第6話 聖女ではなく、ただの幼馴染として
吹き飛んだ壁から容赦なく叩きつける雨の中、俺は勇者ガレスと対峙した。伝説の武具に身を包んだ勇者と、田舎の村で木こりの真似事をしていたただの戦士。客観的に見れば、結果は火を見るよりも明らかだろう。ガレスの放つ圧倒的な魔力とプレッシャーは、肌が粟立つほどの恐怖を植え付けてくる。かつての俺なら、彼の前に立つだけで足が竦んでいただろう。
だが、今の俺の心には不思議なほどの静寂が広がっていた。背後にいるエララの微かな呼吸音が、激しい雨音の中でもはっきりと聞こえる。彼女の存在が、俺の背骨を一本の太い鋼に作り変えてくれたようだった。自分の命を投げ出してまで俺を守ろうとした彼女の背中を見た瞬間、俺の中にあった迷いや劣等感はすべて洗い流されていた。
「無能戦士が、俺の前に立って剣を構えるとはな。その身の程知らずな狂気だけは評価してやろう」
ガレスは冷笑を浮かべ、禍々しい光を放つ長剣を片手で軽々と振り上げた。彼の周囲では赤黒い魔力が渦を巻き、雨粒を弾き飛ばしている。
「だが、お前ごときの剣が俺に届くはずがない。一瞬で挽肉にしてやる!」
ガレスの姿が掻き消えた。あまりにも速い踏み込みだった。次の瞬間には、俺の目の前に死神の刃が迫っていた。常人であれば反応すらできない速度だ。
「カエルッ!」
背後でエララが悲鳴を上げる。だが、俺にははっきりと見えていた。ガレスの動きは確かに速いが、そこには俺を完全に侮りきった油断と、力任せの傲慢さがあった。防御など一切考えていない、ただ力で叩き潰すためだけの大振りな一撃。
俺は一歩も退かず、逆に半歩前へと踏み込んだ。ガレスの長剣が俺の肩口を掠め、火花を散らしながら鎖帷子を切り裂く。肉を裂く激痛が走るが、骨には達していない。致命傷ではない。
「なにっ!?」
自分の剣が避けられたことに驚愕するガレスの懐に、俺は深く潜り込んだ。俺の武器は、ただの使い古された長剣だ。正面から打ち合えば、伝説の武具の前に一瞬で叩き折られるだろう。だから、狙うのはただ一点のみだった。
「おおおおぉぉぉッ!!」
渾身の力を込め、下から斬り上げるように俺の剣を跳ね上げた。狙ったのは、ガレスの胴体でも首でもない。彼が不用意に伸ばした右腕、その手首の装甲のわずかな隙間だ。
ガキンッ!!
甲高い金属音が雨の中に響き渡る。俺の剣先は狙い通り、ガレスの手首の防具の繋ぎ目に深々と食い込んだ。衝撃で彼の右手が跳ね上がり、握力が緩む。その一瞬の隙を突き、俺はそのまま剣の腹でガレスの腕を強かに弾き飛ばした。
「ぐあぁぁッ!?」
ガレスの手から伝説の長剣がすっぽ抜けた。宙を舞った剣は弧を描き、泥濘んだ地面に深々と突き刺さった。
「ば、馬鹿な……! 俺の剣が……俺が、こんなゴミ屑に……!」
ガレスは自分の空になった右手を見つめ、信じられないというように後ずさりをした。俺は追撃の手を緩めず、一気に距離を詰めると、彼の胸倉を左手で掴み上げ、右手の剣の切っ先を彼の喉元にピタリと突きつけた。
「ひっ……!」
勇者の口から、情けない悲鳴が漏れた。さっきまでの傲慢な態度は見る影もなく、その顔は恐怖で引き攣っている。
「お前の負けだ、ガレス」
雨音を切り裂くように、俺は低く冷たい声で言い放った。剣先から伝わる彼の脈動が、激しく早鐘を打っているのがわかる。
「お前の力は確かに強大だ。だが、お前は自分の力に溺れ、他人を見下し、誰も守ろうとはしなかった。だから、俺のような男の捨て身の一撃すら読めなかったんだ。愛するものを守るために戦う人間の執念を、お前はまったく理解していない」
喉元に突きつけられた剣先を見つめ、ガレスの顔が屈辱と恐怖で激しく歪んだ。
