第1.1章 気色悪いゲロの後始末
医者が言い切る前に、その身体がびくりと跳ねた。
「ブレェエエエエエエエエッ!!」と、医者が吐いた。
床に嘔吐物がぶちまけられる。
俺は滑らかに一歩下がり、飛沫圏から離脱した。未知の魔法病院においても、優雅さは重要である。
「うわ、何だよ。俺が何した? 俺の顔面がそこまで気持ち悪かったのか? 失礼だな」と、俺は言った。
「先生!」と、看護師が叫んだ。「待ってください、薬瓶を取ります!」
彼女はトレイへ走り、小さなガラス瓶を掴んだ。中には光る液体が入っている。
俺はそれを見た。
「魔法の……何?」と、俺が呟いた。
瓶が閃いた。
光が部屋中に弾ける。
一瞬、俺の顎は完全に落ちた。
不可能に見えた。
偽物っぽい不可能ではない。
安いCGみたいな不可能でもない。
本物の不可能。
純粋な魔法。
脳が出した言葉は一つだった。
すげえ。
俺は顔を無表情に保ち、内心の驚愕を隠した。
こんなものが現実なはずがない。
この程度の低予算映画的視覚トリックで、この賢明なる俺を騙せると思うな。俺は派手な光と劇的なタイミングに騙される哀れな連中とは違う。
違う、はずだった。
次の瞬間、その疑いは砕けた。
床の汚物がタイルから剥がれ、時間を巻き戻すように医者の身体へ戻っていく。医者の身体が五秒ほど逆再生されたみたいに揺れ、彼は袖口で咳をした。
「ありがとう、看護師。もう大丈夫だ」と、医者が言った。
大丈夫?
今、ゲロを逆再生したよな?
俺は綺麗になった床を見る。
医者を見る。
看護師を見る。
いろいろ考えた。
大半は、別の帽子を被った「何だこれ」だった。
看護師が離れようとしたので、俺は手を伸ばした。
「お待ちください、看護師さん。極めて重要かつ深刻な医学的懸念があります」と、俺は低く真面目な声を作って言った。
彼女が振り返る。
「はい?」と、看護師が返す。
「今あなたは、彼の胃から排出された内容物を強制的に喉へ戻しましたよね。逆流性胃酸に苦しんでいる医師に治療されるのは断固拒否したいのですが、その光る瓶は生物学的酸性を中和したのでしょうか。それとも酸をそのまま喉へ押し戻して内側を焼いたのでしょうか。つまり、あなた方の魔法瓶は、俺という価値ある患者に同じ問題を起こす程度には安物なのですかな?」と、俺は自信満々に言った。
看護師の表情が柔らかくなる。
「いいえ、ご心配なさらないでください」と、看護師がやけに甘い声で言った。
「これは標準的な巻き戻し薬です。物理的に何かを喉へ押し戻すものではありません。身体の状態を、体調を崩す前の状態へ穏やかに巻き戻します」
彼女は医者を助け起こし、腕を軽く叩いてから、俺へ過剰に心配そうな顔を向けた。
「薬は回復マナで喉を保護します。火傷も痛みもありません。本人の身体は、具合が悪くなったことすら覚えていません」
そして小首を傾げる。
「ですから、私たちの備品が安物だったり危険だったりする心配はありません。あなたはとても良い環境で治療を受けています」
回復マナ。
巻き戻し薬。
身体状態の再生。
俺は弱々しく笑った。
「ああ……なるほど。回復マナ。巻き戻し薬。もちろんです」と、俺は言った。
もちろん。
自然である。
完全に普通だ。
俺は裸足の踵で床を小さく蹴った。金属製のゴミ箱に当たり、カン、と音が鳴る。
「看護師さん、そして先生、深くお詫び申し上げます。見知らぬ治療場でこのような状態で目覚めたため、俺の認知経路は絶対的混乱に陥っておりました。今のは単なる混乱の投影です」
大げさに頭を下げる。
その間に、ベッドから拝借した分厚いウールのコートが金属台へだらしなく垂れた。
内ポケットで、小さなガラス音が鳴る。
美しい。
