サイドストーリー:崩壊する神聖なる嘘
王都のへそに位置する、白亜の巨大な大聖堂。何百年もの歴史を誇るその威容は、人々に神の威光と教会の絶対的な権力を知らしめるための象徴である。天井高くに嵌め込まれた色鮮やかなステンドグラスからは、朝の清らかな光が幾筋も降り注ぎ、磨き上げられた大理石の床にモザイク状の影を落としていた。
しかし、そんな神聖で厳かな空間にあって、私、バルバロス枢機卿の心は、どん底の泥沼を這い回るような深い絶望と焦燥に支配されていた。
私は神に仕える身でありながら、今ほど神の存在を恨んだことはない。分厚い羊皮紙の束が山積みになった執務デスクの前に座り、私は胃の腑を直接握り潰されるような痛みに耐えながら、深く重いため息を吐き出した。
すべては、あの日から狂い始めた。
我らが希望の光であり、世界最高の治癒魔法の使い手であった聖女エララ。彼女が突如として王都の宿屋から姿を消し、行方知れずとなってから、すでに一ヶ月以上の月日が流れていた。
「聖女失踪」の報せが教会にもたらされた日の朝を、私は生涯忘れることはないだろう。
神官長が血相を変えて私の執務室に駆け込んできた時、私はただの質の悪い冗談だと思った。エララは従順で、教会の教えを忠実に守り、何より「聖女としての務め」という言葉に縛り付けられていた扱いやすい少女だったからだ。彼女が自らの意志で教会を、そして勇者を裏切り、脱走するなどという事態は、私の長年の経験からしても全くの想定外であった。
だが、現実は残酷だった。
彼女が勇者ガレスを魔法で壁に叩きつけ、半狂乱になって王都を飛び出していったという目撃情報は、数え切れないほど存在した。私は直ちに教会直属の聖騎士団を動員し、秘密裏に彼女の捜索を開始した。民衆には「聖女様は来るべき魔王との決戦に備え、神の啓示を受けるために大聖堂の地下深くで祈りの儀式に入られた」と、苦し紛れの嘘を発表した。
しかし、そんな嘘がいつまでも通用するはずがなかった。
聖女エララは、単なる魔王討伐のメンバーというだけでなく、教会にとって最大の「資金源」であり「政治の道具」であったのだ。彼女の規格外の治癒魔法は、不治の病に侵された大貴族や、重傷を負った王族の命を幾度も救ってきた。その対価として、教会には莫大な寄付金が転がり込み、王宮での発言力も絶対的なものとなっていた。
彼女が表舞台から姿を消して数週間が経つと、治癒の奇跡を求める権力者たちからの面会要求が殺到した。私はその度に「儀式の最中である」と冷や汗を流しながら突っぱねてきたが、すでに王宮の一部では「聖女は教会から逃げ出したのではないか」という黒い噂が囁かれ始めていた。
「枢機卿猊下、よろしいでしょうか」
ノックの音と共に、私の腹心の部下である若き神官が、顔面を蒼白にして執務室へと入ってきた。
「また何処かの貴族からの面会要求か? もう適当に追い返せと言ってあるだろう」
私が苛立ち紛れに怒鳴ると、神官は震える声で首を横に振った。
「い、いえ、違います。……勇者ガレス様が、ご帰還なされました。ただいま、大聖堂の裏門より秘密裏に保護いたしました」
その報告を聞き、私は弾かれたように立ち上がった。
勇者ガレス。彼もまた、聖女が消えた直後に、後を追うように王都を飛び出していたのだ。教会の最高戦力である二人が同時にいなくなるという未曾有の事態に、私は胃に穴が開く思いで彼の帰還を待ちわびていた。彼が自らの手で、聖女を連れ戻してくることを心の底から祈りながら。
「すぐに行く。ガレス殿の様子はどうだ? 聖女は一緒か?」
「そ、それが……その、猊下ご自身の目でお確かめいただいた方が……」
神官の言葉を濁すような態度に嫌な予感を覚えながら、私は足早に地下の特別面会室へと向かった。
分厚い樫の扉を開けた瞬間、部屋の中に立ち込めていた強烈な汗と泥、そして微かな血の匂いに思わず顔をしかめた。
部屋の中央の椅子に腰掛けていたのは、間違いなく勇者ガレスであった。だが、その姿は、かつて王都のパレードで民衆の歓声を浴びていた輝かしい英雄のそれとは、あまりにもかけ離れていた。
