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第一章 有馬栗珠の憂鬱(1)

 アリマグリッド・クリステル・テイラーがこの世界で有馬(アリマ)栗珠(クリス)という中学生を名乗るようになったのはおよそ二年と八ヶ月前のことだ。それは自らが望んだことではなく、あくまで偶然の重なり合いによってそうなったのだが、後々になってみると、ひょっとしたらこれは宿命だったのかもしれないと有馬は考えているのだった。

 おそらくこの国でキラキラネームという文化が発展していなければ、有馬栗珠はその名前だけで相当に浮いた存在だったろうが、幸いにしてより過激なネーミングの同種族が周囲に大勢いたためにそれは避けられた。ただ、どうせ化けるなら中の上くらいの外見レベルが良いというあくまで個人的な価値観と願望によって形成された有馬栗珠という身体(いれもの)は、なぜか男子中学生からよくモテて、『目立ってはいけない』という組織内の暗黙のルールは赴任直後に破ることとなってしまった。しかし、そんな諸問題は月に一度の定例報告の際も話題にさえ上らない。それくらいに、このチームは優秀である、というのが現場を知らない気の毒な上層部の見解なのであった。

 任期は満三年。状況によっては多少の延長や短縮もあるが、基本的にはズレない。満了すると一度外界に設置されている組織――アルカ本部に帰還し、またこの地球という世界の中の別の場所で、別の人間として着任する。有馬栗珠でいるのも残すところあと三ヶ月ほどとなった。三年も同じ環境に属していればそれなりにネットワークが築かれてしまうものだが、テイラーはその世界を去る時に哀愁じみたものを感じたことは一度たりともない。訳のわからない人間という生き物と関わり合うのは面倒だったし、一定の距離を置くことはそもそも自分と関係した人間自身のためでもあった。だから、時が来たらただ事務的に身の回りを整えてさっさと離脱すればそれで良い。あとは、何も――それがずっと貫き続けてきたやり方だった。

 しかしここへきて、初めて悩んでいた。有馬栗珠の終わらせ方がわからないのだ。とある、たった一人の地球人のせいで。

「報告は以上です。引き続き、任務に当たります」

 お決まりの文句で上層部への報告を済ませ、面倒な定例報告もこれであと二回となった。長々と付近の電波を遮断しているのは少々問題がある。というのも、この交信に使っている機械はこの世界で簡単に手に入れることができる携帯電話の中身を少し独自に改造させてもらったもので、周囲からは単に電話をしている人にしか見えない。しかしこの世界の境界線を越えたずっと先に本部を置くアルカの上層部と交信する場合――ちょうど今のような状態では要注意なのだ。どうも相性が悪く、周辺の電波を妨害してしまうらしい。

 だからいつもは十分足らずで終了するよう纏めているはずの報告に、今日に限って三十分も費やしてしまったのは、昨夜この地域で起きた原因不明の地盤陥没現象のせいなのだ。

「――、その件は隣の街区からも報告が上がっている。既にいつでも応援要請に応えられるよう整備はついている。警戒強化、随時状況を報告せよ」

 有馬は首に巻き付けたマフラーのフリンジを指先で弄びながら、上司の声を聞いていた。淡々と落ち着き払ってまるで他人事だと主張しているように感じるが、レスポンスが高感度だったことには少し驚いた。自分の管轄する街区で起こった事象については基本的にそのチームで処理解決するのが決まり事であって、昨夜の地盤陥没についても端から組織の力を借りるつもりはなかったし、そもそも上層部が応援を用意しておいてくれること自体が有馬にはとても意外だったからだ。

「――、それから、近々次の赴任先の資料を送信する。ワトソンにも伝えてくれ」

 セシール・ランマリアス・ワトソンはもう随分と長い間一緒に行動している片割れの名だ。彼も普段は男子高校生としてこの世界に馴染んでいる。

「了解」

 会話を終了し、有馬は腰掛けているベンチに背中を預けて空を仰ぎ見た。カラカラに乾いた背凭れの木材が小さく軋む。十二月――すっかり葉の落ちた枝の間から、色のない退屈な空が覗く。短く息を吐くと、放たれた白い靄はすぐに冷たい風にさらわれ、冬の空気に溶けていった。こんな時季に不用意に中庭に出ようなんて考えは起こさないのが通例らしく、今ここにいるのも有馬だけでとても静かだ。有馬も寒さはもっぱら――おそらく人間以上に苦手なのだが、こういう環境でないと報告ができないから致し方ないというわけだ。

 ワトソンに伝えることを忘れないようにしなければ、と有馬は頭の中で復唱した。次の赴任先に関する情報は、たいてい任期満了を待たずに送られてくる。帰還してすぐにまた発てるように各自が下準備を進め、その地域の人間として一刻も早く馴染むようにしなくてはならないからだ。ただ、それがほぼ無意味な場合もあるのだということを今回の赴任で学んだ。

