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 次に目を開いたとき、少女は見慣れぬ天井を眺めた。

 戸惑いを感じ、不自由な体を起こそうとしたが、意志が体に伝わらない。感覚が遠く、指一本満足に動かすことはできなかった。目を覚ましては、落ちるように眠る。それを何度か繰り返していた。辿った記憶は曖昧で、少女の意識は霞がかったままだった。

 彼女は家の中に目を向ける。そこは家というより、小屋だった。少女が横たわる板間のすぐ数歩先は広い土間になっており、煮炊き用の竈が一つ。その傍らには、木の戸が風を受けてガタガタと揺れ、打ち付ける雨の音がした。

 現実を知覚した瞬間。焦燥が喉元までこみ上がった。生きている。その事実が、彼女の頭を打ち付ける。悲鳴を上げる筋を無視して、無理矢理顔を背けた。激痛が襲ったが、彼女はそれでも目を背けずにはいられなかった。すると、その時初めて、彼女は佇むものに気付いた。

(ああ――)

 横たわる少女に寄り添うように、それはいた。長い牙。振り乱した白髪。浅黒く焼けた肌は醜い皺にまみれていた。鬼婆だ。山に住まうという、人喰いと視線が合わさり絡んだ。

(……喰われる)

 しかし、予想に反して、それは少女の口元に、木でできた匙を押し当てた。鼻孔くすぐるのは、優しい鰹節の香り。丁寧に出汁を取った汁物の匂いだった。

「――」

 食欲を引きずり出すような臭いに、胃が空腹を思い出す。唾が溢れたが、唇を開けることはなかった。少女はかたく唇を閉じ、首を背ける。そんな子に、老女がまた何かを言う。その目から、ぱたりぱたりと涙が落ちた。頑なな子供のやせ衰えた手首をつかみ、鬼婆は言葉を紡ぐ。しかし、声は少女には届かない。

 子供は淡々と化け物を横目に眺めた。

 涙を流す彼女に見覚えはない。恐らくは、あの山で少女を拾っただけの女だ。それが、見も知らぬ人の子の生死に涙している。しかし、何故とは思いつつも、涙が子供の心に染み入ることはない。深く根付いた猜疑心は、彼女を頑なにする。心を閉ざした子は、諦観を胸に全てに目を背ける。そして少女が再び目を閉じようとしたとき。その上に、別の影が差した。

「何この子、ぶっさいく」

 その声に、意識が全て持っていかれた。

「深山様」

 鬼婆がその人に向かって声をかける。その声が、その名が、子供の頭を揺らした。

「やだ、おばさん。アタシまだ深山じゃないわよ。それより、ほんと、この子。ほっそっ、がりがり! ほぼ骨! ねえ、アンタ。何で食べないの? 食べたくないの?」

 声に惹かれて、少女はゆっくりと背けていた顔を動かす。途端に目に入ったのは、奇抜な格好をした少年だった。

「ねえ、アンタ……死にたいの?」

 それは、十代後半の少年だった。奇異なことに、彼はその顔に化粧を施し、女物の着物を身にまとっていた。しかし、何よりも、少女を驚かせたのは、彼の髪の合間に延びた、二本の角だった。

(深山の、鬼様――)

 子供の胸が鳴る。

彼が来るのを待っていた。あの凍える闇夜と、孤独に包まれて、幾夜と――彼に喰われることだけを待っていた。

「だったら、アタシが食べてあげる」

 女みたいな話し方。少女なのか、少年なのか、ちぐはぐの少年は、唇を持ち上げ笑う。彼の笑みに、目の前がちかちかと光った。彼の言葉が耳に入り、頭の中でぱちぱちと弾く。それだけで、目の前が、強い日の日差しにさらされたように光度があがった。

「ほら口を開けて、食べなさい。太らないと、食べてあげないわよ」

 少年は、老婆から匙を奪う。そうして、無理やり少女の唇を開こうと、手を伸ばした。迫りくる彼の指。少女は咄嗟にそれに歯をたてる。すると彼は顔を顰めたあとで、けらりと笑った。

「本当に可愛くない子。はるちゃんとは大違い。ねえ、アンタ。名前は?」

 困惑する子供は、鬼の少年の顔を凝視して、違和感の正体に気づいた――似てる。

『なんだお前、泣いてるの?』

 強い確信はすぐに失望に変わった。彼は確かに似ていたが、あの少年ではない。少年は子供と同じ年頃の『人間』だった。対して、目の前の彼は十以上年かさの鬼。それでも。あまりに似た彼がただの別人とも思えずに、少女は僅かな希望に縋り、自らの名を名乗っていた。

「………………むく」

 そうして、開いた口の中に、彼は匙を突っ込んできた。渇ききった口内に、じんわりと広がったのは、優しい吸い物のあじ。力なく睨み付けると、彼はけたけたと笑ってみせた。

 彼の名は、(ごう)()。深山の跡継ぎとなるはずだった、鬼の少年だった。

 それから。

「ほら、もっと口を大きくあけて」

 あの山で、一度は諦めたはずの明日が繰り返された。日に二度。剛鬼はむくの口に食物を運んだ。そうして、彼手ずから食べ物を与えられる。それが癪で。あるとき、あまく、彼の指先をかむと、彼は微笑んでむくの頭を小突いた。可愛くない。可愛くないと口にして、彼は衰弱した少女の口に、甘く煮た桃のかけらを運ぶ。そんな彼は、機嫌のいいとき、決まって聞いてもないのに弟の話をした。

「年の離れた弟がいるの。丁度アンタと同い年くらいの子。だから、アンタを助けたの」

 腹が満たされ訪れるまどろみの中。むくは毎夜、彼の声を聴く。はるちゃん。はるちゃん、弟の名前を呼ぶ、彼の声が柔らかくて、胸の奥が、じくりと痛んだ。

「はるちゃんは、アンタの百倍可愛いの」

 愛される、男の子。少女が『弟』と出会うのは、それより一月の後、少女が一人で起き上がれるようになった頃だった。

「むくちゃん、いいこと。今からあなたは顔無しよ」

 そう言った剛鬼の手には、飾り気のない白い面があった。人間であるむくのために用意されたものだった。

「つまりは、のっぺらぼうね。人間だと悟らせたらダメよ」

 ここは、人ならざる者の世。人と露見すれば、待つのは死だと彼は言った。そして、ならば死ねばいいと呟いたむくの額を彼が小突いた。

「また、ぶっさいくになってる……いーい? むくちゃん。笑いなさい。いい女は、笑うものよ」

 少女の顔に仮面を付けて、剛鬼は笑う。

「じゃあ。ご対面といきましょうか」

 そして、彼は外へと繋がる扉を開いた。

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