第一章 有馬栗珠の憂鬱(2)
翌日は雨が降っていて、有馬は朝から憂鬱だった。この世界の冬に降る雨は冷たくて、寒さに弱い性質の有馬は外に出る気力をことごとく削がれてしまう。加えて、日が昇っているうちに外星人がやってくることはほとんどないため、ワトソンのように真昼間から町中を警邏する真面目な習慣のない有馬は朝からずっと部屋に篭ったままで、学校で出された課題をさらっとやり終えた後は暇を持て余していた。
こういう時にこそ次の赴任先の情報がほしいというのに、まったく上層部は気が利かないな、と心の中で文句を言った。そういうものは大抵慌ただしくて見る余裕のない時に届くと相場は決まっているのだ。
仕方なく月曜の予習までやってみたが、有馬にとってこの世界の中学生の学習内容は易しすぎて、あっという間に飽きてしまった。そのうち思考より睡魔のほうが勝ってしまって、有馬はもう一度ベッドに潜った。
次に目覚めたのはそれから一時間ほどが過ぎた頃だった。夢の中で誰かが玄関の呼び鈴を鳴らしていて、その音で醒めてしまったのだ。だが、ベッドの上に座り、靄がかかったようにはっきりしない頭が冴えてくるのを待っているうちに、夢と同じ音が聞こえることに気付いた。
ピンポーン。
……え、誰?
有馬はぱっと飛び起きて玄関に向かうと、ドアの覗き穴から外を見た。見覚えのある頭が丸い視界の下のほうで動いている。
ドアを開けると案の定、日下部がいた。
「あ、パジャマ。寝てたな?」
「うん。暇だから」
「起こした? ごめんね」
「いや、いい。ていうか、何、びしょびしょじゃない……」日下部の下には既に水溜りができている。「傘は?」
「差してたよ」
「下手すぎでしょ。早く入って」
「ありがと」
何をしに来たのか、という質問は一先ず後回しにして、有馬は馬鹿な日下部にタオルと部屋着を渡して浴室に押し込んだ。気温が零下に突入した時点でほとんど活動能力がなくなる有馬らと違って人間はなかなか凍ったりはしないが、代わりにこういう場合は風呂にでも入れないと簡単に風邪をひいてしまう、というのが有馬の見解だった。
日下部がいない間に、有馬は冷蔵庫から葡萄のジュースを出してきて温めておいた。場所は忘れたが、以前どこかに赴任していた土地にアルコール飲料でこういうものがあった。未成年かどうかなんてまったく関係ない有馬はそれ以来自分でも時々作って飲んでいたのだが、ここへ来てからは世間的に中学生のアルコール摂取が禁じられていて有馬の姿でそれを買いに行くことは不可能なので仕方なくジュースで代用してみたところ、これはこれで悪くはないという結論に達したのだ。
しばらくして現れた日下部は体から湯気を放出していた。支給した部屋着は有馬の一番気入りの一式だったけれど、着るのが日下部なら許せた。
「ほぇー、あったかくなった!」
「良かったね」
「うん、ありがと」
鍋をかき混ぜていると、頬紅を施したような顔の日下部が寄ってきたので、有馬は温かい葡萄ジュースを日下部に与えてみることにした。
「何これ?」
「葡萄」
「え⁈ あっためたの⁈」
「そう。ワインの代わりに」
「ワイン? 有馬、ワイン飲んだことあんの?」
「あるよ」
「マジか。意外とワルなんだな」
日下部は有馬がこれ以前に大人だったことがあることを知らないからこういう感想になるのだ。
カップに注いで渡してみると、日下部は犬みたいに鼻を近づけて匂いを嗅いでいる。
「……匂いは葡萄だけど……」
「だって葡萄のジュースだもの」
「これは冷たくて飲むもんだよ」と言いつつ日下部はその場でカップにそっと口をつけ、黙って舌を転がす。「……酸っぱ。けど悪くないね」
言い草の割にお気に召したらしく、日下部はそのカップを持ったままさっさとベッドのほうに行ってしまった。有馬は自分の分も同じように注いで、日下部のあとに続く。
日下部はベッドの縁を背凭れにして床に座っている。さっき飛び起きてから触れていないため、ベッドの上は乱れたままだ。