 女子中学生、有馬栗珠――そもそも『チュウガクセイ』を『中学生』と書き表すことと、だいたい誕生してから十二~十五年目くらいの人間を指すことくらいしか知らなかったテイラーは、もちろん予習として最初に中学生について学ぶべきだと考えたが、中学校という組織に属し、一生のうちで最も奇怪な時期にあたる人間ということくらいしかわからなかった。しかしまぁ情報が少ないというのはよくある話であったため、赴任先の地理や文化などだけをざっと記録して、あとは行き当たりばったり、適当にやっていけるだろうと安易に考えていた。だって過去に会社員とか大学生とかいう部類に属した時は、それで十二分に通用していたのだから。

 が、それが甘かったのである。それはひとえに『一生のうちで最も奇怪な時期にあたる』という一文を理解できなかった自分に非があるのだが、まさかこの中学生共にここまで苦戦させられるとは夢にも思っていなかった。

 本当にわからない。正直、今でも。

 彼らは不可思議であること極まりない。彼らはさして重要とは思えないことで言い争い、毎日弁当という小さな食物の詰め込まれた箱を開けて一喜一憂し、時に根拠のない友情というものに溺れるという性質を持っていて、彼らの間では『中二病』という厄介な病と、『ツレション』という休み時間限定のイベントが流行しているらしい。彼らの行動のほとんどは理解不能、予測不可能なもので、テイラーの頭は常に悲鳴を上げ、時々ショートしそうになる。こんな訳のわからない集団が成り立っているというのだから、学校というのは素晴らしく有能な組織である。もちろんそれは最初の定例報告の時にすべて、余すところなく報告してやった。きっと今頃それらの情報は、次にどこかに中学生として赴任する哀れな誰かの元に届いているはず――いや、哀れではないかもしれない。少なくとも自分は違うと最近になって自覚し始めた。有馬栗珠が三年目に突入した頃からだ。

 今までならそんな風に、時の流れを意識することなんてなかった。上層部から次の赴任先の情報が勝手に送られてきて、初めて三年という月日が流れていたことに気付く。だが、今回は違う。明らかに、特にここ数ヶ月の自分は意識していた。上層部がいつデータを送ってくるか、今日なのか、明日なのか、まるでその日が来るのを恐れているかのように。

 ――恐れる?

 恐れるものなんて、ない。だからこそ戦っていられる。迷わず敵の懐に突っ込み、その瞬間、敵と運命を共にすることになったとしても構わないと思えた。それなのに、何を今更……。

 可笑しい。そんなの、自分でもわかっているのに。

 原因は何となく見当がついている。そう、あれだ。今まさにあの渡り廊下の向こうから、思わず殴りたくなってしまうくらい幸せそうな笑顔を浮かべ、有馬の名を連呼しながらこちらに手を振り歩いてくる、あの中学生。

「ねえぇー、有馬あぁー!」

 そうそう、この物言い。ねっとり纏わりつくような口調。

 うるせぇ!と言うのはやめて、有馬は彼女――日下部(クサカベ)(メイ)を一瞥する。有馬がこの世界で最も理解しがたい人間。有馬が今まで苦労して築き上げた中学生データに、あいつは当てはまらない。

 なぜならあいつは、弁当を開けても何も言わないし、友情なんてものについてもこだわりはなく知っているのかさえよくわからない。『中二病』なんて病気はきっと自ら逃げていくだろうし、『ツレション』にも参加しない。そして何よりそう判断できる最大の決め手は、この有馬栗珠の傍にくっついてちょろちょろと動き回ることである。この世界で、この世界の人間という生き物のために、有馬がわざわざ作り上げた『近づきにくいと思われる人格』が、あいつには通用しない。まるで、通用しない。

 かなり長い時間をかけて目の前まで寄ってきた彼女は、右手を前に突き出すと、何もない掌を見せた。

「どうしたの?」有馬はベンチに座ったまま、謎の生命体・日下部の笑顔を見上げる。朝から頭の右側についている寝癖がまだ直っておらず、歪な形をしている。

「百円貸して」

 百円とはこの世界の通貨単位である。ここではこれがあるとたいていの水分を購入することができる。

「なんで?」

「あのね、ジュース買おうと思ったの。そしたら財布に三十二円しか入ってなくて」

「水道を捻れば水が出るよ」

「駄目だ、あたしの脳ミソは糖分を欲してる」

 人間の脳はブドウ糖がないと機能しなくなってしまうので、それを欲しているなら仕方がない。というわけで、有馬は立ち上がり、右の手でポケットの内部を詮索すると、銀色の丸い硬貨を一つ渡した。すると、日下部はなんだか神仏でも見ているかのように目をきらきらさせるのだ。

「ありがとう! 有馬は神だ! 恩に着る!」

 硬貨一つで神になれるなんて、百円には本当にすごい力があるのだ。

 なぜかこれが赴任直後からずっと変わらず続いている。最初は調査対象にでもしてやろうかと思ったのだが、何をするにも例外が多すぎたので諦めた。一体こいつは私のことを何だと思っているのだろうか?