俺は顔を上げた。
「軽い頭痛があります。そして浜辺に倒れていた経緯については深刻な記憶欠落があります。どうか俺を白紙だとお考えください。貴院の標準手順には喜んで従いましょう!」
敬意をたっぷり盛って、芝居じみたお辞儀で締めた。
看護師が瞬く。
「あの、そこまで丁寧にしなくても大丈夫です。それと、ご理解いただきありが――」と、看護師が言いかけた。
「わおわおわおわお、うっかり!」と、俺は叫んだ。
俺はまた彼女の唇に指を当てた。
今日、何回人を黙らせただろう。
足りない。
「失礼。俺は新鮮で清潔な空気を必要としています。つまり文字通り、小便です。道をお開けください!」
二人が止める前に、俺はベッドから足を下ろして床に立った。膝が少し震えたが、震えていないふりをした。
そして自分の城を歩く王のような、根拠のない自信で二人の横を通り過ぎた。
「あの、患者さん?」と、看護師が背後から呼んだ。「お手洗いは廊下を出て右の――」
「ラララララララ! 聞こえませーん!」と、俺は振り返らずに叫んだ。
「俺の膀胱はこの道こそを命じている! 貴様らの卑劣な裏切りには屈しない! ムハハハ! ララララ!」
俺の声が廊下に響く。
別室の患者が顔を出した。
「今、廊下を自由に走ってる変な奴、気のせいじゃないよな?」と、患者が呟いた。
「警備を!」と、別の看護師が叫んだ。
俺が角を曲がる直前、最初の看護師が小さく笑った。
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## 第1.2話:どう見ても普通っぽい病院で大冒険!
角を曲がった俺は、二人の声が遠ざかってからようやく黙った。
まあ、病床で腐っている患者たちの貴重な静寂を乱したのは事実だ。彼らをさらに苦しめたいわけでも、警備に余計な理由を与えたいわけでもない。
「つまり現状、俺は何かしらの存在だと宣告されかけていて、ついでに熱力学第二法則を破壊する現象を目撃したわけだ」と、俺は言った。
足が止まる。
「待て。なんで俺、熱力学第二法則なんて知ってるんだ?」と、俺は自分に聞いた。
その思考は妙だった。
妙すぎた。
だから無視した。
「まあいい。少し探るか」と、俺は言った。
壁に寄りかかり、完璧な探偵ポーズを取った。
残念ながら、重力には別の計画があった。
左ポケットが異様に重い。
だぶだぶのコートが身体から離れ、恐ろしいガラス音が響いた。
盗んだ光る薬瓶が布地から滑り落ち、硬い床へ向かって落下する。
「くそ、待て――!」と、俺は叫んだ。
背骨を変な方向にひねり、膝を無理やり閉じる。
瓶はタイルの一インチ手前で止まった。
俺は呪われたプレッツェルみたいな姿勢で固まり、汗をだらだら流した。
「ふう……」と、俺は息を吐いた。
慎重に薬瓶をポケットへ戻し、今度は教育用ステルスゲームの犯罪者みたいに壁へ張りついて進んだ。
おかしいのは、建物そのものが驚くほど普通なことだった。
白い床タイル。
明るい天井灯。
消毒液と清潔なシーツの匂い。
魔法さえ無視すれば、東京の高級私立病院みたいだった。
だが病室の窓を覗くと、浮遊する機械、患者の上で回転する謎の記号、血管みたいに脈打つ光の管が見えた。
扉を通り過ぎるたび、技術はどんどん異常になっていく。
「ふむ。理解した。俺は今日をもって正式に狂った。安心せよ、俺の薬瓶たちが救ってくれる!」と、俺は宣言した。
最優先任務は、隠れられるトイレを見つけることになった。
通りすがりの看護師に方向を聞き、俺は男性用だと思った扉を開けた。
明らかに違った。
「きゃあ!」と、一人の女性が叫んだ。
「なに!?」と、別の女性が叫んだ。
「出てってえええ!」と、三人目が怒鳴った。