「有馬の匂いがする」
「キモいからやめろ」
「ツレないなぁ」
「それで、日下部は一体何をしに来たの?」ようやくその質問をすることができた。
「えっとぉー……」日下部は首を傾げる。
「お風呂入りに来たわけじゃないでしょ?」
「実はそうだったりして」
「そうなの?」
「違うよー。あのねー、聞いてよー」
日下部が立ったままの有馬の右手を軽く引っ張ったので、有馬は従って隣に腰を下ろした。
「うん。どうしたの?」
「今日ね、有馬がいなくなってしまう夢を見たの」
「え?」
「だから、本当にいなくなってたら困るから、確かめに来た」
ドキッとして、一瞬フリーズしてしまった。無意識とはいえあまりにリアルタイムな内容の夢である。
「でもちゃんといたから良かったー」日下部は満足そうに微笑みながら葡萄ジュースを飲んでいる。あと数ヶ月後にそれが正夢になるとも知らずに。
「……それで、傘も差さずに?」
「だから差してたってば」
「……」
おそらくここでの正解はいつもの調子で「馬鹿じゃないの?」とでも言って一緒に笑いながら葡萄ジュースを飲んで、さっさと話頭を転じてしまうことだ。しかし咄嗟にそれができなくなっている自分自身に、有馬は驚いた。
日下部のように、笑えない。
「……私は、どんな風に、いなくなるの?」
「え、わかんない」日下部は間が抜けた顔を横に振る。「気が付いたらいなくなってて、みんな有馬のことを知らないって言ってて、でもあたしは絶対そんなことないって思ってて、めっちゃ探すんだけど見つかんないの」
「そう……」
馬鹿なの?
君は、本当に――。
カップを持つ手が震えて、落とさないようにと必死だ。有馬栗珠のいなくなったこの世界で、日下部が有馬を探して走り回っている光景が頭の中を過る。それは有馬が今、最も案じている彼女の未来の姿だ。
有馬にとっては抜群にリアリティを帯びた内容だった。以前のテイラーには人間関係がほとんどなかったため、残された地球人の頭で行われる記憶の改竄については何の心配もなかった。しかし今回は違う。「有馬栗珠って誰?」と皆が訊ねる中、日下部はたった一人で必死に学校内を探す。通常忘れてしまうはずの宇宙人の記憶が、日下部にだけ残ってしまったから――。
「有馬。ごめんね」
すると日下部は急に哀しそうな表情を浮かべて有馬を見た。
「……どうして、君が謝るの?」
「だって有馬怖い顔してるもん。あたしが勝手に消したから怒ってるの?」
「……いや」
そんなつまらないことで怒ってどうするんだよ? 有馬は日下部に怒られなきゃならないことが、謝らなきゃいけないことがたくさんあり過ぎて、何も言えないだけだ。
ん、と日下部がカップを突き出した。いつの間にか中身は空っぽだ。
「……何?」
「まだある?」
「どっち?」
「あったかいほう」日下部は舌を出した。
あるよ、と言ったら日下部はとても嬉しそうな顔をした。結局君も温かいほうか、と思ったら笑えた。
日下部はその後、日が暮れ始める頃までずっと有馬の家に居座った。有馬の家にはゲームの類いとか、漫画とか、とりあえず中学生が好みそうな所謂遊び道具は一切なく、普通に考えればつまらない家だと思う。
昼過ぎに一緒に昼食を作り、それから駅前のレンタルショップまで映画のDVDを借りに行った。有馬もついて行ったが、選ぶのは日下部のセンスに任せたらアメリカのSF映画を選んできた。日下部が誘わなければ映画なんて見ない有馬には当然知る由もないタイトルだったが、とりあえず何でも良かったので承諾した。
店を出たところでロータリーの反対側のベンチに目が留まった。かなり距離はあるが、有馬からすれば大して苦労もせず認識できる範囲内である。私服を着ているが、あれは和登蘭丸である。ジャージではなく余所行きの服装ときたものだからそれだけでかなりレアな光景だというのに、なんとその上隣にいるのが可愛らしい女の子――有馬は一瞬、何か幻でも見ているのではなかろうかと自分の目を疑ってしまった。
