふわとしたパステルカラーの可愛らしい室内着を着て、頭には微妙に寝癖が付いている。本当に寝ていたようだ。
「あ、パジャマ」日下部はいつも通りの口調を作ったつもりだったが、まだ息が乱れていて上手く話せない。「寝てたな?」
「うん、暇だから」アリマは少し驚いた顔をしている。
「起こした? ごめんね」
「いや、いい。ていうか……――」言いながら彼女は日下部を舐めるように見た。「何、びしょびしょじゃない」
アリマに指摘されるまで自分がそれほど雨に濡れているなんて気付かなかったが、確かに足元には自分から落ちたと思われる水滴が溜まりを作り始めている。
「傘は?」
差してたよ、と日下部は右手に携えた傘をちらつかせたが、アリマはそんなものはどうでも良いと言わんばかりに反対の手を掴むと、部屋の中に引き込む。
「下手すぎでしょ。早く入って」
「ありがと」
アリマは玄関を上がってすぐ左側にある風呂場に日下部を押し込んだ。一度は断ったが、風邪をひくから駄目だと言って浴室に閉じ込められてしまった。
風呂から出ると、タオルと着替えが置いてあった。乾燥機が回っていることから、おそらく日下部の着てきた服はあの中だろう。さっきアリマが着ていたようなふわふわ素材の室内着で、サイズ的には日下部でも着られたが、鏡に映る自分の姿を見てアリマのようには似合っていないと思った。
リビングのほうに行くと仄かに甘いのと酸っぱいのが混ざったような匂いがして、室内着のままのアリマがキッチンに立って小さな琺瑯鍋をかき混ぜていた。
「ほぇー、あったかくなった!」日下部は自然とそちらに吸い寄せられる。
「良かったね」
「うん、ありがと!」
すっかり寝癖を直したアリマが鍋の中でかき混ぜていたのは黒っぽい色をした液体だった。匂いの正体は間違いなくこれである。
「何これ?」
「葡萄」
「え⁈ あっためたの⁈」
「そう。ワインの代わりに」
「ワイン? アリマ、ワイン飲んだことあるの?」
「あるよ」
「マジか。意外とワルなんだな」
アリマはマグカップに液体を注ぐと無言で日下部に差し出した。試しに匂いだけ嗅いでみると、やはり酸っぱいような甘いような複雑な匂いがする。確かにこれは葡萄ジュースなのだろう。
「……匂いは葡萄だけど……」
「だって葡萄のジュースだもの」アリマは平然と答える。
「これは冷たくて飲むもんだよ……」とは言ってみるものの湧き出てくる好奇心には勝てず、日下部は恐る恐るその液体を飲んでみた。「……酸っぱ。けど悪くないね」
冷やした葡萄ジュースより甘みが緩和され、逆に酸味のほうが強調されていると感じた。日下部はどちらかというと甘いのが好きだが、案外これはこれで良いかもしれないという結論に至った。
渡されたカップを持ったままキッチンを離れ、部屋の奥へと向かった。アリマの部屋はこのリビング一部屋だけだが、日下部の部屋よりずっと広くて羨ましい。
アリマは日下部が訪ねてくるまで本当に寝ていたらしく、ベッドは抜け殻のような状態のままになっている。日下部は床に座って、そのベッドに寄り掛かった。
「アリマの匂いがする」
「キモいからやめろ」
「ツレないなぁ」
「それで、日下部は一体何をしに来たの?」唐突にアリマはそう訊ねた。きっと先ほどから質問したくて仕方がなかったのだろう。
だが、日下部は曖昧に首を傾げた。勢いで押しかけてしまってこの状態になってはいるが、考えてみれば馬鹿みたいな理由しかなく、もしかしたらアリマは怒り出すかもしれないと思った。せっかくの睡眠を妨害され、その上貴重な休日を潰されようとしているのだから。
「お風呂入りに来たわけじゃないでしょ?」
「実はそうだったりして」
「そうなの?」
「違うよー。あのねー、聞いてよー」
「うん。どうしたの?」
日下部は一先ず立ちっぱなしのアリマの手を引いて隣に座らせた。気後れはするが、嘘を吐いて誤魔化すよりはずっと良いと観念する。
「今日ね、アリマがいなくなってしまう夢を見たの」
「え?」
「だから、本当にいなくなってたら困るから、確かめに来た。でもちゃんといたから良かったー」
アリマは急に真剣な顔つきになった。ヘラヘラと笑ういつもの日下部の中に、緊張して泣き出しそうな自分がいる。
「……それで、傘も差さずに?」