「いやあ! 何が入ってきたの!?」と、四人目が悲鳴を上げた。
「ああっ!」と、五人目が叫んだ。
怒れる五つの声が同時に爆発した。
俺は全力で退却し、反対側の扉へ飛び込んだ。
言い訳させてもらうなら、トイレの扉に描かれていた異星文字はまったく意味不明だった。
それに今、誰か俺を「何」って呼ばなかったか。
呼んでない。
たぶん。
そうだ、聞き間違いだ。
誰であろうと、俺を「何」などと呼ぶな。
正しいトイレに入った俺は、鏡の前で立ち止まった。
「ん?」と、俺は漏らした。
鏡の中の俺が、こちらを見返していた。
「な、なんだこれ……なんで俺……なんでこんな……変なんだ?」と、俺は言った。
数秒、目を離せなかった。
俺だった。
たぶん。
大部分は。
顔には俺の要素が残っている。だがどこか違う。現実が古い記憶と低い自信をもとに俺を作り直したみたいだった。
喉が鳴る。
俺は無理やり目を逸らした。
「まあ、だから何だ」と、俺は言った。
今さら外見などどうでもいい。状況全体がすでに十分すぎるほど奇妙だ。顔が何を足せるというのか。
一番奥の個室に入り、盗んだ薬瓶をポケットから取り出した。
四本。
大漁とは言えないが、欲張ればもっと大騒ぎになっていた。
床に並べる。
ラベルは読めない異星のミミズ文字だった。そもそも好奇心で盗んだだけだ。今は一本を適当に選ばなければならない。
「よし始めよう。どーれーにーしーよーうーかーなー。俺様の敵はどいつかなー。お前かお前かそれともお前か。はい決定、文字が読めない瓶!」と、俺は言った。
手の中の瓶を見つめる。
「……俺は何をしているんだ?」と、俺が呟いた。
さっき看護師は、巻き戻し薬を医者の近くに投げた。
だから俺も床に投げることにした。
科学的方法である。
ガシャァン!
瓶がタイルに砕け、光る液体が広がった。
俺は妙な姿勢でしゃがみ込み、眉を寄せ、すごいことか恐ろしいことが起きるのを待った。
何も起きない。
一分。
二分。
五分。
魔法の水たまりは、魔法の水たまりのままだった。
やがて飽きた俺は便座に座った。
「俺はこのままずっとここに隠れるのか? 俺は、俺として、どうするべきなんだ?」と、俺は言った。
頭を掻く。
「効果のわからない薬瓶をこれ以上割るのは危険すぎる」と、俺は言った。
光る残骸を最後に見つめる。
まだ何も起きない。
「とりあえず少し休むか」と、俺は呟いた。
長く息を吐き、冷たい壁に頭を預けた。
トイレは静かに唸っていた。
まぶたが重くなる。
ほんの少し目を閉じるだけだと、自分に言い聞かせた。
当然ながら、それがすべて間違う合図だった。
――
目が開いた。
何が俺を起こしたのかわからない。
爆発はない。
閃光もない。
痛みもない。
ただ音があった。
ティィィィィィィィィィィン。
耳の奥で、鋭く小さな音が鳴っていた。古いブラウン管テレビの電源を抜いた瞬間に聞こえる、あの嫌な音に似ていた。
俺は立ち上がってコートを払おうとした。
「なんだ、何も起きな――」と、俺が言いかけた。
どさり。
重いものが床に落ちた。
近い。
自分が天井を見ているのだと理解するまで、少しかかった。
違う。
見上げたわけではない。
倒れたのだ。
身体が落ちた感覚だけが、なかった。
つま先の感覚がない。
指の感覚がない。
肺の感覚がない。
ヴヴヴ、ウォン。
天井の蛍光灯が歪み、胸の奥まで震わせるような重い振動に変わった。世界は暗闇に沈まなかった。灰色のノイズへ崩れていった。
喋ろうとする。
何も出ない。
叫ぼうとする。
何も出ない。
一つだけ思考を形にしようとする。
それすら滑り落ちた。
そして――
カチッ。
完全な静寂。




