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優しい時間は、あっという間に過ぎる。それからの日々は、ただただ眩しかった。あさひは会いに行けば無邪気に笑み、頭を撫でてくれた。
「むく」
「なに、あさひ」
むくの名前を口にして、嬉しそうにあさひは笑う。くすくすと口元に手を当てて、まるで稚い童女のように、彼女はわらう。
「むく、むく」
「うん。なに? あさひ」
彼女は、むくの名前を何度も呼んで、その頭を撫でた。まるで我が子をいたわるように、ふれる優しい女の手。その穢れなき無邪気さが、むくの心のささくれだった部分にふれる度に、胸の奥が引きつるように痛んだ。
もみくちゃにされた髪の毛を直していると、山をかき分けて、剛鬼が現れた。
「あ、むくちゃん! やっと見つけた。また、ここに来てたのね。はるちゃんが、探してたわよ」
「春人様……うるさいし、時々いじわるする」
「大丈夫、何かしたら、アンタんとこのおばさんに、また木に吊るしてもらうから」
「……」
「かまってほしいのよ。年の近いお友達ははじめてだから」
春人は相変わらず威張ったり、泣いたりと、表情豊かにくるくる回ってにぎやかだったが、最後には憎まれ口をたたきながらも、必ず、むくの側にいてくれた。
「剛鬼様は、いかないの?」
「アタシは……あさひに会いにきたのよ。ごめんね、夕ごはんまでには戻るから」
微笑む剛鬼は変わらず、むくの唇に匙を運んでいた。そして家に帰れば、いつも老婆が温かいご飯とともに出迎えてくれる。
「むく……あんた、また泥だらけにされて……あの小僧っこ。今度は簀巻きにするかい?」
変わらない日常。色づいた日々。村にいたときには考えられぬ今。まるで夢の中にいるようだと、むくはまどろみの継ぎはぎを探す。夢ならば、醒めろ。少女は願う。しかし願いは叶わぬまま。やがて終わりはやってくる。終わりの始まりは、あさひが消えたことだった。
*
とある早朝。門戸を叩く音に急かされ、家の扉を開くと、息を切らした剛鬼が飛び込んできた。必死な形相の剛鬼と目があって、むくは小さく息を飲んだ。
「…………の」
「剛鬼、様?」
「あさひが……あさひがっ、いなくなったの」
顔を手で覆い、悲鳴のような声をあげる。彼は珍しく混乱していた。
「どうしよう。一体どこに。どうしましょう……もし、他の奴らに見つかったらっ」
「剛鬼様」
手を伸ばすと、剛鬼がすがりついてその手を握る。彼の手を握り返し、むくは外を指さした。
「一緒に探してくれるの? ああ……ありがとう、ありがとう……むくちゃん」
しかし、その日。二人がどんなに探しても、彼女の姿はなく、やがて日も暮れる頃。諦めと疲労が場を覆う。探索を打ち切り戻った深山の屋敷――その日の夕餉に『あさひ』が出た。
*
「俺が、見つけてきたんです」
疲労困憊の二人を、出迎えたのは春人だった。彼は満面の笑みで、兄とむくを迎える。そして、彼は期待に目を輝かせて、兄を見上げた。
「一番いい部位は、明日の会合でふるまわれるらしいです。でも、少しだけ。はじめて俺が人間を捕まえたお祝いにだって、父様が……! ……? 食べないんですか? 兄様」
褒めてくれと、その目が言う。犬のように尻尾を振って、彼は兄に褒めてと笑いかける。それは、年の離れた可愛い弟。彼ははにかんで、兄に言う。
「俺、人間の肉ってはじめて食べたけど、美味しいですね。兄様」
だから、剛鬼は彼を褒めるため、その頭に手を置いた。できるだけ優しく、震える手のひらに力がこもらないように、平穏を保ち、弟の頭を撫でようと努めた。
「……兄様?」
しかし、感情は抑えられない。頭を撫でる手に、少しずつ力が籠る。髪がもみくちゃになり、爪が頭皮を抉る。春人が痛みに悲鳴をあげようとしたとき。剛鬼の手が、不自然に止まった。
「――っ」
彼の指先が、春人の頭部――削り取られた角の残滓に触れていた。
「…………兄様?」
「……ふ、ふふ。ごめんなさい……気分が、すぐれなくて。今日は、失礼するわ」
口元を押さえて、彼は踵を返す。しかし、その手を、春人が強く引きとどめた。少年は、すがりついて兄を見上げる。
「どうしてっ? 食べて……くれないんですか?」
「ごめんね」
なだめるように頭に触れる手を払って、春人は兄を睨み付けた。
「兄様は、ずるいです」
唇を戦慄かせ、少年はその目に涙を滲ませ、兄をなじる。
「兄様は、ずるい! 俺は、ずっとっ! ずっと我慢しているのに……っ! 俺は、鬼だったらって、ずっと願って」
「お願い! 黙って‼」
剛鬼の怒声が場に響いた。硬直する春人。落ちた沈黙。その先で、剛鬼は静かに言葉を繋いだ。
「……はるちゃん、大好きよ」
ふふと笑って、彼は目を細めて笑う。その表情とは裏腹に、彼の拳は握りすぎて血が滲んでいた。
「本当に、本当よ……はるちゃんが生まれた朝のこと、今でも覚えてる。あの日の思い、忘れられないのよ。あなたが生まれてくれて、嬉しかった。アタシ、あんなに幸福だったことないのよ」
彼は、年の離れた弟に顔を寄せる。
「だから」
彼が浮かべた、弱々しい笑み。
「だから、全部あげる」
それが、剛鬼の最後の笑みとなった。