「き、貴様……俺を殺す気か! 俺は神に選ばれた勇者だぞ! 魔王はどうするんだ!」
「知るか。そんなものは、お前一人で何とかしろ」
俺はガレスの胸倉を乱暴に突き飛ばした。彼は泥水の中に無様に尻餅をつき、泥だらけになって咳き込んだ。
「二度と俺たちに近づくか。エララはもう、お前の飾り物じゃない。次に俺たちの前に現れた時は、手首の隙間ではなく、お前のその傲慢な首を切り落とす」
絶対的な殺意を込めて睨みつけると、ガレスは顔面を蒼白にさせ、ガチガチと歯を鳴らして震え上がった。
「お、覚えていろ……! この屈辱、決して忘れんからな……!」
彼は泥だらけの地面から這い上がると、刺さった長剣を拾うことも忘れ、逃げるように雨の降る森の奥へと走り去っていった。その惨めな背中が完全に見えなくなるまで、俺は剣を下ろさなかった。
やがて、遠ざかる足音も聞こえなくなり、辺りには再び激しい雨音だけが響き渡った。俺は大きく息を吐き出し、ゆっくりと剣を下ろした。全身の筋肉が極度の緊張から解放され、どっと重い疲労が押し寄せてくる。
振り返ると、エララが床に座り込んだまま、俺を見上げていた。彼女の顔は泥と血で汚れ、美しいはずの銀髪は雨に濡れて額に張り付いている。だが、その蒼い瞳からは先ほどまでの恐怖や絶望が消え、ただ真っ直ぐに俺だけを捉えていた。
俺は剣を放り出し、彼女の傍に歩み寄って、その場に膝をついた。
「……終わったよ、エララ」
俺がそう言うと、彼女の目から再び大粒の涙が溢れ出した。
「カエル……っ、カエル……!」
エララは這うようにして俺の胸に飛び込んできた。泥だらけの彼女の腕が、俺の背中に強く回される。俺もまた、彼女の細く冷え切った体を強く抱きしめ返した。泥の匂いと、雨の冷たさ。そして、確かにそこにある彼女の体温。ずっと憎もうとしていた。忘れようとしていた。だが、この温もりを感じた瞬間、俺の心に張り付いていた厚い氷が完全に溶け去り、どうしようもない愛おしさが胸を満たしていくのを感じた。
「ごめんなさい、カエル。本当にごめんなさい……っ」
エララの嗚咽が俺の胸元を濡らしていく。
「私が馬鹿だったの。聖女としての義務だとか、波風を立てない方がいいだとか、そんなのは全部言い訳だった。私が一番大切にしなければならなかったのは、世界でも勇者でもなく、ずっと私の傍で私を守ってくれていた、あなたの心だったのに……っ」
彼女の声は震え、途切れ途切れだったが、そこには一切の誤魔化しのない、真っ直ぐな真実があった。
「あの夜、あなたに見られていたと知った時、死にたいくらい後悔した。私がどんなに言葉を尽くしても、あなたを傷つけた事実は消えない。だから、せめて直接会って謝りたかった。あなたに拒絶されても、一生憎まれてもいい。それでも、どうしても伝えたかったの。私は、カエルを愛しているわ。ずっと昔から、今も、そしてこれからも、あなただけよ」
その言葉を聞いて、俺の目からも自然と涙が零れ落ちた。俺は彼女の泥だらけの背中を優しく撫でながら、ゆっくりと口を開いた。
「俺の方こそ、ごめん」
「え……?」
「俺も、自分の勝手な劣等感に逃げていたんだ。俺はただの戦士で、お前は聖女だから。いつか見捨てられるんじゃないかって、ずっと怯えていた。だから、あの夜のお前を見て、勝手に絶望して、勝手に完結させて逃げ出した。お前の本当の心を聞こうともせずに」
俺は彼女の体をそっと離し、彼女の濡れた顔を両手で包み込んだ。
「お前が俺を探してボロボロになっていると聞いた時、どうしていいかわからなかった。許したいのに、また裏切られるのが怖かったんだ。でも……お前が俺を庇って盾になってくれた時、ようやくわかった。俺が信じるべきだったのは、お前の肩書きでも、過去の光景でもない。俺のために命を懸けてくれた、目の前のお前の心だったんだって」