「明日絶対返すから」

「明日は土曜日でしょ」

「あ、そうだった! じゃあ、月曜絶対返すから」

「うん」

 ここで重要なのは、有馬は決して(たか)られているわけではないということだ。財布に三十二円しか入っていなかったというのはリアルな話で、日下部はこれまでにも数えきれないほど有馬から百円を貸借しているが、一度だって返さなかったことはない。

 日下部はそういう奴なのだ。

「ねぇ、何してんの? こんなとこでさ。寒くない?」

「寒いよ」

「馬鹿じゃん。風邪ひくよ」

「そうかな?」有馬は首を傾げる。有馬の認識では馬鹿なのは日下部のほうがずっと馬鹿だし、有馬はこの時季に人間がよくこじらせる風邪という病を発症しない。「これがあるから、大丈夫だよ」

「ホント?」

 有馬が視線で首元のマフラーを指すと、日下部は嬉しそうな顔をした。何を隠そう、紺色の太めの毛糸でこれを編み上げたのは日下部なのである。昨年の秋口、家庭科の授業で編物をやった時に作ったもので、先生から返却されてすぐに「これは有馬用だから」と言ってくれたのだ。見るからにズボラな日下部なのに、出来上がった作品は意外にもハイレベルで少し驚いた。

 日下部は一度カーディガンの中に引っ込めた手を再び出して、有馬の左手を掴んだ。

「死人の手みたいに冷たいよ?」

「これはいいの。もともとそうだから」

 有馬はしばしば日下部と手を繋ぐが、日下部の手はいつでも温かい。どうすると彼女のように手の先まで体温を保っていられるのか、有馬にはまだ解明できない。手が冷たいことで不便さを感じたことはほとんどないのだが、日下部のそういうところは少し羨ましいと思うことがある。

「教室戻るぞ」

「うん」

 有馬は引かれた左手に逆らわずついていく。不思議と、日下部に馬鹿呼ばわりされるのは嫌いじゃないし、日下部に纏わり付かれたほうの腕はいつだって暖かくいられる。本能的に、有馬は暖かいのが好きだ。




 夕方、まだ四時過ぎだというのに外は薄ぼんやりとして、空気の冷たさには一段と磨きがかかっている。目から下は襟巻のおかげでなんとかカバーできているが、スカートの下から出ている脚は諸に冷えた風に晒されてしまって痛い。有馬が達磨のような格好になっている今も、コートも着ずに飛び回っていられる日下部が羨ましいと思う。

「ねぇねぇ、聞いて?」

 靴を履き替えて昇降口を出た途端、日下部が片腕にしがみついて顔を覗き込んできた。何か話したくて仕方がない時の目だ。

「どうしたの?」

「あのね、さっき五時間目の時に見てた夢が超傑作でね、面白かったの」

 日下部と帰るとこのパターンの会話はよくある。彼女は眠っている間に見る夢が妙にリアルで、起きてからも不思議とその大部分を覚えているらしいのだ。

 有馬は五時間目のことを思い出した。そういえば途中に一度教室のどこかからパシッと乾いた音が聞こえたが、もしかしたらあれは先生の教科書が日下部の頭に振り下ろされた音だったのかもしれない。

「授業中に夢見てたら駄目でしょ」

「でも楽しかったんだよ、すごいんだよ?」

「どんな風に?」

「宇宙人が出てきてさ、戦うの! なんかね、地球を征服しようとしてる悪い奴がいるんだけど、そいつを倒すんだよ!」

「へぇ」嬉しそうに瞳を輝かせながら急いた口調で話す日下部の傍ら、有馬は自分のことを言われているようで後ろめたい気分になってくる。もちろん有馬が宇宙人であることは知るはずもないが、自身は無意識に緊張しているらしくつまらない相槌しか打てない。

「すごいでしょ。映画っぽくない? 「スケールでかっ!」って感じじゃん?」

「そう、きっと……昼に隕石のことを話したから、それが夢に影響したんじゃない?」

「あぁ、なるほど!」日下部は目を見開く。「頭良いね、絶対そうだよ!」

 彼女が満足げに頷いているのは、昨晩遅くにこの町で起きた珍事件が大きく関係している。

 その件について、有馬には疑問がある。ただ昨夜、確かに空から落下してきた何かが町の公園に大穴を開けた。この世界の住人にとって隕石というのは余程『ロマン』を感じるものらしく、朝になる頃にはその原因が隕石の落下ではないかという勝手な憶測が町の一大ニュースとして飛び回っていて、案の定、学校でも皆口を開けば隕石の話ばかりだったというわけだ。

 これが宇宙からの攻撃ではないかと考えない辺りが素晴しく呑気で、羨ましい。日下部のおかしな夢のようにならなければいいと、有馬は心から願っているというのに。

「はあぁ……途中で起こされなきゃ最後まで見れたのにー……」

「その夢、また絵に描くの?」有馬が訊ねると、日下部は急に周囲を気にし始める。

「え、描けたら描きたいけど……」

 絵に描く、というのは日下部の趣味及び特技の話だ。日下部には漫画を描くというスキルがあって、自分が見た印象的な夢を物語にしてさらりと描いてしまうのだが、彼女はなぜかそれを長いことひた隠しにしている。有馬からすると、せっかくの自分の特技や才能をそんなにも必死に隠す日下部の心理がよくわからないのだが、クラスの誰も――おそらく有馬以外は誰一人としてこのことを知らない。

