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「あぶないよ」 

 驚き見開いた瞳に、一人の女が映りこむ。むくの手を掴んだのは、二十代半ばごろの、『人間』の女だった。どうしてこんなところに人間が。戸惑う少女に向かって女がもう一方の手を伸ばした。迫る女の手の平。咄嗟に身構えた少女の頭に、柔らかい手のひらが乗せられる。

「こわかった、ね」

 強張るむくの体を助け起こし、女はふわりと笑った。

「あさひっ! 急に駆け出すから、心配するじゃないっ! 一体、どうし……むくちゃん」

 草木を搔き分け、現れた姿は見覚えがあった。剛鬼。鬼の少年は目を見張ったあとすぐに、女性を見られたことに気付いて、ばつの悪そうな顔をした。

「剛鬼様、この人……」

「ごうき! ほめてー」

 女性は、剛鬼を見つけると、嬉しそうに両手をひろげて、彼に抱きついた。

「……あー……もう、最悪だわ。気をつけてたつもりなのに。見られるなんて」

 額を押さえて仰ぎ見る。やがて観念したのか、剛鬼は女の肩を抱き寄せた。

「あさひは、アタシの大切な人。人間よ」

 剛鬼に肩を抱かれ、人間の女は嬉しそうに笑った。その爛漫とした笑みと、剛鬼の告白に、むくは目を見開いて、ぽかんと口をあける。

「……女の人が好きなんですか?」

「ええそうよ、何? 何よ、その反応。そんなにショック? なあに、実はアタシに恋してくれてたの? やっだー、照れる」

「てれるー」

 あさひという女は、剛鬼のまねをして、頬に手を当てる。その光景が、場違いに微笑ましかった。

「…………女の人に、なりたいと思ってた」

 すると、剛鬼は噴き出した。腹を抱えて笑い倒し、やがてその波が過ぎると、彼は涙を浮かべて言った。

「面白いこと言うのねえ」

 薄く細めた目が、むくを見下ろして笑む。違うわよ、と彼は言った。

「アタシは自由になりたいの」

大きな手のひらが、むくの手足に触れた。繁った山間を無理に走り抜けたために、少女の手足にはたくさんの掻き傷があった。労わるような、やさしい手が肌を伝い、最後に頭の上へ収まる。

「……ねえ、むくちゃん。はるちゃんと、友達になれそう?」

 彼はむくの目を覗き込む。それは、彼女の怒りを見透かすような、透明な眼差しだった。

「あの子馬鹿だから、ひどいことを言うかもしれない。けれど、全部よかれと思ってやってるの。ごめんね。ゆるしてあげてね」

 そう言って、頭を撫でる手が不愉快だった。すると、あさひもまねをして、むくの頭を撫でる。不愉快が、二つに増えた。顔をあげると、あさひが邪気のない笑顔を振りまいて、むくの髪を掻きまわしていた。

「剛鬼様は、次の深山です、よね」

「ええ、父上が亡くなられたら、ね」

「でも、この人は人間です」

「知ってるわ」

「……どうして、彼女なんですか?」

 剣呑とした空気に気付かず、あさひはにこにこと笑い続けている。時に神は、選別して人を慈しむという。そうして神に愛された者は必要なものを奪われる。視覚・聴覚、人によって様々だが、彼女もまた神に愛されすぎた人間なのだろう。そんな人間と、鬼の当主の跡継ぎ。あまりに不釣合いな、組み合わせに思えた。

「……はるちゃんの、角の話。したよね」

「はい。角を削り取られたって」

「そう……アタシたちの母親はね、はじめから、子供は一人と決めていたの。母は、角のない鬼がどんな待遇を受けるか、知っていたから」

 待遇という言葉に、顔に痣を作った少年の顔が浮かぶ。

「だけど、アタシは、弟が欲しいと、泣いてせがんだ……」

 頭を抱えて、彼は顔を伏せる。そして、再び顔をあげたとき。彼はいつもと同じ笑顔を浮かべていた。優しく、すこし悲しげな笑みだった。

「……あさひは、アタシを赦してくれたのよ」

 あさひは無邪気に笑って、むくの頭を撫で続ける。いい子。いい子と、口にしては、頭を撫でるやわらかい女の手。目の奥が熱くなり、喉の奥から何かがこみ上げた。むくは唇を噛んでその衝動に耐え――剛鬼と向き合った。

「剛鬼様。実は、私は――」

 あさひと別れたあと、剛鬼とともに春人を迎えに行った。

 一人、山の入り口に倒れた少年。真っ赤に腫れ上がった足を見つめて、むくは彼に謝罪した。言葉とともに頭をさげると殴られた。痛かったが、正当な代償として受け取った。しかし、そんな春人の頭を、今度は剛鬼が殴りつけた。春人は顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしていた。よほど心細かったのか。彼は、兄の腹部に顔を押し付け号泣した。


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