間幕 ある鬼の兄弟
十三歳になった春。桜が散り始めてしばらくして。僕に弟が生まれた。
散り乱れた花びらを使用人が掃き掃除している傍ら、祝福された赤子が、母のなかから生まれいづる。年の離れた弟の、生まれたばかりの顔はしわくちゃで、真っ赤で、屋敷で飼っていた猿に似ていた。
「触ってみて」
母がせかすので、おそるおそる触れてみる。産毛のような髪の毛の合間に、角が生えていた。
僕は、自分自身の頭に触れる。そこにも、硬質な感触があった。二人が確かに同じ血を分け合う兄弟であるあかし。それは、深山の鬼たる、あかしだった。
*
数年後。
「にいに」
ちいさな弟が、僕に気付いて、ぱっと顔を輝かせた。つたない足取りで、こっちに向かって歩こうとして、もつれて転んだ。
「……また、転んだ」
弟は、綿の帽子をかぶっていた。よく転ぶ子供を心配した、母の手製だ。まだ小さな弟の角は、成人した鬼のものより柔らかい。転んで角が欠けてしまわないように、母が気を使ったのだ。手縫いの帽子は、ただ機能的なものではなく、幼子が身に着けるよう、かわいらしい装飾にこっていた。
「にいに」
こけたまま、弟が僕にむかって手を伸ばす。潤んだ目。わななく唇。庇護されることを、疑わない表情。
僕は、差し出された手のひらを眺めて――眺めたまま放置した。
「……ついてくるな」
よちよちとつたなく歩く小さな弟。あれが一緒では、友人たちと自由に走りまわることなどできない。行動は制限され、不愉快な思いばかりしていた。僕はずっと、苛立っていた。踵をかえして背を向けて、その影を振り払うように一心に走った。
きょうだいができる。そう聞いたときから、言い知れぬわだかまりがあった。
何故、両親は、いまさら、子供などを作ろうと思ったのか。自分は器用ではない。まじめすぎて柔軟な対応ができず、それゆえに、父の期待する能力に届かぬこともあった。その度に、不出来な自分を恥じてはきたが、同時に努力も積み重ねていた。
だがその努力の成果むなしく――両親は、自分が後継者として、相応しくないと、思ったのではないだろうか。あたらしく、生まれた深山の鬼。母の腕に抱かれ眠る、あの小さな子供の方が、深山にふさわしいと、自分を切り捨てたのではないか。
少年は走る。真実を恐れ、弟に背をむける。
*
そうして思い悩み続けた日。あるとき、父に呼び出された。
「鬼の、役割を言ってみろ」
平坦な父の声は、とがめる響きもなく、僕をただす。下座に正座し、僕はただ幼き日から幾度となく教え込まれたその言葉を、口に出した。
「鬼は、境界の守護者」
「そう――そうだ。それは、ただ人を狩るだけではない。均衡をやぶるあやかしを、殺すことも含まれる」
僕を見下ろし、父は言った。
「お前は、真面目すぎる。私たちの期待に応えようと、そこに、拘りすぎるきらいがある。だがそんなものでは、お前は深山の首魁たることはできない――来い。お前に、深山とは何か、教えてやろう」
そういうと、父は立ち上がり襖をあける。するとそこに、何も知らぬきょとんとした弟が立っていた。父はそれに少し驚いたが、やがて弟を見つめて言った。
「……まだ早すぎる気もするが、お前も来なさい。現実は、はやく思い知ったほうがいい」
彼はそう言って、小さな子供の頭をなでた。
*
父に連れられ、向かった先は、深山。境界を越えて、僕ははじめて人間たちの生活する、領域へと足を踏み入れた。恐る恐る踏み入れた地で、僕はまず、鬱蒼と茂る緑の濃さに、目を奪われた。大地は力に満ちて、生命の息吹が根付く。神の恩恵が色濃いことは言うまでもない。水分を含んだ土はやわらかく、次なる緑の気配をはらむ。
「……」
木々の合間に飛ぶ鳥があまりに自由で、その地に生きる動物たちの活気に満ちた様子に、顔をゆるませた。ほうと、自然と息がもれた。うつくしい山だ。
景色に目を奪われながら、しばらく進むと、やがて、開けた場所に出た。
「ここは――」
「何代も前の、人の村長と鬼の当主が結託して作り上げた。神の、社だ」
視線の先には、木造の社があった。深山の神をまつるためのものであることは、すぐに分かったが、それにしても、あまりに質素なつくりである。華美たる必要はないが、最小限の装飾さえ省かれたそれは、まるで、神を閉じ込めるだけの、囲いのようだった。
「人と鬼が協力したのですか?」
「何を驚く必要がある。確かに、人間をただの食材とみるものもいるが、奴らは何も知らぬだけだ――神とは、何かを」
そして父は、社に向かって足を進める。
「これは、我ら一族と、人間の一部しか知らぬことだ」
吽鬼と、父が僕の名前を呼ぶ。その目は、静かに僕を正す。
「これが、神だ。これが、深山だ。吽鬼。思い上がるな。思い知れ。お前が何であるかをその胸に刻むがいい。我らは、境界の守護者。これを守る――守るだけの、仕組だ」
父の向こうに、見たもの。社の中のその存在に、僕はただただ目を奪われた。見惚れた。これが、自分たちの祀る神。その、正体。僕の使命。
戦慄が、駆け抜ける。
空から溢れる星屑が、僕に向かって降り注いだかのように、僕は瞬時に理解した。自分が何のために生まれたのか。深山とは何なのか。
しかし、陶酔に浸る傍らで、弟が、それに向かって手を伸ばす。ただ無垢に、穢れない魂が、それを欲しがる。刹那に湧きあがったのは、今まで耐え続けた妬みの感情。お前は僕から母の手を、父の笑みを奪ったのに、また何かを取り上げるのか。咄嗟に湧きあがったものは僕の器などでは足りずに、あふれてこぼれた。そして気が付くと、僕は弟を突き飛ばしていた。ちいさな子供は、たまらずに社の階段を転げ落ち――綿の帽子が落ちて、その頭から血が流れた。弟の角が、欠けていた。
彼は、泣く。泣く。狂ったように泣きわめく。
「阿鬼。泣くな」
父が、弟を呼ぶ。その名を呼んで、なだめる声がした、気がした。だけど、僕にはそんなこと、もうどうでもよかった。僕を隔てる、格子窓を握る。
その中のものを、眺めるだけで、言い知れぬ幸福感が腹の底から湧き上がった。この身をつつむ、ここちよい酩酊――それに出会ってはじめて、僕はようやく、己の鬼たる意味を知ったのだ。
喪失に泣きわめく子供の声が、深山にいつまでも、響き続けた。