エララは目を大きく見開き、信じられないというように俺の言葉を聞いていた。
「俺はお前を愛している、エララ。聖女だからじゃない。世界を救う力があるからでもない。ただの、優しくて少し泣き虫な、俺の幼馴染のお前を愛しているんだ」
その言葉を聞いた瞬間、エララは子供のように声を上げて泣きじゃくった。俺は彼女の涙を親指で拭い、彼女の額にそっと自分の額を合わせた。
外の嵐は、いつの間にか嘘のように静まり返っていた。厚い雲の切れ間から夕日が差し込み、雨に濡れた森を黄金色に染め上げている。
「……私、もう聖女には戻らないわ」
「いいのか?」
「ええ。世界は、勇者様や他の人たちが何とかするわ。私はもう、私の手の届く範囲の大切なものだけを守って生きていきたい。……ここで、あなたと一緒に暮らしてもいい?」
「ああ。ここは辺境の何もない村だけど、二人でなら何とかなるさ。木を切り、畑を耕して、静かに生きていこう」
それから数日が経った。壊れた小屋の壁は、シドや村の男たちが手伝ってくれて、なんとか修復することができた。
エララは村の人々に「アッシュの妻」として紹介された。彼女の美しさに村中が驚いたが、泥だらけで倒れる寸前だった彼女の姿を見ていたこともあり、皆温かく迎え入れてくれた。彼女は聖女としての魔力を隠し、普通の村娘として生活を始めた。料理は少し焦がしてしまうこともあるし、薪割りは力不足で俺の仕事になっているが、それでも彼女は毎日笑顔で俺の帰りを待ってくれている。
俺もまた、かつてのように心を閉ざすことはなくなった。村の人々とも普通に言葉を交わし、シドとは相変わらず酒を酌み交わしている。ミーナは少し落ち込んでいたが、エララの優しさに触れて、今では彼女とすっかり仲良くなっていた。
ある晴れた春の午後。俺たちは村はずれの小高い丘に座り、雪解け水が流れる川を眺めていた。
エララは俺の肩に頭を預け、俺の右手を両手で包み込むように握っている。そよ風が彼女の銀髪を揺らし、春の陽光が水面をきらきらと輝かせていた。
「ねえ、カエル」
「ん?」
「私ね、たまに不安になるの。本当にこれでよかったのかなって。私が聖女を辞めたことで、誰かが苦しんでいるんじゃないかって」
彼女の言葉に、俺は少しだけ握り返す力を強めた。
「それは、一生消えない罪悪感かもしれないな」
「うん……」
「でも、俺はお前が選んだこの道を後悔させない。もし誰かがお前を責める日が来ても、俺が絶対にお前を守る。だから、お前はもう自分の幸せを犠牲にしなくていいんだ」
エララは顔を上げ、俺を見て優しく微笑んだ。その笑顔は、かつての作り物の聖女の微笑みではなく、心から安堵し、愛に満ちた普通の女の子の笑顔だった。
「ありがとう、カエル。私、今すごく幸せよ」
「俺もだ」
完璧な許しなど、存在しないのかもしれない。あの夜の光景がふとした瞬間に脳裏をよぎることもあるし、エララもまた、自分の犯した罪への後悔を抱えながら生きていくのだろう。一度壊れた信頼は、魔法のように一瞬で元通りになるわけではない。
だが、それでいいのだと俺は思う。傷跡は残る。だが、その傷跡に触れ合いながら、時間をかけて、少しずつ新しい絆を紡ぎ直していけばいい。雨降って地固まるという言葉があるように、一度壊れて再生した絆は、以前よりもずっと強く、確かなものになると信じている。
風が吹き抜け、春の花の香りが二人の間を通り抜けていく。聖女でもなく、ただの戦士でもない。ただの男と女として、俺たちはこの静寂の辺境で、新しい生活を始めていく。互いの手の温もりを確かめ合いながら、未来へ向かって歩き出すこの穏やかな時間が、いつまでも続くことを祈りながら。