「どうかなぁ……描いたら、有馬、また見てくれる?」

「いいよ。でも、ちゃんと勉強はしてね」

 有馬が頷くと日下部はとても嬉しそうに笑った。彼女は本当に漫画を描いているのが好きなのだろう。この話題の時、日下部は有馬の知る中で一番良い顔をする。あくまで有馬の想像にすぎないが、これを見ていると日下部はたぶん言いたいのだろうと思う。自分は漫画を描くのが好きで、本当は誰かに自分の作品を見てもらいたいのだということを。

 それなら公表してしまえば良いのに。これまでにいくつも彼女の作品を見せてもらったが、他人に見せて恥ずかしいものとは到底思えないし、コソコソと隠しているなんて日下部らしくない。本人からは固く口止めをされているため有馬は黙っていることにしているが、彼女が新しい作品を見せてくれる度にそこだけがもどかしくて仕方がない。

 校庭を縦断し、ちょうど正門を出たところで日下部の携帯電話がポケットの中で震えた。ディスプレイにはお母さんからの着信とある。校内では携帯電話の使用は禁止という規則になっているが、もう既に一歩外に出ているから関係ない。まるでどこかから監視されているかのような素晴らしいタイミングに、有馬はさすが日下部の母君だと感心した。

「何だろ。やだなー……」

「早く出ないと切れる」

「えー、こういうの絶対いい電話じゃないよ?」日下部はそんなことを言いながら渋っていたが、結局は鳴り続ける電話に観念したのかようやく呼び出しに応じた。「もしもーし」

「――、あ、めーちゃん? お母さんだけど」電話から漏れてくるのは相変わらずテンションの高い日下部の母君の声だ。

「うん、知ってる」

「――、学校終わった? 片栗粉買ってきて? カタクリ、カタクリ♪」

「はい、本日の営業は終了いたしました。ちゃんちゃ〜んちゃちゃん、ちゃんちゃ〜ちゃちゃ――」日下部の下手くそなこの歌は店が終わる時に流れるやつだ。

「――、あーん、終わらないでよぅ! カタクリがないと唐揚げ作れないじゃないの」

「なぬ⁈ 唐揚げ⁈」日下部の目の色が変わる。

「――、そうよーん。今日のご飯は唐揚げ唐揚げ♪」

「マジか。行く行く。ソッコー買って帰るわ」

「――、あ、アリマちゃん、そこにいるんでしょ? 今日はうちに帰ってらっしゃいって伝えて」

「へい」

「――、よろしくねーん」

 電話を切った日下部の目はキラキラと輝いている。おそらく娘を上手く丸め込むことに成功した電話の向こうの母君も今頃同じ目をしているだろう。

「唐揚げだ!」

「良かったね」有馬は淡々と言う。日下部を買収するのに、唐揚げは最も効果的な餌であると学んだ。

「やったー! 唐揚げ唐揚げ! あ、有馬、あのね、うちのおかんが――」

「遠慮するよ」

「え、聞こえてた?」

 普通の人間なら聞こえていなかっただろうが、有馬は違う。が、仮に聞こえていなかったとしても日下部の母君が言っていたであろう台詞は予測できる。

「「今日はうちに帰ってらっしゃい」でしょ?」

「さっすが有馬! わかってんじゃん」

 だって、お馴染みの会話だもの。

「でも、遠慮する」

「えー、なんでよ。うちで一緒に唐揚げ食べようよー」いつものことだが左腕に日下部が纏わりついていて重い。

「いいよ、日下部の食べる唐揚げが減ってしまうから」

「有馬なら許す! だから一緒に帰ろ?」

「やだ」

「ねぇ、お願い。来てくれないとあたしがおかんに殺される。あたしが唐揚げを独り占めしたいから連れてこなかったんだと思われる」

「それでもいいよ」

「良くないでしょ」

「じゃあ気の毒だから片栗粉は一緒に買いに行ってあげるけど、夕飯はいらない」

「えっ、行ってくれるの⁈」

「だって……」有馬は昼休みのやり取りをよく憶えている。「君、財布に三十二円しか入ってないこと忘れてるでしょ」

 三秒遅れて、日下部はようやく何かに気付いたのか、泣きそうな顔になった。




 有馬の両親は多忙で日頃から各地を飛び回っているため、有馬は一人暮らしをしているという設定になっている。だが、これも今までの経験上なかったことであるが、どうも中学生の女の子が一人暮らしをしているというのは周りから見るとあまり好ましい状況とは言えないらしい。そういうわけで、今日も結局有馬はスーパーから出たところで日下部に攫われ――正確には日下部の母君の強引な誘いを断り切れず、学校帰りにそのまま日下部家の夕食に同席することとなった。

