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「お前が、むく?」
開いた扉の向こうから、日の光が強くさした。室内に慣れた目に、輝きが降り注ぐ。影になった少年の姿に、むくは手をかざして目を細めた。
「……あなたが……『春人』様?」
戸惑いの中、やがて光に慣れると、面ごしに彼と向き合う。剛鬼から聞き知っていた通り、むくと同じ年頃の小柄な少年だった。よく日に焼けた肌。すり傷だらけの膝。柔らかそうな黒髪は、さらさらと額に流れる。しかし――
「なんで、角がないの?」
むくの言葉は、鋭い刃となって少年に突き刺さった。青ざめた子供は、大きく一歩下がる。むくは少年をまっすぐ見つめた。その眼力におされ、彼はさらに二歩後ろに下がると、やがて耐えきれず踵をかえした。そして彼は逃げるように、涙を残してその場を後にした。
「……あっらー……はるちゃん、また逃げた。ほんと、泣き虫なんだから」
その背中を見送り、呆れたように笑う少年に、むくは問いかけた。
「……剛鬼様。あの子。『何』?」
「……あら、何度も説明したでしょ。アタシの弟よ」
「角が、ないのに?」
その言葉に、剛鬼の顔から笑みが消えた。
「そう。角がなくても、アタシの弟」
問いかける少女に向かって、彼は静かに語った。
「……深山の鬼はね、一子相伝なの。親からたった一人の子供へ引き継がれて、二番目に生まれた子供は、生まれてすぐに角を切り落とされる。鬼の力は強大だから、いらぬ諍いを生まないために……ね。だからあの子は、『鬼』ではない。『春人』なのよ。ねえ、むくちゃん……」
何と、睨みつけた先で、剛鬼は困ったように笑う。
「……アンタに、あの子の友達になってほしいの」
「……それは」
記憶が、陽炎のように揺れる。
濃い緋色。深山の奥で、手を伸ばしてくれた少年。笑顔とともに差し出されたぬくもり。
彼だ。確信とともに、胸の奥に迫る感情を見つけて、むくはぐっと唇を噛んだ。あふれるものに耐え、彼女は淡々と言った。
「それは春人様次第だと、思います」
*
深山の向こうには、人ならざるものの世界がある。
かつて祖母が口にした言葉を思い出していた。むくは、鬼婆の小屋から出て山を眺める。生まれ故郷の山に似て、異なる空間。山が連綿と紫の雲をはいて、その身を覆い尽くそうとしている。
「……あやかしの里」
「きれいだねえ」
「おばあさん」
山姥が隣に腰を下ろした。恐怖はもうない。彼女がにいと笑うと、目の周りの皺がかき寄せられて深くなった。
「……大分元気になったね。肉もついた」
「剛鬼様は……いつ」
「ああ。もしかして、はじめに言われたことを期待しているなら無駄よ。あの方は、一度身内にいれた人間は食べないから」
彼女の言葉に、落胆した自分がいた。しかし、そんなむくに、彼女は重ねて言った。
「……もしあんたがここにとどまりたいなら、他の方法もあるよ」
「……他の、方法?」
「妖になるんだ」
むくは目を開いた。
「人が、あやかしになる?」
「人から妖になるものは、少なくはないよ」
「……」
むくは、手をかざす。まだ成長過程の幼い手のひらだった。そのときまで、彼女は自分が人ではない何かになることなど、考えたこともなかった。戸惑いを胸にむくは、立ち上がった。
「……どこに行くんだい」
「少し……ひとりで考えたくて」
「面は、絶対に外したらだめよ」
老婆の言葉に会釈して、むくは何ともなしに、深山へと続く道に足を向けた。まだまだおぼつかない足取りだったが、しばらく進むと、前方に見知った姿を見つけて、むくは咄嗟に声をかけた。
「春人様」
名を呼ぶと、こちらに気づいた春人が振り向いた。しかし、呼び声に彼はむすと唇を引き結んだまま答えない。それどころか、背を向けて山へと入る道を上って行く。むくはふらつく足を律して、そのあとを追いかけた。
「くんなよっ! ついてくんな、顔無し!」
少年が心底嫌そうな顔をしたが、むくは黙ったまま彼の後についていった。
「……春人様、剛鬼様と喧嘩したんですか」
「してない、なんだよ。それ」
むくは、彼の顔を指さした。彼の右頬は、殴られたように腫れ上がり、その右目は青く痣を作って変色していた。
「……ああ。違う。兄様はこんなことしない」
「じゃあ、誰が」
「……狭間子は、気持ち悪いんだって、あいつらが」
「はざまご?」
「鬼でも、人でもないもの。……ああ、もううるさいな。山に行くんだよ。ついてくんな」
「どうして、山に行くんですか」
「パトロールだよ、俺は深山の子供だからっ」
ぱとろーる? 繰り返すように問いかけると、呆れたように春人は言った。
「……人間を見つけるんだよ」
「……人間? どうして」
「どうしてどうしてって……食べるためだよ。当たり前だろ」
後ろについていたむくの足が止まったが、春人は気づかず言葉を続けた。その声に、熱がこもる。
「父上も、兄様もきっと喜んでくれる。俺を殴るやつらも、態度を変えるかも。だけどまだ、ちゃんとしたの、見つけられないんだ……前にようやく見つけたとおもったら、がりがりに痩せたチビでさ。びいびい泣いてたから、人里にかえしてやった」
「……」
「大物見つけたらさ、お前にも分けてやるよ。人間は、旨いらしいから」
震える手を握ってくれたひと。心細く泣いていたむくに手を差し伸べ、村へと送ってくれた少年。そして、その後に待ち受けていたのは――
気づいたときには、彼の背に手を乗せて、強く、突き飛ばしていた。
「っ⁈」
予想外の力に、彼は大きく体勢を崩した。驚愕のまま咄嗟に振り向こうとしたのが悪かった。彼はそのまま足を挫いて、地に尻をつける。中途半端な体勢で振り向こうとしたため、彼は足を捻り、顔を大きく歪ませた。突然の痛みと、向けられた敵意。それに愕然として少女を見上げると、燃えるような瞳が睨んでいた。
「……おまえさえ、いなければ」
地を這うような声だった。戦慄する少年を置き去りに、むくは踵を返す。害意を残して立ち去る少女の背に、なけなしの罵倒が投げられた。
「お前のどこが、『無垢』なんだ!」
後ろから春人の声が聞こえたが無視した。
無垢、無垢! 何も、何一つ知らないくせに。なんと、愚かしい、雑言だろう。煮え立つ怒りが、憤怒が、少女の内側で燃えていた。老婆の家に帰る気にはなれず、速足に山を登り続ける。このまま、どこか。行き場のない怒りと悲しみに足を速めた。急くように進んだ先、目の前の枝木を打ち払って、足を踏み出すと、途端に少女の体が均衡を失った。崖だ。繁った草木で気付かなかったが、すぐそこは、隔たった崖になっていた。しまったと思ったときには遅かった。少女は足を踏み外し、そのまま崖下へと――
「――っ」
その腕を、強く。引く手があった。