「だから差してたってばー」
「……私、どんな風に、いなくなるの?」
「え、わかんない」
日下部は頭を振り、夢の中身を要約して話した。夢なんていつも見ている。人よりもリアルだが突拍子もないものばかりで、起きた時にはどれももっと曖昧になってしまっている。現実の日下部はそれらを補填して漫画の餌にしているのだが、今日に限ってはあれが夢であることすら最後まで気付かなかった。この時間になってもまだ鮮明に、すべてを思い出せる。あの景色、先生の顔、恐怖心――こんなにもリアルな夢を見たのは初めてかもしれない。
そう、と頷いてアリマは黙り込んでしまった。日下部はやはりとても申し訳なくなって、泣きたいほうの自分がしゃしゃり出てくる。この微妙な空気感が日下部はとても苦手だ。
「アリマ。ごめんね」
こうして突然家に来てしまったこともそうだが、そもそもそんな不謹慎な夢を見てしまった自分が嫌だ。夢は願望だなんてよく言うが、自分はアリマに消えてほしいなんて微塵も思っていないはずなのに……。
「……どうして、君が謝るの?」
「だってアリマ怖い顔してるもん。あたしが勝手に消したから怒ってるの?」
「……いや」
アリマは否定したが、本当に怒っていないのかどうかはわからない。しかしこれ以上突っ込んで訊くのも日下部にはできない。人間関係なんて脆くて信用がおける場所はどこにもなくて、図らずもある一線を越えてしまうとあっという間に崩れて元に戻れなくなるくせに、肝心のその線は見えなくて、常に手探りしていなくてはならない。それが、怖い。
日下部は持っているカップをアリマに差し出した。
「……何?」一瞬あって、アリマが訊く。
「まだある?」
「どっち?」
「あったかいほう」
不安は飲み込んでしまうのが一番手っ取り早い。
日下が舌を出すと、キョトンとしていたアリマはようやく鼻息を漏らした。その瞬間、やっと胸の奥に空気が行き届いて息をするのが少しだけ楽になった気がした。
昼過ぎになってもアリマは帰れと言い出さず、それどころか昼食はどうするかと訊いてきた。何でも良いと答えたら、アリマは少し考えてから鍋でパスタを茹で始め、冷凍庫からは保存袋に入った何かを出してきた。
「何?」
「月曜くらいに作って冷凍しておいたのがあるから」
保存袋の中身はミートソースだった。日下部はパスタが茹で上がるのを鍋の前でワクワクしながら待った。アリマは特段料理が得意なわけではないが、日下部よりはずっといろいろなことができる。出席番号の関係で学校の調理実習では大抵アリマと同じ班になるけれど、とりあえずアリマに任せておけば不味いものは出来上がらない。
「あと昨日、日下部のお母さんに頂いたやつがある」
「唐揚げ?」
「そう。いいよね? それで」
「ご馳走じゃん」顔が独りでにニヤけてしまう。
日下部の家ではミートソースは缶詰の既製品を使うのが普通であるため、アリマ製を食べた時は感動した。
「やば。めっちゃ美味しい」
「良かったね」アリマは顔色を変えずに抑揚なく返した。たぶん『めっちゃ美味しい』なんて思っていない。
「すごいね。いっつもこんなん食べてるの?」というか、アリマが食事をしているという光景そのものも珍しい。
「私は……気が向かないとやらない。和登はもっと上手みたい」
和登というのは隣の高校に通う先輩である。アリマの幼馴染みであって、あの松永にとっては恋敵となるだろう。日下部もアリマ経由で知り合いこれまで何度も会ったことがあるのだが、この人がまたかっこいいんだな、これが……。
「和登先輩って料理すんの?」
「趣味なんだって」
「へー、初耳だわ! てか先輩元気?」
「うん。たぶん」
アリマの話では、彼氏彼女の関係ではないらしい。が、並んでいると美男美女でお似合いだと思うし、仲良しなのは日下部もよく知っている。早く付き合ってしまえばいいのにと言いたいところだが、松永の胸中を知っている日下部は軽率にそうもできない。
松永はいい奴だ。あんなチャラチャラした形をしているが、本当は一途で努力家な彼を日下部は小学生の頃から知っている。おそらくそんな彼だからこそアリマに惹かれたのだろうこともわかる気がする。
だからこそ、歯痒くて仕方がない。人の気持ちはどうして一方通行ばかりなのだろう?