 日下部の母君は、外見こそさほど似ていないが、もろに日下部を大人にしたような性格をしている。ただ彼女の手料理はどれも一級品で、そこはいつも調理実習で得体の知れない物質を作り出している日下部とは大違いである。基本的に有馬は人間ほど発達した味覚を持っていないため、薬品類以外なら不味くても一通り食すことができるけれど、日下部の作り出すそれが異常物質であることは判断できるし、日下部の母君が作る夕食が美味しいこともわかる。

「うまー! やっぱ苦労して作った唐揚げは違うね!」

 苦労、というのはおそらく帰り道にあるスーパーに寄って一二八円の片栗粉を入手したことだ。たったそれだけの行為で食べ物の味が変わるなんて、人間は随分と便利な舌を持っているのだな、と有馬は思う。

「あんたねぇ、そんなに鶏ばっかり食べてると、そのうち羽根が生えるわよ?」

「心配ないよ。それならとっくに生えてるはずだから」

「ごめんね。アリマちゃんの分は別にちゃんと確保してあるから安心してね」

 日下部の母君は何でも『ちゃん』を付けたいようで、日下部が有馬を『アリマ』と呼ぶため、初期の頃から『アリマちゃん』と呼ばれている。

「大丈夫です。慣れています」

 時々こうして日下部の家に顔を出すと、母君はとても歓迎してくれる。血の繋がった娘でもないのに、彼女は有馬を娘と同じように扱う。そのおかげでこの三年間、学習できた習慣は多かったから日下部家の面々には感謝している。それにごく個人的なことだが、この家に座っていると今はもう遠い過去になってしまった故郷のことを、親のことを思い出すから。

「アリマちゃんはもうどこの学校にするか決めてるの?」

 日下部の隣で唐揚げを突いていると、それを見ていた母君が訊ねてきた。最近、こんな質問を受けることがしばしばある。特に中学生生活が三年目に入ってからだ。有馬たちは『受験生』と呼ばれるようになり、様々な人から己の将来のヴィジョンを訊ねられる。どうも高校というワンランク上の教育機関に進学するには学力試験を受けなければならず、どこの高校の試験を受けて合格できるかというのが彼らの人生においてはかなり重要な意味を持っているらしいのだ。

「日下部と同じところでいいです」

 有馬は答える。本当は有馬には必要のない質問であることはわかっている。周りが高校に進学する時、有馬栗珠はこの世界に存在しない。しかしいつだったか、学校で担任の先生と話をした時に同じような質問をされて、「高校には行きませんので」と正直に伝えたところ大騒ぎになってしまって、それ以来面倒なのでこう答えるようにしているのだ。

「えぇ?」母君は怪訝な顔をする。「アリマちゃんがそう言ってくれるの嬉しいけど、こんな馬鹿な子と同じじゃ勿体ないじゃない?」

「ちょっとぉ、それフツー親が言う?」日下部が横から異議を申し立てるが、母君は簡単に瞬殺してしまう。

「だってホントのことじゃない。アリマちゃんはあんたと違って勉強できるんだから。ねぇ?」

 母君に顔を向けられ、そうですね、と迷わず有馬は相槌を打った。学力的に見て有馬が日下部よりずっと上であることはどう頑張ってもフォローできない事実だ。

 隣を見やると唐揚げを詰め込まれた日下部の頬袋が丸く膨らんで、もともと丸い輪郭の顔が楕円形になっている。その顔を見ながら、有馬は付け加えた。

「そう言われることが多いですけど、いいんです」

 私には、意味がないので。

 省略したそれが何となく寂しいと感じてしまったことに、少し経ってから気付く。可笑しくなって、笑い出しそうになるのを我慢しようと唐揚げを口の中に突っ込んだ。

「有馬はやっぱりいい奴だよね」

 咥内いっぱいの唐揚げを綺麗に飲み込んだ後で、日下部が言った。夕食が美味しいから笑っているのか、他に理由があるのか、有馬にはよくわからない。

「唐揚げ、もっと食べる?」

 そう訊ねた日下部の母君も微笑んでいたけれど、表情がほんの少し違った。有馬はそれを不思議に思いながらも、はい、と返事をした。ちなみにずっと唐揚げ呼ばわりされているこれが本当は竜田揚げであることに、有馬は気付いていないわけではない。

 夕食の後、母君の片付けを手伝ってから、日下部に課せられている特別な宿題を少し見てやった。つい先日終わったばかりの試験の結果が危険領域だった人専用の課題だ。もちろん有馬は対象外だが、日下部はほとんど毎回命中していて、その度に有馬が家庭教師の真似事をしてやっている。

 日下部は満遍なく勉強というものが苦手なのだが、特に数学という科目については壊滅的だ。今までは有馬がこうして教えてやることで何とか切り抜けてきたが、これから先高校に通うようになった時に果たして大丈夫なのだろうかと有馬は不安になることがある。というか、そもそも高校に無事進学できるのかどうかも大きな問題である。