彼が誇っていた金糸の刺繍入りマントは泥にまみれて引き裂かれ、伝説の武具であるはずの鎧は所々が凹み、細かい傷が無数に刻まれている。何より驚いたのは、彼の腰に、勇者の証であるはずの「聖剣」が帯びられていなかったことだ。
ガレスは焦点の定まらない虚ろな目で床を見つめ、小刻みに肩を震わせていた。
「……ガレス殿」
私が声をかけると、彼はビクリと体を震わせ、充血した目でこちらを睨みつけた。
「……何を見ている。俺は勇者だぞ」
嗄れた、だが威圧的な声で彼は吠えた。しかし、その声の裏にある強烈な怯えと焦燥を、私は見逃さなかった。
「無事のご帰還、何よりです。だが、そのお姿は一体どうされたのですか。そして、何より重要なことですが……聖女エララはどうしました。連れ戻してきたのでしょうね?」
私が単刀直入に尋ねると、ガレスはギリッと奥歯を噛み鳴らし、テーブルを激しく殴りつけた。
「あの女のことはもう言うな!!」
怒号が地下室に反響する。
「あんな裏切り者の女など、初めからいなかったのだ! 奴は狂った! 魔物に魂を魅入られ、自ら聖女としての誇りを投げ捨てたのだ!」
私は冷静に彼の言葉を聞き流しながら、事態の深刻さを測っていた。どうやら、最悪のシナリオが現実になってしまったらしい。
「落ち着いてください、ガレス殿。感情的にならず、事実のみをお話しください。あなたは彼女を追って辺境まで向かったはず。そこで何があったのですか。その傷は、まさか魔王軍の幹部とでも遭遇したとでも言うのですか」
私の問いかけに、ガレスは一瞬だけ言葉を詰まらせ、あからさまに目を逸らした。
「……そうだ。辺境の村で、強大な力を持った魔族の刺客と遭遇したのだ。奴らは聖女を人質に取り、卑劣な罠を仕掛けてきた。俺は聖女を救うために孤軍奮闘したが、奴らの数はあまりにも多すぎた。聖女は魔族の洗脳を受け、俺を攻撃してきたのだ! だから……俺は戦略的撤退を余儀なくされた。聖剣も、その激戦の中で一時的に失われただけだ。決して、俺が敗北したわけではない!」
ガレスはまくしたてるように言い訳を並べ立てた。
だが、その言葉が完全な虚飾であることは、教会の情報網を持つ私には火を見るよりも明らかだった。
我々は、ガレスが王都を出た後、密かに影の諜報員を放っていた。彼らからの報告によれば、ガレスが向かった先は大陸最北端の辺境の村、オーエン。そこには魔王軍の脅威など一切存在しない。そこにいたのは、少し前に勇者パーティを「一身上の都合」で自ら離脱した、無名の戦士カエルという男だけであった。
私は深くため息をつき、冷ややかな視線で勇者を見下ろした。
「ガレス殿。あなたはご自分の立場を理解しておられるのですか。教会は、真実を知っています。あなたが辺境の村で対峙したのは魔族ではなく、かつての仲間の戦士カエルであったということを。そして、あなたがその男に敗れ、聖剣すら置き去りにして逃げ帰ってきたということも」
私の言葉に、ガレスの顔から一気に血の気が引いた。
「な、何を馬鹿な……! 俺が、あんな無能なゴミ屑に負けるはずがないだろうが! あれは魔族だ! 魔族が化けていたのだ!」
「見苦しいですよ、勇者殿」
私は冷徹に彼の言葉を遮った。
「あなたが今まで、聖女エララに対してどのような態度をとっていたか。そして、その戦士カエルをどれほど見下し、冷遇していたか。我々は全て把握しています。あなたは自分の傲慢さゆえに、パーティの重要な楔であった彼を追い出し、結果として聖女の心までをも完全に破壊してしまったのです」
ガレスは反論しようと口を開きかけたが、声が出ないのか、パクパクと魚のように口を動かすだけだった。
私は彼に対して怒りを感じる気力すら失っていた。
教会が勇者として選んだのは、確かに規格外の魔力と剣技を持つ男だった。だが、我々は彼の「精神的な未熟さ」という致命的な欠陥を軽視しすぎたのだ。彼を英雄として祭り上げ、何でも彼の思い通りにさせた結果が、この惨状である。
さらに致命的だったのは、教会自身が「戦士カエル」という存在の価値を全く理解していなかったことだ。
