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「お前が、むく?」

 開いた扉の向こうから、日の光が強くさした。室内に慣れた目に、輝きが降り注ぐ。影になった少年の姿に、むくは手をかざして目を細めた。

「……あなたが……『春人(はると)』様?」

 戸惑いの中、やがて光に慣れると、面ごしに彼と向き合う。剛鬼から聞き知っていた通り、むくと同じ年頃の小柄な少年だった。よく日に焼けた肌。すり傷だらけの膝。柔らかそうな黒髪は、さらさらと額に流れる。しかし――

「なんで、角がないの?」

 むくの言葉は、鋭い刃となって少年に突き刺さった。青ざめた子供は、大きく一歩下がる。むくは少年をまっすぐ見つめた。その眼力におされ、彼はさらに二歩後ろに下がると、やがて耐えきれず踵をかえした。そして彼は逃げるように、涙を残してその場を後にした。

「……あっらー……はるちゃん、また逃げた。ほんと、泣き虫なんだから」

 その背中を見送り、呆れたように笑う少年に、むくは問いかけた。

「……剛鬼様。あの子。『何』?」

「……あら、何度も説明したでしょ。アタシの弟よ」

「角が、ないのに?」

 その言葉に、剛鬼の顔から笑みが消えた。

「そう。角がなくても、アタシの弟」

 問いかける少女に向かって、彼は静かに語った。

「……深山の鬼はね、一子相伝なの。親からたった一人の子供へ引き継がれて、二番目に生まれた子供は、生まれてすぐに角を切り落とされる。鬼の力は強大だから、いらぬ諍いを生まないために……ね。だからあの子は、『鬼』ではない。『春人』なのよ。ねえ、むくちゃん……」

 何と、睨みつけた先で、剛鬼は困ったように笑う。

「……アンタに、あの子の友達になってほしいの」

「……それは」

 記憶が、陽炎のように揺れる。

 濃い緋色。深山の奥で、手を伸ばしてくれた少年。笑顔とともに差し出されたぬくもり。

 彼だ。確信とともに、胸の奥に迫る感情を見つけて、むくはぐっと唇を噛んだ。あふれるものに耐え、彼女は淡々と言った。

「それは春人様次第だと、思います」

 深山の向こうには、人ならざるものの世界がある。

 かつて祖母が口にした言葉を思い出していた。むくは、鬼婆の小屋から出て山を眺める。生まれ故郷の山に似て、異なる空間。山が連綿と紫の雲をはいて、その身を覆い尽くそうとしている。

「……あやかしの里」

「きれいだねえ」

「おばあさん」

 山姥が隣に腰を下ろした。恐怖はもうない。彼女がにいと笑うと、目の周りの皺がかき寄せられて深くなった。

「……大分元気になったね。肉もついた」

「剛鬼様は……いつ」

「ああ。もしかして、はじめに言われたことを期待しているなら無駄よ。あの方は、一度身内にいれた人間は食べないから」

 彼女の言葉に、落胆した自分がいた。しかし、そんなむくに、彼女は重ねて言った。

「……もしあんたがここにとどまりたいなら、他の方法もあるよ」

「……他の、方法?」

「妖になるんだ」

 むくは目を開いた。

「人が、あやかしになる?」

「人から妖になるものは、少なくはないよ」

「……」

 むくは、手をかざす。まだ成長過程の幼い手のひらだった。そのときまで、彼女は自分が人ではない何かになることなど、考えたこともなかった。戸惑いを胸にむくは、立ち上がった。

「……どこに行くんだい」

「少し……ひとりで考えたくて」

「面は、絶対に外したらだめよ」

 老婆の言葉に会釈して、むくは何ともなしに、深山へと続く道に足を向けた。まだまだおぼつかない足取りだったが、しばらく進むと、前方に見知った姿を見つけて、むくは咄嗟に声をかけた。

「春人様」

 名を呼ぶと、こちらに気づいた春人が振り向いた。しかし、呼び声に彼はむすと唇を引き結んだまま答えない。それどころか、背を向けて山へと入る道を上って行く。むくはふらつく足を律して、そのあとを追いかけた。

「くんなよっ! ついてくんな、顔無し!」

 少年が心底嫌そうな顔をしたが、むくは黙ったまま彼の後についていった。

「……春人様、剛鬼様と喧嘩したんですか」

「してない、なんだよ。それ」

 むくは、彼の顔を指さした。彼の右頬は、殴られたように腫れ上がり、その右目は青く痣を作って変色していた。

「……ああ。違う。兄様はこんなことしない」

「じゃあ、誰が」

「……狭間子は、気持ち悪いんだって、あいつらが」

「はざまご?」

「鬼でも、人でもないもの。……ああ、もううるさいな。山に行くんだよ。ついてくんな」

「どうして、山に行くんですか」

「パトロールだよ、俺は深山の子供だからっ」

 ぱとろーる? 繰り返すように問いかけると、呆れたように春人は言った。

「……人間を見つけるんだよ」

「……人間? どうして」

「どうしてどうしてって……食べるためだよ。当たり前だろ」

 後ろについていたむくの足が止まったが、春人は気づかず言葉を続けた。その声に、熱がこもる。

「父上も、兄様もきっと喜んでくれる。俺を殴るやつらも、態度を変えるかも。だけどまだ、ちゃんとしたの、見つけられないんだ……前にようやく見つけたとおもったら、がりがりに痩せたチビでさ。びいびい泣いてたから、人里にかえしてやった」

「……」

「大物見つけたらさ、お前にも分けてやるよ。人間は、旨いらしいから」


 震える手を握ってくれたひと。心細く泣いていたむくに手を差し伸べ、村へと送ってくれた少年。そして、その後に待ち受けていたのは――


 気づいたときには、彼の背に手を乗せて、強く、突き飛ばしていた。

「っ⁈」

 予想外の力に、彼は大きく体勢を崩した。驚愕のまま咄嗟に振り向こうとしたのが悪かった。彼はそのまま足を挫いて、地に尻をつける。中途半端な体勢で振り向こうとしたため、彼は足を捻り、顔を大きく歪ませた。突然の痛みと、向けられた敵意。それに愕然として少女を見上げると、燃えるような瞳が睨んでいた。

「……おまえさえ、いなければ」

 地を這うような声だった。戦慄する少年を置き去りに、むくは踵を返す。害意を残して立ち去る少女の背に、なけなしの罵倒が投げられた。

「お前のどこが、『無垢』なんだ!」

後ろから春人の声が聞こえたが無視した。

 無垢、無垢! 何も、何一つ知らないくせに。なんと、愚かしい、雑言だろう。煮え立つ怒りが、憤怒が、少女の内側で燃えていた。老婆の家に帰る気にはなれず、速足に山を登り続ける。このまま、どこか。行き場のない怒りと悲しみに足を速めた。急くように進んだ先、目の前の枝木を打ち払って、足を踏み出すと、途端に少女の体が均衡を失った。崖だ。繁った草木で気付かなかったが、すぐそこは、隔たった崖になっていた。しまったと思ったときには遅かった。少女は足を踏み外し、そのまま崖下へと――

「――っ」

 その腕を、強く。引く手があった。


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