「高校行けなかったらどうしようかね?」よく日下部はこんなことを訊く。決まって数学で躓いている時だ。

「義務教育ではないよ」

「ないけど……おかんは泣くかもね」

「それなら頑張って行かないと」

 日下部は頷く代わりに大きな溜息を吐いた。

 馬鹿でおちゃらけてはいるものの、日下部は根本的には真面目な人間なのだと有馬は査定している。ただ例の特技のことと同じで彼女はそれを隠したがる。馬鹿で、明るく元気で煩くて、どんな時でも笑っている。日常にはそういう日下部明しかいない。

 有馬栗珠みたいだ。皆が知っている姿と本当の姿が、違う。

 ――君はいいんだよ、日下部。君は宇宙人じゃない。

 私とは違うんだから。

 二十時を回った頃、日下部の母君が部屋にやってきて帰宅を促した。母君はいつも夕飯のおかずを透明の箱に入れて持たせてくれる。今日も紙袋を渡され、見てみると先ほど食べた唐揚げが詰められていた。いつも一度は断るのに、必ず押し切られてしまう。今日も結果は同じだった。

 帰り支度を済ませて玄関のところで靴を履いていると、廊下の向こうから日下部の足音が近づいてきた。

「途中まで送るよ」

 日下部はジャケットを羽織っていて、一緒に外へ行くつもりの様子だ。

「一人で平気」

「でも夜だし危ないよ? 有馬は可愛いんだから、襲われたら困る」

「その心配はないよ」日下部が知らないだけで、人間の一人や二人が襲ってきたってそれこそ可愛いもんなのだから。「一人で帰れる」

「ホント?」

「うん。今日はありがとう」

「あたしこそ。宿題手伝ってもらっちゃったし」

「残りはちゃんとやって出すんだよ」

「わかった。あ、そう――」日下部は先ほどから握りしめていた右の拳を開く。「はい、これ、ありがと」

 百円玉が二枚だった。おそらく母君から支給してもらったのだろう。有馬は差し出されたそれを一瞥しただけで、受け取ろうとはしない。

「いらない」最初から返してもらうつもりなんてなかった。

「なんで?」

「今日は美味しい夕飯をご馳走になったから、その分。お土産も貰っちゃったし」

「そんなの気にしなくていいよ。あたしのカテキョ代もあるし」

「それは、まぁ、ボランティアだから」

「そう? でもこっちの百円は片栗粉代だからちゃんと貰ってよ」

「いらない」

「夕飯はホント気にしなくていいんだよ? おかんも有馬が来ると喜ぶしさ。ていうか、無理矢理連れて来てるのはこっちだし」

「ううん。ありがとう。でもとりあえずそれはいいよ。またジュースでも買えば? それがあったら二本買える」

 日下部はしばらくキョトンとしていたが、やがて「じゃあそうする」と言って手を引っ込めた。

 ドアを開けると、いつの間にか外は真っ暗になっていた。玄関灯のオレンジ色の光がわずかな範囲を照らしている。空気がますます冷たくなって、口から溢れる白い靄は長らく漂い、ひっそりと闇に消えていく。

「有馬、また明日ね」日下部が片手でドアを抑えながら言った。

「明日は土曜日でしょ」

「そうだった。また月曜ね」

「うん。早く閉めな?」

 柔らかい光の下を抜けて、真っ黒な道路に出る。磨り減った革靴の踏み締める大地は生を感じ得ない。一度だけ振り返ると、まだ日下部は玄関のドアを開けたまま見送りをしていた。やはり笑顔で有馬に手を振ってくる。有馬は小さく右手を振り返して、慣れ親しんだ夜闇へと飛び込んだ。




 町のほぼ真ん中を横断する大きな河に沿って東へ向かうと駅があって、その周辺は人通りの多い賑やかな地区となっている。最近駅前の再開発に伴って続々と高層マンションや商業施設が建てられ、すっかり現代風の街並みに変わってしまったせいだ。一方、その川向はというと変わらず閑静な住宅街が広がっている。川から少し離れたやや海抜の高い一角に古くも新しくもないマンションが建っていて、有馬はその最上階の一室を根城にしている。

 この場所を選んだのは、一応町全体を見渡すことができて仕事上好都合だからである――というのは建前であって本音は少し違っている。率直に、有馬はこの世界の夜が好きなのだ。頭上にも足下にも星屑が散らばっているような、綺麗な夜がいつだって見られるから――それがこの場所を選んだ理由の大部分だった。

 家に着いて、有馬は中学生の服を脱ぎ捨てた後でベランダに出た。今日は空気が透き通っていると感じた。隣の街区のシンボルマークである一際背の高い電波塔が、遥か彼方にはっきりと見えたからだ。あれは確か一年ほど前にこの景色の仲間入りを果たしたばかりの新参者なのだが、ここから優に五〇キロは離れているはずのその青白いネオンはかなり目立つ。