「最近先輩と上手くやってんの?」
「何を?」
「べっつにー」
そういう色のある話に無頓着なのがアリマである。きっと和登が相当に女子にモテる存在であることや、そういう彼と親しげに会話するアリマを周囲がどう捉えているかなんてことをアリマ自身はまったく気にも留めていないだろう。色恋沙汰は皆が大好きなネタだから、たとえ学校が違ってもそんな噂はすぐに飛んでいくものだというのに。
「ねぇ、アリマ」
「何?」
まぁ、そこがいいところなんだけど。
「あたしさ、いきなり来てちゃっかりご飯食べちゃってるけど、帰れって言わないの?」
「帰らなきゃならない理由があるの?」
「ううん、別に」
「なら好きな時に帰ったらいいんじゃない?」
「……うん」何と返せばいいのかわからなかった。訊くだけ無駄な質問だったと思う。
その後、乾燥機で乾かしてもらった服に着替えて駅前のレンタルショップに向かった。アリマの部屋には何もないため、お楽しみは調達する必要があるのだ。少し迷って、映画のDVDを一本即日返却で借りた。
アリマは引率の保護者みたいに見ているだけだったので、完全に日下部のセンスだけで選んだ。少し迷ったが、結局宇宙人が地球を侵略しに来るというSFものにした。なぜか意外がられてしまうのだが、日下部はSFやファンタジーといったジャンルの作品を好んでいて、今日選んだ映画も以前映画館に観に行きたかったけれど結局金欠で観られずじまいになっていたものだ。日下部の周囲はラブストーリーばかりに興味を示すので、その点はいつもアリマに付き合ってもらう。アリマだったら日下部が何を選んでもいつも文句を言わない。ただ全部無反応でエンディングまで行ってしまうため、アリマ自身がどういうものが好きなのかは本当にわからないのだけれど。
DVDを手にご機嫌で店から出たところでアリマが急に足を止めた。
「どしたの?」
アリマが答えを言う前に、日下部はその目で見つけてしまった。アリマの視線の先には駅前のロータリーがあり、その隅のベンチに意外な光景があったのだ。
「和登先輩じゃん! 何あれ、デート?!」
「日下部、声が大きい」アリマは相変わらず冷めた口調で言うが、日下部は黙ってはいられない。
だって、だって、和登先輩だよ?
隣に座ってるのは女の子だよ? 男じゃないよ? 女の子だよ?
「ちょっとアリマ、何か聞いてないの?」
「なんで私が?」
「落ち着きすぎなんだよ! アリマはそれでいいのか⁈」
「まぁ、高校生生活を謳歌しているようだし……」
「何言ってんだよ、婆さんか、あんたは!」
「日下部、寒いから早く帰って映画見ようよ」
私には関係ございません、ときっぱり顔に書いてあるのが見える。日下部はすぐそこまで出掛かった反論を痛みに耐えつつ呑み込んだ。胃袋の中で、まだ納得できない言の葉がもがいている。
いいのか? アリマ、君はそれでいいのか?
