第1章 望みは、ひとつ 4
西日の差しこむ部屋で、クリーム色のドレスを着た娘が、赤表紙の神話集を読んでいた。
繊細な横顔や夕日を受けて鮮やかに輝く金髪は、美しかったが、表情は、どことなく、翳が差していた。
ちょうど聖天暦10年のくだりにさしかかった時、ドアをノックする音が聞こえた。
「どうぞ。お入りください。」
シーナが、鈴の鳴るような声を掛けると、おさげ髪の少女が、ひょっこり顔を覗かせた。
「姉様、お勉強中?」
「大丈夫よ。入っていらっしゃい。」
笑いかけると、軽い足取りで部屋の中に入ってきたミーシャは、シーナの隣に腰かけた。
「学校はお休みだったから、ヒューネル山脈を見に行ってきたの。春のヒューネルの女神達は、空と溶けあうほど青くて、雪が残っている部分だけが、冠みたいに輝いていたわ。シシューロの川で、とても綺麗な石を見つけたから、姉様にあげようと思って、拾ってきたの。受け取ってくださる?」
ミーシャの手には、青味がかった小さな石が乗っていた。
「まあ、なんて美しいのかしら。」
愛おしそうに見つめながら、人差し指の腹でそっと撫でるシーナの横顔をミーシャは、満足げに見つめた。
「これを見た時、姉様の瞳を思い出したの。もちろん、姉様の瞳の方が、ずっと美しいけれど。」
「ありがとう。大切にするわ。」
シーナは、チェストから取り出した円形のレース編みの上に青い石をそっと乗せた。
「シシューロの川は、雪解けで水かさを増していたの。川の神アレッシオは、もう目覚めたかしら。」
「今ちょうど、川の神アレッシオと氷の女神アダリヤの話を読んでいたところなの。なかなか覚えられなくて。」
シーナは、困ったように微笑んだ。
「姉様なら、すぐに覚えられるわ。そうだわ。姉様は、春のシシューロ川と冬のシシューロ川のどちらが好き?」
「そうね。私は、冬が好きだわ。」
「どんなところが好き?」
「真冬の川の底まで凍ってしまったシシューロがいいわ。純白と静寂の世界で時折、氷がひび割れる音が聞こえるのは、すばらしいわ。」
「空の神ザイオンの子供達が、幾千の雪となって、大地に舞い降りました。アダリヤは、純白のドレスを大地に広げ、音もなく歩きました。何もかもが凍りつき、静寂だけがアダリヤを包んでいました。時折、氷のドレスの衣擦れの音だけが、心地よく響きました。」
ミーシャは、神話集の一節を歌うように語った。
「そんな彼女だけの世界は、冬の間だけ。春の訪れと共にアレッシオが目を覚まし、二人は、いがみあうのね。あら、覚えられそう。ありがとう、ミーシャ。」
「想像してみると、あっという間に覚えられるの。私、他のどんな本よりも神話が大好き。まるで、ムトスの雄大な自然が目の前に広がっているような気がしてくるの。」
幸せそうに笑うミーシャを見て、シーナは、少し寂しそうな表情になった。
「時々、あなたの方が、巫女に向いていると思うわ。神話をほとんど覚えているし、神々を心から愛しているでしょう。」
「そんなことない。私は、ただ神話が大好きなの。美しい世界を愛しているだけ。神々を心から尊敬している姉様こそ、巫女になるべき人だと思うわ。」
きっぱりと言い切ると、シーナは、頼りなげに微笑んだ。
「それも分からなくなってきてしまったのよ。」
驚いて顔を上げると、泣きそうな顔をしている姉が目に入った。
いつも穏やかに微笑んでいる姉が、泣いている姿を初めて見た。
ふと、はしばみ色の瞳の青年が、思い浮かんだ。
そして、あの晩のことも。
「まさか、姉様。ユリウス・・・」
ミーシャが言い終わる前に彼女の口元には、シーナの白い手を押し当てられていた。
「何も言わないで。お願い。」
何も言えるわけない。
ミーシャは、白い頬を滑り落ちる真珠の涙をぼんやりと見つめていた。
ヒューネル山脈
王都アースに一番近い山々・連なる山々は、神話の中でヒューネルの女神達に例えられる
シシューロ川
ムトスを南北の流れる大河の支流
アレッシオ
川の神・冬眠する
アダリヤ
氷の女神・冬の大地の支配者