 空には半分だけの白い月が浮かんでいて、夜だというのに相当に明るい。有馬がこの部屋にいられる時間なんてほとんどないのが現実だが、それでもこうして時々ベランダに出てぼうっと眺めていられるのだから幸せなものだと有馬は思う。最近では、あと何回ここからこの景色を見られるだろうかと考えては、無意識に記憶に焼き付けるようになった。それも、これまでにはなかった感情によるものだ。

 ここから左側、西の方角に緑の覆い茂る台地が見える。市の公園として地元住民もよく利用する何の変哲もないあの頂上付近に突然ぽっかりと穴が開いたのは昨晩のことだ。街が眠りに就き、日付が変わって朝を待つ頃、満月の輝く快晴の夜にも関わらず、突如として雷鳴のような轟音と強烈な閃光が辺りを包んだ。ちょうど有馬はワトソンと共に境界侵犯を追跡中で、一撃をお見舞いして星屑にしてやった次の瞬間にはもう巨大な穴が開いていた。すぐに現場へ急行したが、あの激しい音と光のせいで寝静まっていた街が一気に目覚めてしまい、公園も封鎖されて警察が介入していることもあって未だに十分な調査はできていない。

 しばらくして、その場からワトソンに連絡を入れた。ここから死角になってしまう範囲をワトソンがだいたいカバーしているため、夜更けはこうして交信するのが日課となっている。もっとも、問題が発生していればそれより早く信号が送られてくるはずなので、これは単なる互いの近況報告会のようなものだ。

「――、こちらAA363G、傍受しました」

 間もなくして聞こえてきたワトソンの声は落ち着いている。『AA363G』は彼が交信の時に使っている個体識別コードの一部で、当然それは有馬にも振られているのだが、有馬は面倒なので日常的にはほとんど使っていない。

「私です」

「――、お帰りなさい。どうでしたか? 日下部さんの家は」

 彼が厭味の気持ちを込めて訊いているのは百も承知だった。しかし彼の感覚こそが正常であり模範であって、自分が外れた行動を取っていることは有馬も自覚しているため、それは受け入れるしかない。後ろめたい気持ちも、開き直ってしまいたい気持ちも、すべて自分のものであることは間違いないから複雑だ。

「いつも通りだ。そっちは、何か変化はあった?」

「――、いえ、今のところ特には」

「そう」

 ワトソンは今でこそ高校生だが、本来は有馬より僅かに経験が浅い。だが有馬は彼を相方として申し分ないほど優秀だと評価している。もう随分と長く一緒にこの世界を回っているが、このチームの防御率を一〇〇%に保ち、アルカの上層部からも太鼓判を押されているのは間違いなく彼がいるからで、ワトソンだったら自分の背中を任せても安心していられる。

「――、昨晩のことについてですが、境界線を越えた三体のほうは単なる偵察目的だと考えるのが妥当じゃないですか? 穴との関係はないかと」

「だろうな」と頷きつつも、真相はわからない。聞き出すより先に粉砕して消滅させてしまったのは有馬だ。

 公には『地盤陥没』と発表があった。地下の砂層が崩れて地表面が崩落したのだそうだが、おそらくそれは間に合わせのための作り話で本当のところは原因不明だろうと有馬は踏んでいる。いくらこの世界が外星人について無知であっても、単なる陥没事故であるか否かを判断するくらいの技術や知識はあるし、今回の件がそれに当てはまらないということもとっくにわかっているはずだ。巷では隕石が落ちてきたのだという噂が飛び交い、学校内でもその話で盛り上がる生徒を至るところで見かけた。外星人という存在を知らないこの世界においては、それが限界だろう。

 だから、我々がいる。

「――、まったくここの人間は平和ですよ……」ワトソンの溜息が聞こえる。「――、あの穴の出現は隕石の落下が原因だと思っているんですから」

「そっちもか」

「――、てことは、そっちも?」

「まぁ仕方がないよ」

 しかし、疑問は残る。あの巨大な穴が開いた付近では生体反応および残渣は一切感知できなかった。仮に外星人の侵入があったならば必ずそれらがあるはずだが、有馬だけでなくワトソンも感知していない。

 あの穴を開けたのは外星人じゃない?

 それならば、原因は、何だ?

「今日、上層部とも話したよ。とりあえずいつでも応援は出してくれるらしい。手配はしているそうだよ」

「――、何でもないといいんですがね」

「……」

 正直、何でもなくないような気がしていた。思い過ごしならそれでいい。だが、だとしたら何故だろう? あの陥没事象が起きてから、遠い記憶の中で何かが疼いているような感覚が治らない。

 知っている、のだろうか? あれを昔、どこかで見たことがある――?