「どしたの?」
横から日下部が訊ねてきたが、有馬は咄嗟に何と説明すれば良いのかわからず首を傾げてしまった。すると日下部は両目を細くしてロータリーの反対側を睨み、有馬より先にその状況を理解してしまった。
「和登先輩じゃん! 何あれ、デート?!」
突然日下部が声を上げたので、有馬は驚いてしまった。別に特段悪いことをしているわけではないはずなのに、なんだか急に後ろめたさが芽生えてくる。
「日下部、声が大きい……」
「ちょっと有馬! 何か聞いてないの?!」日下部は有馬の腕を掴んで激しく揺さぶる。
「なんで私が?」
「落ち着きすぎなんだよ! 有馬はそれでいいのか?!」
なぜ日下部はそんなに必死なのだろう、という疑問を抱きつつ、頭の中で有馬栗珠と和登蘭丸の人間関係についての設定を思い出した。以前、日下部が貸してくれた少女漫画という本の中には、有馬と和登のような『幼馴染』という関係はある程度の年齢になると『恋人』に変化することが書いてあった。おそらく日下部はその本を信じているのだろう。実際にこの世界の人間たちが皆そうであるか否かは不明だが、少なくとも有馬と和登にとってその変化はあり得ない。
有馬は何となく安心している自分に気付いた。ほとんど弱音など吐いたことのない彼が、昨夜も交信中にあれだけこの世界への愚痴を溢し、早く次の赴任先へ行きたいと騒いでいたから心配ではあったのだ。おそらく今も何かしらの訳があってあのような状況に陥っているだけなのだろうが、こうして傍から見ていれば高校生としてきちんとこの世界に溶け込めているし、可愛らしい女の子の隣に座っているのも満更ではなさそうである。
「……まぁ、高校生生活を謳歌しているようだし……」
「何言ってんだよ、婆さんか、あんたは!」
和登は間違いなくこちらの存在には気付いていない。が、このままここで日下部が大騒ぎしていてはばれるのも時間の問題だ。
「日下部、寒いから早く帰って映画見ようよ」
彼女は見るからに不服そうな表情をしていたが、何も言わずにぐっと我慢をしたようだ。有馬が先に歩き出すと、少し遅れて追いかけてきた。
この選択が正解なのか、有馬の胸中は複雑だった。今までならきっと日下部を利用してでも和登に声を掛け、隣の女の子との関係を崩すよう努めただろう。宇宙人として行動するならそれが模範であることは有馬も百も承知だし、もし和登が親密な人間関係を築いてしまったらどうするのだろうという不安もないわけではない。
しかし、今はできない。自分にはそうする資格がない。
『あまり日下部さんと仲良くしないほうがいい』――ふと、和登がよく口にする言葉が脳裏を過ぎる。彼はいつもこんな心持なのかもしれないと思うと、申し訳なくなる。
――私は、間違いなく、変わった。
足早に家に帰ると、日下部は一目散にテレビの直前を陣取り、黙々と借りてきたばかりのDVDをデッキにセットし始めた。どうにか彼女をソファまで引きずり戻すと、「いいよ」の合図もなしに映画が再生される。
有馬は手元に置いてあったパッケージの裏側を眺めた。崩れかけの高層ビルが立ち並ぶ画――どうやらこれは宇宙人が地球を侵略しようとやってきて、それを特別チームが防ぐというこの世界ではよくある展開のフィクションらしい。なぜこのタイミングでその映画なんだ、という疑問で頭が溢れそうだったが、任せたのは自分だから仕方がない。
この世界の宇宙人というものに対しての見解は一貫性がない。友好的だと捉える場合もあれば、侵略者だという場合もある。自身の立場を考えれば確かに両方が存在するわけで強ち間違いではないが、結局はこの世界の人間が頭で想像し考えたファンタジーの中の話に過ぎない。これらをフィクションからノンフィクションに切り替えてくれるのはあと何年先の話なのだろう?