先に歩き始めてしまったアリマを追いかけて足を引きずる。背中がムズムズして気持ちが悪い。何度も後ろを振り返りたいという衝動に駆られたが、寸でのところで堪えた。
家に戻って、早速鑑賞会を開いた。先程の光景を一刻も早く忘れたい日下部はテレビの真ん前の席を陣取ってアリマに怒られたので、目に良さそうな距離まで下がった。よく見る有名なアメリカ人俳優が主演だったが、名前は思い出せなかった。アリマはポップコーンが欲しいかと訊いたが、どうせ食べずに終わってしまうからいらないと断った。いつもそうなのだ。映画館でもジュースや食べ物を買って中に入るくせに、途中から存在を忘れて全部食べ切れたことがない。今なら温かい葡萄ジュースがあれば十分である。
序盤は予想通り迫力があってなかなかだと感じたが、真ん中辺りで日下部は欠伸をした。意外と恋愛的要素が強く出て、見ていると気恥ずかしくなってしまう。日下部は甘ったるい大人のキスシーンよりも、目が回るようなアクションシーンのほうがずっと好きだ。
日下部が目を逸らしたくなる場面でもアリマはまったく変化のない様子で見続けていることが多い。が、こっそりと横目でアリマのほうを見やると、今の彼女はどこか遠くを見たままぼうっとして、映画なんて気にも留めていないようだ。
「アリマ?」
思わず声を掛けてしまった。普段なら話の途中で他人に声を掛けるなんて絶対にやらないが、今日は気付いたらもう名前を呼んでいた。
アリマは僅かに肩を震わせ、それから日下部のほうを見た。彼女にしては珍しいくらいに驚きという感情が表に出ている。
「……どうか、した?」
「それあたしの台詞だから。何かあった?」
「いや……何でもないよ」
「つまんない? 疲れた?」
「ううん」アリマは小さく首を横に振る。「ちょっと、考え事」
「なんか今日変だよ。アリマ、困ってるの? あたしで良かったら聞くよ?」
「ありがたいけど……日下部じゃ馬鹿だから理解できないと思う」この物言いは普段通りのアリマだが、何となく心配である。
やはり先程の和登のことを気にしているのだろうか? 確かにあれは日下部でも相当に大きな衝撃を受けたのだから、幼馴染のアリマからすれば胸中は複雑極まりないと思う。大体この映画がいけない。アクションばかりだと思ったのに不意打ちみたいにラブストーリーを持ち込んでくるから……。
「そうか……うん、でも聞くだけはするからね。いつでも言ってね」
「うん」
アリマは頷いたが、やはり日下部はすっきりしない。もどかしさがこれ見よがしに不安を煽ってくるが、言いたくないものを無理に訊ねるのも違うと思うし、日下部にはどうすることもできない。
日下部はリモコンで少しストーリーを戻した。目を離した隙にキスシーンは戦闘シーンに変わっていた。アメリカの背の高いビル群がなす術もなく吹き飛び、無惨に崩壊していく街の中を蟻みたいな小さな人間が逃げ惑う。できればキスシーンが終わって場面が変わるきっかりのところにセットしたいのだが、なかなか上手くいかない。
「ねぇ。日下部」
リモコンと格闘していると、アリマが後ろから呼んだ。
「何?」
「私、宇宙人なの」
「……はい?」思わず手が止まる。
「――って言ったらどうする?」
ぽかんと口を開けたまま見たアリマの表情は真面目腐っている。一瞬、何を言われているのか脳が処理できなかった。
あたしが話をしているのはアリマだよな?
あの機械のように感情を表に出さず、笑いの才能皆無の冷めまくり中学生、有馬栗珠……だよな?
「何、いきなりどしたの? キャラ変?」思った以上に自分は動揺しているらしく、リモコンを落としそうになった。「大丈夫? 何かあった?」
「そういうわけじゃないけど」
まさかアリマの口からそんな台詞が出るなんて夢にも思わなかった日下部は、自分でも見事と褒めてやりたいくらいのアホ面をぬかす羽目になってしまっている。だってアリマはある意味宇宙人だけど、こんな冗談をかますような奴じゃなかった。『宇宙人だって言ったらどうする?』――なんてセンスのないジョークなんだ!
「いやいやいや、やめとけ、アリマに天然は似合わないって」
「わかってるよ」アリマは淡々と頷く。「例えばの話だから。忘れていいよ」
「無理だよ、忘れられないよ。アリマ歴史博物館の最重要保存品だよ」
「大丈夫」
「何が?」
「知らないうちに、だんだん忘れるから」
「淋しいこと言うなよ」
「淋しい?」
「当たり前じゃん」
日下部は自信を持って言ったつもりだったが、アリマはうんともすんとも言わなかった。やはり今日のアリマは何だか変だ。明確に何が、と答えることはできないのだけれど。
絶対に和登のせいだ。アリマは言わないだろうが、自分だったらきっと気にする。どうしても頭に引っかかって、調子が狂うかもしれない。次に会った時は文句を言ってやろうと日下部は心に決めた。
――アリマが宇宙人だったら?