「――、とりあえずは静観ですか?」

 ワトソンの声が入ってきて、はたと我に返った。停止していた思考回路をぐるっと動かし、有馬は言葉を繋げる。

「……うん。様子を見よう。それしかない」

「――、了解」

「あと……――」少し考えて、有馬は定例報告時の上層部からの伝言を思い出す。「近々にデータが送られてくる。次の」

「――、あぁ、もうそんな時期ですか!」ワトソンの声色が若干明るくなったように感じた。「――、次はどこになるんでしょうね? 僕はもう少し大人しい職業がいいですよ」

「珍しいな。君がそんなことを言うなんて」

「――、もう疲れましたよ。学生なんてこりごりです。毎日毎日女の子に泣かれるし、精神的に良くない」

「なんだそれは。女の子を泣かすのはサイテーらしいぞ、ワトソン?」

「――、知りませんよ! ああぁ、本当に嫌です。お願いだから普通の人間になりたい……」

 普通の人間、ね……。

 そうだな。できるなら私も、そうなりたい。外星人なんて知らず、世界はここだけにしかないと信じて、平和に、静かに――。


 ――「アリマはやっぱりいい奴だよね」


 違うよ、日下部。

 有馬栗珠はいい奴なんかじゃないんだ。

 今この瞬間も君を騙して、殺戮を繰り返すことでしか存在できない。

 君が思っているようないい奴とは、かけ離れ過ぎてる。


「――、()()()()


 ワトソンが呼んでいる。彼がこの名前で呼ぶのはどんな時か、有馬は知っている。

「うん」

「――、……交戦することにリスクがあるのは、僕も承知しています」口調が重い。「――、でも、最近のあなたの行動には疑問に思う部分が多々ある。昨夜の判断だって、あなたらしくないと思います」

「そうかな?」

 そう。少し前のテイラーなら、あんな判断は下さない。

 最初から、殺しに行ったはずだ。

 迷いもせずに。

「――、僕らは『余所者』です。それももうすぐ消える……あなたともあろう人が、わかっていないわけじゃないでしょう?」

「さぁ?」

「――、あまり日下部さんと仲良くしないほうがいい。彼女のためにも――」

 有馬はそこで言葉を遮った。彼の言うことは正しい。わかっている。私自身が、誰よりも。

 宇宙人は所詮、宇宙人なんだから。

 ワトソンとの交信を切っても、有馬はしばらくベランダで夜を眺めていた。おそらく気温は一桁になるかならないか程度だろうが、間違いなく冷たい夜風が体感温度をそれよりぐっと下げている。寒かったけれど、部屋の中に入る気になれなかった。今宵はこれといって気になる反応も感知していないから、このまま何事もなく夜が明けてくれれば良いと思う。この世界は綺麗だ。それをこの手で穢したくない。

 日下部のため――確かにそうなのだ。日下部のためにも、有馬はさっさと彼女から離れたほうが良い。この世界に紛れる宇宙人が周囲の人間と親しくしない一番の理由は、人間と関わるのが面倒だからでも、いなくなる時に淋しいのが嫌だからでもない。自分が任期を満了してこの世界を去った後、残された人間たちの記憶の改竄が弊害なくスムーズに行われるようにするためだ。

 メカニズムは解明されていない。ただ、本来この世界に存在しない者である有馬栗珠のことは、テイラーが世界の境界線を越えて外に出た時点で消滅し、有馬栗珠を知る人間たちの記憶はすべて『有馬栗珠が存在しなかった記憶』に書き換えられてしまう。これはあくまで自然現象であって、誰かが意図的に手を加えて操作しているわけではない。これについての現段階での通説は、決して交わらないはずの世界同士が交わるという異常な状態に陥ってもなおその均衡を保つためにはそれが必要であると森羅万象はわかっていて、だから勝手に正常に戻そうとする、という何とも曖昧なものでしかない。

 どんなに望んでも、改竄(かいざん)を食い止める方法はまだ誰にも発見されていない。この世界で、例えば嵐が来たり、地が揺れたりするのを止められないのと同じなのだ。しかし、もし自分が誰かの記憶の中で重要な役割を担ってしまった場合、当然その記憶が改竄される際に辻褄が合わなくなり、完了するまでに時間を要するし、酷ければ大きな混乱やストレス、記憶障害といった負荷を与えることになってしまう。

 親しくしないのではない。そのために、親しく()()()()()()()()のだ。

 部屋のほうに向き直り、手摺に両肘をついた。真っ暗な部屋と外界を仕切るガラス戸には、うっすらと手摺に凭れかかる有馬栗珠の体が映っている。全部、偽物だ。この体も、この声も、名前も、見慣れた有馬栗珠のすべてが。

 知らぬ間に溜息が出た。明日は学校がない。それだけで何となくつまらないと感じてしまう。いつからこうなった? まったく知らなかった。自分が本当はこんなにも弱かったなんて。


 ――ねぇ、日下部。

 もし私が「宇宙人なの」って言ったら、日下部はどうする?


 有馬は真っ暗な部屋に戻ると、勢いよくガラス戸を閉め、カーテンで覆い隠した。


 今が今のまま、ずっと続いていられたらいいのに――。


 やめろ。違う。私の名前は、有馬栗珠じゃない。

 私は、『余所者』。

 私は、私の名前は、アリマグリッド・クリステル・テイラーなのだから。


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