有馬は家のテレビの前で両足を抱えながら、視線も心も画面に捕らわれている日下部の背中を見ていた。普段は常にうるさい日下部だが、こうして映画を見ている時だけは驚くほど静かになる。
ふと考えてしまう。
あと、何度あるだろうか?
こうして、有馬栗珠という人間として日下部の隣にいることが、あとどれくらいできるだろうか?
こういうことは今までにも幾度となくあった。一人で一日中灰色の冷たい景色をぼんやりと眺めて過ごすよりずっと楽しいといつも思う。日下部が帰った後でテイラーが罪悪感に苛まれることになるというのも有馬は十分わかっているのに。
駄目なのに。
私は、宇宙人。この世界の人間とは仲良くしてはいけない。日下部には跡形もなく忘れてもらわなければ困るのだ。一緒に食事をしたことも、ここでこうして映画を見ていることも、有馬栗珠のことは、すべて。
夢の話を思い出した。近く訪れるであろう有馬栗珠のいない世界の夢――実際に日下部の頭の中に有馬栗珠の記憶が残るかどうかは、テイラーが任務を終え、この世界から消えてみなければわからない。
――もし、忘れなかったら?
日下部の記憶の改竄に支障が出たら、どうする?
有馬は自分の中に最も抱いてはいけないはずの感情が生まれたことに気付いた。いや、あるのはわかっていて、今までただ認めていなかっただけなのかもしれない。でももう無理だ。
――怖い。
不安でも拒否でもなく恐怖だ。何かに対して自分は途方もない恐怖心を抱いている。どうする? 日下部の見た夢が、すべて、そのまま現実になってしまったら?
だから、駄目なんだ。日下部からは離れるべきだ。
わかっているのに、愛おしくなってしまう。この時間が、たまらなく――。
「有馬?」
気が付くと日下部がすぐ傍で憂色を浮かべていた。
日下部は馬鹿だが、本当はちっとも馬鹿じゃない。他人の心情に対する洞察力だけは有馬より優れているかもしれないと感じる。例えば境界侵犯と交戦した翌朝に、決まって「なんか疲れてる?」と訊ねられるところ――有馬自身も気付いていないのに、日下部は容易に見抜いてしまう。
「……どうか、した?」
その度に、いつか彼女にだったら自然とばれるかもしれないと思う。
有馬栗珠が人間ではないということが。
「それあたしの台詞だから。何かあった?」
テレビの向こうでマンハッタンの高層ビルが吹き飛んだ。豆粒のような人間たちが悲鳴の中を逃げ惑って、道端に並ぶ車が宙を舞う。
「いや……何でもないよ」心臓の辺りがきゅっと痛い。
「つまんない? 疲れた?」
「ううん。ちょっと、考え事」
「なんか今日変だよ。有馬、困ってるの? あたしで良かったら聞くよ?」
「ありがたいけど……日下部じゃ馬鹿だから理解できないと思う」
「そうか」日下部は悲しそうな顔をしている。「うん、でも聞くだけはするからね。いつでも言ってね」
――言えたら苦労しないって。
代わりに有馬は、うん、と頷いた。そんな台詞、言われたことがない。頷きながら、優しくしないでほしいと思った。そしてそれを拒否できない自分自身にも嫌気がさす。私は、君を、騙しているのに。
あと三ヶ月もこのままでいるのが本当に正しいことなのかわからない。現状を維持していけば最適な有馬栗珠の終わらせ方が見つかるとも思えない。
なら、どうしたらいい?
もし本当のことを話したら、日下部は何て言うだろう?