そんなくだらないことに拘るなんてナンセンス過ぎる。何人であっても最終的にアリマはアリマだろう。それなら良いのだ。
「日下部、何ニヤニヤしてるの?」
「べっつにー」
アリマは日下部からリモコンを取り上げて、代わりにちょうど良いところにセットしてくれた。先程から同じシーンを行ったり来たり……リモコンで遊んでいると思われたらしい。無表情で映画を戻しているアリマに抱きつきたい衝動に駆られて、その本能に従ったら見事に弾かれた。
アリマはやっぱりアリマだ。
再び駅前を訪れた時、既に辺りは電飾の明かりに彩られていた。クリスマスという年間最大の恋人たちのためのイベントをいよいよ来週に控えている街は、日が暮れるとこんな風に人工的な色合いに染まって、どこか浮かれた空気を感じるようになる。もっとも、サンタクロースを待ち侘びる子供を数年前に卒業した日下部にとっては特段重要というわけでもなく、ただの平日に変わりないのだけれど。
山下達郎の声がクリスマスソングに乗ってどこからともなく聞こえてくる中、昼間訪れたばかりのレンタルショップの返却ポストにDVDを投函した。日下部的に、この映画はハズレだと思った。面白くないわけではなかったし、CG映像も綺麗で音楽も良かったが、好みの部分で違うと感じた。もちろんアリマがどう思っていたかはわからない。日下部もこれに関して個人的な感想を口に出すことはなかった。
夜になって一段と気温が下がった。それはアリマを見ているとわかる。気温の変化に応じて防寒対策レベルが変わるアリマは、ある意味でバロメーターになる。
「アリマ、寒いから家帰りなよ。あたし平気だよ?」
日下部がそう言っても、アリマは「うん」と頷くばかりでまったく変化がない。DVDなんて帰りに寄って返しておくからと言ったのに、アリマはわざわざ万全の装いで日下部について来た。返した後も、アリマは本来左に曲がらなければならないはずの角をいくつも通り過ぎて日下部の隣を歩いている。
「アリマが風邪引いたら困るよ」
「風邪は引かないから大丈夫」マフラーをぐるぐる巻きにした状態で言われても何の説得力もないが、確かにアリマが風邪を引いて学校を休んだことはない。
「暑いの平気なのになんでそんな寒いの駄目なの?」
「そういう体質なの」とアリマはいつも言う。「大丈夫。とりあえずこれで何とかなってるんだから」
日下部も寒さは好きじゃない。うだるように暑いのもどうかと思うが、冬よりは何となく夏のほうが良いと思ってしまう。しかしどんなに寒くても都会の冬なんてたかが知れているわけで、この様子でもしアリマが北海道なんかに行ったらもはや活動できないのではと考えてしまう。確かにアリマが雪山でウィンタースポーツを楽しんでいる姿なんて想像すらできないけれど。
住宅街の隙間から見える黒い空に月が浮かんでいるのが見えた。昇り立てなのか、大きくて卵の黄身みたいな色をしている。昼でも夜でも、空を眺めるなら冬のほうが綺麗に見える気がする。
「あぁいうの見るとさー、地球じゃないみたいな気分になんない?」
アリマはじっと月を睨んだ後、小さく首を傾げた。アリマには理解不能な感性だったかもしれない。
「小さい時、山の上のほうにあるホテルみたいなとこに行ったことあるんだけどさ」
「うん」
「夜すごいんだよ。星がさ、やばいの。東京のやつとかカスに見えるよ。ホント、あれは感動した」
「星、ね……」
ふぅん、とアリマは顔を真上に向けた。その先にあるのは暗闇だけだ。月光と街の明かりに邪魔されて、星なんてどこにあるのかわからない。
あの時は本当によく見えた。夏だったか冬だったかは憶えていない。ただ暗闇で、だんだんと目が慣れるにつれて星の数が増えていって、星屑の中を泳いでいるようだった。あんな星空を見たのはあれ一度だけだ。もう少し大きくなってから同じ場所へ行ったことがあるが、見られなかった。だから時々、あれは夢の光景だったのかと思うこともある。
「日下部」気付くとアリマがこちらを見ていた。
「ん?」
「オーロラって見たことある?」
「テレビで?」
「生だよ」
「あるわけないじゃん。アリマは?」
「うん。あるよ」