我々にとって、カエルはただの「数合わせ」であり、いずれ切り捨てるべき平凡な男に過ぎなかった。聖女エララという至宝の傍に、あのような冴えない男がいること自体が教会の威信に関わるとすら考えていた。だからこそ、ガレスが彼を冷遇しても見て見ぬ振りをし、むしろガレスとエララを積極的に結びつけようと画策していたのだ。
だが、それは完全な間違いだった。
エララにとって、聖女としての力も、世界を救う使命も、すべてはあの平凡な戦士のためだけのものだったのだ。彼という「心臓」を失った瞬間、聖女という機能は完全に停止し、彼女は教会という鳥籠からあっさりと飛び立ってしまった。
我々は、聖女というシステムを維持するための最も重要なパーツを、自らの手でゴミ箱に捨ててしまったのだ。その代償は、あまりにも大きすぎた。
「ガレス殿。もはや聖女が戻ることはないでしょう。そして、あなたが聖剣を失ったという事実も、いずれ隠しきれなくなります」
私が静かに告げると、ガレスは椅子からずり落ち、床に膝をついた。
「そ、そんな……俺は勇者だぞ。俺がいないと、魔王は誰が倒すんだ……教会が俺を見捨てるというのか……!」
「見捨てるわけにはいきません。それこそ、世界がパニックに陥りますからね」
私は冷酷に言い放った。
「あなたはこれからも、勇者として魔王討伐の旅を続けてもらいます。失われた聖剣の代わりは、王家の宝物庫から適当なものを見繕って偽装しましょう。聖女については……残念ですが、『魔王の呪いにより命を落とされた』と発表するしかありません」
「な……死んだことにするのか!?」
「ええ。裏切り者の聖女など、教会の歴史には不要です。それに、治癒の奇跡を求める貴族たちを黙らせるには、彼女がこの世に存在しないことにしてしまうのが最も手っ取り早い」
私は冷たい声で計画を語り続けた。
「代わりに、教会で最も容姿の似た修道女を『第二の聖女』として仕立て上げます。もちろん、彼女にはエララのような奇跡の力はありません。ただの飾りです。ですから、ガレス殿。あなたはこれからの旅で、決して重傷を負うことは許されません。癒やしの奇跡は、もう二度とあなたには降り注がないのですから」
ガレスは絶望的な表情で私を見上げ、がっくりと項垂れた。
かつての栄光に満ちた勇者の面影は、そこには微塵も残っていなかった。彼はこれから、圧倒的な力を持つ魔王軍を相手に、真の回復役を持たないまま、偽りの聖女を守りながら、常に死の恐怖と隣り合わせの孤独な戦いを強いられることになるのだ。それが、傲慢さゆえに愛する者を奪おうとした男への、残酷な罰であった。
私はガレスを地下室に残し、重い足取りで執務室へと戻った。
窓の外を見ると、王都の街並みはいつもと変わらず平和な陽光に照らされている。民衆は今も、教会と勇者が自分たちを守ってくれると信じて疑っていない。
だが、その神聖なる嘘の屋台骨は、すでに内側から完全に腐り落ちている。
本物の聖女は、全ての使命を放り出し、最果ての辺境の村で、一人の男の腕の中で微笑んでいるのだろう。彼女は世界を救うことよりも、一人の男と共に生きることを選んだ。
我々は彼女を「道具」として扱い、彼女の心に寄り添うことをしなかった。だからこそ、彼女は神の奇跡ではなく、人間としての愛を選んだのだ。
「……何が神の導きか。我々は、ただの欲深い愚か者の集まりに過ぎない」
私は誰に聞かれるでもなく、自嘲気味に呟いた。
デスクの上に山積みになった書類の束を眺めながら、私はこれから始まるであろう教会の終わりのない隠蔽工作と、泥沼のような権力闘争に思いを馳せた。
勇者パーティという最高のカードを失った今、人類が魔王に打ち勝つ可能性は限りなくゼロに近い。
やがて魔王の軍勢がこの王都に迫り、教会の虚飾が全て暴かれるその日まで、我々はこの冷え切った大聖堂の中で、見え透いた嘘をつき続けなければならないのだ。
辺境の地で、彼らがどれほど温かく穏やかな時間を過ごしているのかを想像すると、私の胸にはどうしようもない嫉妬と、深い絶望が渦巻くのであった。
すべては、手遅れだった。
神聖なる教会の権威は、一通の手紙と、一人の戦士の失踪によって、音を立てて崩壊しようとしていた。そして誰も、その崩壊を止めることはできないのだ。