この世界の住人ですらないのに人間の中学生のふりをして、皆を騙してここに住み着き、得体の知れない侵入者たちと夜通し殺し合いをしています――それが有馬栗珠の真実だと言ったら君はどうする?
最初は驚いて、それからきっと笑うだろう。冗談だと信じない。それから気の済むまで疑って、戸惑って、嘘だと否定して、そんなはずはない、あり得ないと繰り返して――最後は、私自身を拒絶してくれるのだろうか?
「ねぇ。日下部」
もし日下部がそうしてくれたなら、私は、どうするのだろう?
楽になれるのだろうか?
「何?」
そうなってくれたら良いと思うのに、なぜか、手が震えている。不思議だ。こんな気持ちになったことがない。何が嫌なの? 何が怖いの? 今までの私を返してよ。何の躊躇もなく人を突き放し、一人になりたがっていた私を返してよ。
「私……――」
そうでしょう? テイラー。
あなたは、どこでだって一人なの。
一人でなくちゃいけないの――。
日下部の屈託のない笑顔が、すぐそこにある。
夕方六時を回った頃、レンタルショップにDVDを返しに行きがてら日下部を途中まで送った有馬は、自然とある場所へ向かっていた。問題は起きていないし、和登のようにパトロールをしようなんて考えもないが、何となく足が動いているのだ。
この季節の夜は早い。人気のない暗がりの道を歩いていると、突然現れる斜面と階段――今もまだ立入禁止の立て看板と黄色いロープが外されていない。ここを上ると、あの市民公園に辿り着く。数日前の夜、『隕石の襲来』を受けて大穴が開いたと一夜にして有名になった公園だ。
有馬は看板の忠告を無視して階段を上っていく。昼間は感じないのに、夜になると両側に生えた斜めの樹木が気持ち悪い。真っ黒で、葉もないのにざわざわと鳴く。何かの生き物みたいだ。どこかから不意打ちされるのではないかと無意識に身構えてしまうのはもはや職業病だろう。この世界ではほとんどあり得ないとわかっているのに。
あの夜から警察や消防、マスメディア関係者が付近をうろついているのをよく見かける。そして誰よりもこの件で目を輝かせているのが学者とか専門家と呼ばれる偉そうな人間たちだ。来る日も来る日もこぞってこの場所を訪れ、穴の原因を突き止めようと躍起になっているが、その努力はほとんど何の意味もないだろうと有馬は気の毒になる。外界からの圧力という概念がないこの世界で、できる調査なんてたかが知れている。
階段を上りきり、広場に出る。隕石騒ぎの前はよくここでジャージ姿で体操をしている老人や、ペットの散歩をする人を見かけたが、その長閑な風景は見る影もない。斜面と共に広場の約半分が抉られ、その外周に規制線が張られている。
今日の作業は終了しているようで誰もいない。有馬はバリケードの隙間からテープを潜って中に入り、穴の淵に立った。まるでスプーンでくり抜いたかのように綺麗な丸い形をしたクレーターは首を動かさなければ全貌を拝むことはできず、深さも三メートルほどはあるだろう。改めてその大きさに首を傾げてしまう。
例えば上から何かが落下してきて、その衝撃で地面が凹んだのであればもっと歪な形をしているだろうし、底が抜け落ちたのだとしたらこうも丸い跡にはならない。
――それなら、何?