日下部は自分の思い浮かべているものとアリマの言っているものが同一であるか不安になった。アリマのテンションは休み時間に「あのドラマ見た?」と訊くのと大差ないが、あんな珍しいものを見たことがあるなんて、大人でも早々いないのではなかろうかと日下部は思う。
「え、ホント?」声が裏返ってしまった。「いつ見たの? すごいじゃん」
「ここではないけど」
「日本じゃ無理でしょ。アラスカとか寒いとこ行かなきゃ」
「そうみたい」アリマは特に残念がるわけでもなく淡々としている。「だけど、もう一度、見てみたいんだよね。あれ」
「あれって見るの難しいんでしょ? 運とか」
「運があっても、私には無理かな」
「なんで?」
「寒いのは、苦手だから」
「そんなの何とでもなるって。じゃあ一緒に見に行こうよ」
「え?」
「や、今すぐには無理だけど、もうちょっと大人になって、お金貯まったら」
日下部は真面目に提案しているつもりだが、アリマは解せない様子である。寒い場所へ行くことが不安なのか、或いはその頃もまだこうして友達でいるかわからないという意味なのかは不明だ。
後者でなかったら良いと思う。少なくとも日下部はそうなっている自信があるし、そうなっていてほしいと願っている。
「なんでよ、平気だよ。うちの近所にさ、宇宙旅行行くって必死こいてマイル貯めてるオバサンいるんだけど、それより全然現実味あるでしょ」
「それは……どうかな……」アリマは珍しく苦笑する。
「すごいよねー、オバサンってなんであぁもパワフルなんだろうね?」
「日下部も十分元気だよ」
「や、レベルが違うから。この前もさぁ、ほら、隕石の日あったじゃん? あの時も夜中だってのに家の前で喋るわ喋るわ……あたし寝たいんですけどーって」
へぇ、と頷きながら、アリマはまだ少しだけ笑っていたような気がする。普段はほとんど変わることのないその顔にこうして色が付くと、日下部は内心とても嬉しくなる。
――ねぇ、アリマ。
あたし、綺麗なものはアリマと見たいと思うよ。
美味しいものは美味しいってアリマと言いたいし、面白い映画はアリマと一緒に笑いたいと思うよ。
あたしはそういう時間が好き。
このまま止まっちゃえばいいのにって思うくらい、大好きだよ。
T字路に突き当たって足を止めた。アリマはようやくここで左に曲がることにしたらしい。
「今日、ごめんね」日下部が言った。
「何が?」
「アリマの休日を貰っちゃって」
「まぁ、いいかな。楽しかったから」そう言うくせに、そのうち返してね、と付け加えるあたりがアリマだと思う。
――いいさ。アリマにだったらいくらでも返してやるって。
「また明日」
「明日は日曜日でしょ」
「そうだった。また月曜日」
うん、と頷いてアリマは左伸びる道へ足を進めた。「じゃあね」も「バイバイ」もない。スポットライト代わりの街灯の明かりを帯びた彼女の後ろ姿は、まだ中学生だというのにやたらと貫禄があり、一度だって振り返りもしない。それがずっと変わらない、アリマスタイル。
しばらくその場から背中を見送って、日下部は右に曲がった。途中で一度振り返り、「アリマ、またねー!」と叫んだが、アリマはこちらを向くことなく頭の横で右手を振るだけだ。それでも日下部は心から溢れ出した嬉しさが笑みとなって顔に表れるのを堪えられない。
またね、と今度は口に出さずに言ってから家路に就く。これがずっと変わらない、日下部スタイル。
週が明けた月曜日、日下部にとって予想外な出来事が二つ起きた。一つはアリマが学校を休んだこと、もう一つは転校生が来たことだ。
いつものように朝のショートホームルームに滑り込んだ日下部は、教壇に立つ先生とまず目が合った。先生はピタッと言葉を止めて不吉な笑みを投げかけて来たので、日下部も苦笑いを返した。
「日下部。こういう日にも遅刻とはさすがだな」
クラスに笑いが起こった。何だかいつも以上にバツの悪さを感じたのは、先生の隣に女の子が一人立っていたからだろう。同じ制服を着ているが、知らない顔だ。
すいません、と言って自分の席に向かうと、先生は話を再開する。
「いいか、じゃあ日下部のためにもう一度言おう。今日からこのクラスで勉強することになったミヤノさんだ」
え、誰?
