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翌日。裸だった木に、新たな芽吹きを見つけて、むくは春がすぐそこまで来ていることに、気付いた。ほころび始めた春を指して、彼女は隣の少年に伝えようと声をかけた。
「春人様」
「……」
落ち込んだ春人に気を使って、二人は深山の屋敷の室内にいた。昨夜の剛鬼の様子も気になったが、彼は朝から深山の会合に当主とともに出席して顔を合わせることはなかった。
「春人様……」
むくが外の景色を指さしたが、膝を抱えた少年はぐずぐずと鼻を鳴らし続けている。むくは着物の袖で、こぼれる涙を拭った。しかし、彼の涙は次から次に溢れおちた。この子は、いつも泣いている。泣く子供を見下ろして、少女は言った。
「……春人様、剛鬼様に謝りましょう」
「え?」
「剛鬼様は春人様に甘いから、きっと許してくれます。私も、一緒に謝ります。だから」
きっと彼は、剛鬼が何故声を荒らげたのか、その真意を欠片も理解していない。それでも。むくは春人の手を握る。かつて自分自身が、彼の『声』に契機を得たように。その声を、兄に届けなければならない。たとえその謝罪に真意がなくとも、そこに、兄への愛があるなら――しかし、むくの提案が実現することはなかった。手を取りあった子供たちを引き裂くように、襖戸を開け放ち、大人たちが血相を変えて押しかけてきた。
「⁈」
驚愕する春人。その前に立ちふさがったむくを押しのき、彼らは春人を取り囲んだ。唖然とする少年の腕をつかみ、引きずるように彼を連れ出す。咄嗟に春人の着物を掴んだ少女の体は蹴り飛ばされ、子供たちの僅かな抵抗は、即座にひねりつぶされた。連れ去られる春人に手を伸ばして、むくは意識を失った。
*
目を覚ますと、そこは鬼の屋敷ではなく山姥の小屋。目の前にいたのは、春人ではなく、老婆一人。錯乱するむくを宥めて、老婆は静かに語りだした。
あの日。剛鬼は、鬼の一族に牙をむいた。
彼は屋敷に集まった深山の血縁たちに刃を向け、その場を血に染めた。そして、その後、自らの首を刺し貫いて自害したという。
その場でただ一人生き残ったのは、剛鬼の父――現当主の深山のみ。しかし、一命をとりとめたものの、彼は下半身が不随となり、床から二度と起き上がれぬ身となってしまった。
「春人様は? 春人様は、どうなるの」
問いかけたむくに、老女が答えた。
「…………あの子は次の深山になるんだ」
春人。彼の道が分かたれた瞬間だった。
*
数日後。警護をかいくぐり深山の屋敷に忍び込むと、部屋の奥に春人が横たわっていた。
「……春人……様?」
鬼の角がない少年に、後天的に手術で角を埋め込んだ。激痛に苛まれ、彼の悲鳴は屋敷の外――老婆の家にまで届いた。横たわる少年。その頭に巻かれた包帯には、わずかに血がにじんで痛々しい。
「……春人様」
恐る恐る、もう一度声をかける。眠っているかと思ったが、包帯の隙間から彼の暗い瞳と目があった。それは、ふかい深淵の底。一切の光を寄せ付けぬ、闇にまみれた、昏い瞳だった。
「春人様」
「……俺は春人じゃない……俺は、春鬼だ。鬼になったから……俺は、もう」
少年が布団から身を起こそうとしたので、むくは慌てて近寄り手助けした。そのすぐ目の前に、移植された角がある。それは、自害した剛鬼の角だった。子供にはあまりに不釣合いな、長く大きい、大人の角だ。
「剛鬼様……は」
からからに乾いた喉から、かすれた問いが零れれば、鬼の角を手に入れた少年が、ひくりとその目をひきつらせた。
「……兄様は……」
『兄様は、ずるい』
少年は、兄の苦悩を知っていたはずだった。それでも、妬む心は止まらず、あの日弾けた心は、彼岸にたたずむ兄の背を押した。
「俺が、悪い……全部俺のせいだ。もう誰も……俺の名前を呼んでくれない……っ」
絶望に身を沈め、包帯姿の少年は抱え込んだ膝に顔をうずめた。
「…………」
彼を見つめて、むくは己の欠落を知った。
むくは、春人のように、剛鬼の死を悲しんでいない。あさひの死に、身を裂かれる痛みなど感じない。あれほどの大恩に報いることができないまま。むくは、ただ自分が安堵していることに気付いた。
(春人様は、生きている)
だから――
「私が、呼びます」
気が付けば、喉から声が出ていた。
「私が、春人様のこと、はるちゃんって呼びます」
そう確かな口調で口にする。すると彼はひどく驚いた顔をしてむくの顔を凝視した。
「お前が?」
「はい。私が、ずっと。春人さ……はるちゃんの、そばにいます」
「なんだそれ。なんだ、お前。……泣いてるの?」
彼に言われて、初めて自分が泣いていることに気付いた。面の内側で、涙がこぼれ落ちていく。悲しみはないはずなのに、涙が流れる。では歓びかと言われれば、それは違うと断言できた。透明な涙は、むくの意志を置き去りに流れ続ける。
そんな少女を前に、春人はくしゃりと顔を歪めた。
「じゃあ、お前はさ、もっと笑えよ……根暗っ」
ぎこちなく、彼はむくに手を伸ばす。むくは少年に歩み寄り、その手に触れた。いつかと違う、冷たい手。おそるおそる、その指に触れ手を包み、ふれる。一本一本、指を絡ませ、最後に、自らのぬくもりを与えるように彼のこわばった体を抱きしめた。
「……兄様」
彼は、息を吸って吐き出した。
「兄様兄様兄様兄様……!」
少女の体に縋り付き、声をはばかることなく泣き続けた。