不思議だ。この穴を見ていると、有馬の中で何かが疼く。急に息苦しくなって、頭の奥のほうがズンと痛み出す。そうやって、和登が言うように何でもなければ良いと思いたいのを違うと引き止めてくるのだ。教えてよ。何が違うの? 私は、何を知っているの? ――何度も訊ねているのに、一向に答えは見つからない。
するりと穴の中へ下りてみる。吹いてくる風が土臭い。ここに収まっていたであろう土や石はどこへ消えてしまったのだろう? 周囲に飛散した形跡はないが、これだけの量が消えてなくなるなんて通常ではない。
そう、この世界の通常ではない何かが起きたのだ。
あの夜のことを思い出す。突然の轟音と閃光、そしてこの穴。絶対に音と光は関係があるはずだ。しかし高エネルギーの発生残渣や外星人の気配は、やはり有馬には感知できない。ただ穴があるかないかという見た目の違いだけで、他は以前と何も変わらない。
ふと長い溜息が出た。白い息が一瞬漂い、夜闇に溶けていく。わからない。あの時も、今も、何もわからないままだ。
上を向くと、先程まで住宅の屋根と並んでいたはずの月がいつの間にか天高く昇っているのが見えた。街路灯よりも眩しい月明かりのせいで星はなく、所々に漂う灰色の雲の輪郭がはっきりとわかる。静かで、そして、平和だ。こんなにも平和だと体が鈍ってしまうのではないかと怖くなるくらいに。
早く見つけなければ、と思う。様子を見ようと口では言っているが、内心は急いている。早く見つけて、必要なら戦わなくてはならない。
手遅れになる前に。
この世界は綺麗だ。初めてこの世界へやって来た時の第一の感想はそれしかなかった。そして今も変わらない。ここには有馬の世界にはない色があり、有馬の世界にはない匂いがある。どれも有馬の好きなものだ。それを穢そうとする奴らは許さない。この世界はずっとこのままであるべきだ。
そのためなら、戦える。
穴から上がり、再び中を覗き込んだ。黒い湖のようだ。落ちたら二度と這い上がってこられないと脅迫されているような気になる。
すべてが一瞬にして、或いはゆるりと壊れていく音が記憶から離れることはない。今もまだ自分にはあの焼けた臭いが残っているのではないかと思う時がある。あんな思いはもう二度としたくない。だから強さを求め、縋り、拘ったのだ。それをこの手で防ぐことができるように。
ワトソンに交信をしようと思ったが、やめた。駅前のベンチに座る姿を思い出した。日下部には言わなかったが、有馬はあれくらいの距離では細かな表情まで捉えられるし、声も明瞭に聞こえる。だから彼がなぜあの場所にいて何をしていたのか、有馬にはわかっている。彼もあんな顔をすることがあるのかと驚いた。少なくとも有馬は初めて見た。
もしかしたらまだどこかで遊んでいるかもしれない。それなら放っておいてやりたい。彼をあんな風に笑わせることは、有馬には、テイラーには、できないから。
――気を付けろよ、ワトソン。
君は今まで通り、見境のある付き合いをしろ。でないと私のように困ることになる。
冷たい夜風がそよぐ。白い月はちょうど一塊の雲に隠れるところだった。いつどこで見ても、この世界は同じような空をしている。
息を吐いた。また白くて、すぐに消えてしまった。もう帰ろう。これ以上寒空の下に長居するには軽装すぎる――。
有馬が片足を引いた時、ほんの微かに何かの気を察した。
地面を蹴るのと武器を持つのは同時だった。
カツン、と硬い音が辺りに響く。
予想以上の衝撃の強さに腕が痺れている。
即座に体勢を立て直し、再び地面を蹴るが、殺気は一向に離れない。
――何だ?
まったく距離が取れない。跳び上がったまま、体の前でギリギリ刃を跳ね返すが、その頃には次の手を打たれている。頭に浮かぶ疑問に答えている余裕すらない。
速すぎる。
自分のセンサーは外星人の生体反応を示していない。しかし人間でこの機動性はスペックオーバー。
これは、戦闘を知る者――戦闘に慣れた者でなければあり得ないスピードと感度、そして、技量。
テイラーと、同じ種類だ。
誰?
人間だ。でも、人間じゃない。明らかに有馬栗珠の正体を知って攻撃してきている。
どうして――?
有馬は意を決して守備をやめ、一挙に距離を縮めた。相手の息遣いが聞こえるくらいに。
捉えた姿は影だった。夜闇よりも黒く、月明かりすら通さない影。
「お前は、誰?」
その瞬間、体が金縛りに遭ったように動けなくなった。そこから突然白いものが伸びて有馬を捕らえる。
真白い光が辺りを包んだ。