「急なご家庭の都合でうちの学校に来ることになった。卒業まで残り少ないが、クラスの一員として仲良くしてやってくれ」
つまり、転校生ってこと?
席に着いた日下部はマフラーを外しながら首を傾げた。中三の十二月、期末試験の直前に転校生なんて、季節外れも甚だしい。どの道あと三ヶ月もすれば卒業じゃないか。
先生に促され、隣の女の子が軽く頭を下げた。
「宮野愛莉です。よろしくお願いします」
先生の言う『こういう日』とはつまるところこういう意味だったのかとようやく理解し、日下部は教壇に立つ少女をまじまじと眺めた。正直、可愛いと思った。大人っぽいのとは少し違い、ただ可愛らしいという表現が最適なのだ。人形のように整った顔立ちをしていて、色素の薄いふわふわの長い髪を二つに結い、声は透き通ってオルゴールみたいな響きをしている。アリマも相当可愛いほうだが、おそらく転校生はその上をいっている。『可愛い子』に目がない男子共は、早速教室の其処彼処で議論を交わしているらしく、こそこそと空気のような声が聞こえてくる。
挨拶を済ませた宮野は先生に指示されて、教室の後ろのほうへ歩いていく。先生からの今朝の連絡は以上のようで、授業に遅れないようにと言い残してすぐに教室を出ていった。
はたと思い出し、日下部は慌てて鞄からノートを引っ張り出すと、廊下を行く先生を追いかけた。
「先生!」
振り返った先生にノートを渡す。先週末、遅くまで家でアリマに手伝ってもらった日下部用の特別な課題だ。
「お、やったのか。珍しいな」
「大変だったんだからねー。アリマが教えてくれたから良かったけど」
「なんだ、誰かにやらせてたんじゃあ、やったことにならんだろう?」
「違うからー、やったのはあ、た、し。アリマは教えてくれただけだもん」
「お前に勉強を教えるなんて根気のある奴がいたもんだな」
「ホント、アリマがいなかったら絶対終わんなかったよ、これ。先生、もうちょっと手加減してよねー」
先生はノートを受け取りながら笑っていたが、若干腑に落ちない様子だ。自分が素直に課題をやってきたことはそんなに不審がられることなのかと思ったが、それは口に出さず、よろしくと言って教室へと戻った。
アリマが来ていないことに気付いたのはその時だった。教室のどこにも姿が見当たらず、席には鞄も掛かっていない。
「明ちゃん、一時間目移動だよ?」両腕に教科書を抱えた鈴原が声を掛けてきた。「一緒に行かない?」
「あ、うん。ねぇ、今日ってアリマ休みなの?」
「え、誰?」
「アリマ。来てなくない?」
「う……ん……、来てないかも」鈴原は首を傾げながらぎこちなく笑っている。
アリマも風邪をひくんだな――ふとそんなことを考えた時、頭の中を電気が走っていくような不快な感覚が襲ってきた。この感じ、前にもどこかで経験した――そうだ、週末に見た夢の中で。
――まさか、ね。
日下部は机の中から急いで教科書を出し、鈴原と共に教室を出た。変なの。なんでだろう? 嫌な感じが消えない。あれは完全に自分の夢で、その後アリマにも会ったし、いなくなってなんかいない。
……はず、なのに……。
「明ちゃん、どうしたの?」
後ろから鈴原に呼ばれ、はっとした。無意識に早足になっていたようで、鈴原は小走りで日下部を追っている状態だった。
「あ、ごめん」
「なんか顔色悪いよ? 大丈夫?」
「うん、平気平気。何でもない。なんか嫌な夢見ちゃってさ、それ思い出したの」
「夢?」
「そ。アリマがいなくなっちゃうの。ホント最低だよねー、そんな夢」
表面上笑い飛ばしてはいるものの、心の中は乱れたまま収拾をつけるのに必死だ。
――いやいやいや……。
大丈夫だ。鈴原は知っている。さっきアリマが来ていないと彼女も言っていたじゃないか。どうしてこんなくだらないことを考えていたんだろう? アリマが、存在しないのではないか、なんて――。
日下部はなんとか自分を通常の軌道に立て直すと、鈴原と共に移動先の教室に入った。エアコンのスイッチが入れられたばかりの室内はまだじんわりと冷たさが残っていて、氷のような椅子に座るのが辛い。慌てて教室を出てきたおかげで愛用のブランケットを持ってくるのを忘れてしまったため、一時間目は足元の冷えと闘うことになりそうだ。
――あーぁ、アリマがいないとつまんない。
他の友達と絡むのが嫌なわけではない。ただ、何かが足りないだけだ。胃の辺りがクッと持ち上がるようなふわふわとした感覚がない。
ふと溜息が出てしまう。無意識にポケットに突っ込んだ右手の指先が、何か硬いものに触れた。薄くて丸いものが二つ、ポケットの中で踊る。日下部はすぐにそれが二百円だとわかった。先週末から入れておいた、アリマへの借金――ああぁ、せっかく一緒にジュースを飲もうと思ったのに。
あとで教室に戻ったらこっそりメールでも送っておいてあげよう。アリマだって人間なのだから風邪くらいひく時もあるだろう。それに一人暮らしで風邪をひくと悲惨だってお母さんが言っていたから、帰りに家に寄ってみるのもいい。そうだ、そうしよう。それならアリマの顔を見られる。誰に何を言われるよりも、それが一番自分を安心させてくれるはずだ。
チャイムから程なくして先生が入室してきた。誰かの号令で、かったるそうに皆立ち上がり、首を縦に折った後、また着席する。いつもと同じだ。違和感というのは少しの日常があれば簡単に溶けてしまうものだと日下部は知っている。
「休みの奴いるかー?」出席簿を広げながら、先生が声を響かせた。と、同時に新顔の存在に気付いたのか、すぐに手を止める。「えーと……君が宮野さん?」
日下部は他のクラスメイト同様、彼女のほうを振り返って見た。一気に注目が集まってしまった彼女は一瞬狼狽えたが、はい、と返事をしてその場でおずおずと立ち上がった。
「はい。宮野愛莉です」
その時なぜか、そう言った宮野と目が合った。刹那、心臓を鷲掴みにされたような衝撃が走り、日下部は動けなくなった。遠慮がちな、か細い声とは違い、日下部を捉えた彼女の視線はまっすぐで強い。
固まってしまった日下部に宮野は微笑みを送ってきた。その瞬間、日下部の石化の魔法は解け、はっと我に返る。それはおそらくほんの一瞬の出来事だったのだろうが、日下部には途轍もなく長い時間彼女と見つめ合っていたように感じられてならなかった。
「うん、話は聞いてるよ」先生はにこやかだし、僅かだがいつもより声のトーンも高い気がする。宮野が新入りだからか、或いは彼女のルックスが影響しているのかはわからないが、少なくとも自分に対する態度とは違うな、と日下部は思った。「まぁこの時期じゃいろいろ大変かもしれないが、よろしくな」
「よろしくお願いします」
軽く頭を垂れた宮野が再び席に着くと、先生は彼女がクラスメイトの名前を早く覚えられるよう全員の名前を呼んできちんと出欠を取ろうと言い出した。普段からは考えられない親切さに中には笑う奴もいたが、日下部からすれば退屈な授業の時間が一分でも短くなってくれるのは良いことだ。
しかし、先生のその行為が日下部の忘れかけた違和感を掘り返すことになる。
先生は手元の出席簿にある通り、生徒の名前を読み上げた。だが、その中に、有馬栗珠の名はなかった。
左隣に座る沢田を横目で見やる。気怠そうに頬杖をつき、爪弄りをする自分の指先を睨んでいる。他のクラスメイトたちも何ら疑問を抱いていない様子である。戸惑っているのは、日下部だけ――。
――なんで? なんでよ? 皆、なんで誰も……――。
日下部は怖かったが、反対側の隣席に身を乗り出して低い声で訊ねた。
「ねぇ、あのさ……――」
「うん?」クラスメイトもこちらに顔を寄せてくる。「どうかした?」
何を訊ねればいい? 何と言えば、この疑問を解消できるのだろう?
日下部は慎重に言葉を選んだ。しかし動揺と緊張が正常な思考回路を妨害して、何も浮かんでこない。
「……アリマって、今日休み?」
「えっ?」
それが精一杯だった。
隣席のクラスメイトはキョトンとしてしまって、少し思考を回転させると、それから申し訳なさそうに答えた。
「明ちゃん、それ、誰?」
「誰、って……」
「アリマさんなんて人、うちのクラスにいないよ」




