第5話 雨の中の再会、重なる真実
その日、オーエンの村は春の嵐に見舞われていた。
朝から降り始めた雨は次第に勢いを増し、昼過ぎにはバケツをひっくり返したような土砂降りへと変わった。強風が木々の枝を激しく揺らし、雨粒が窓ガラスを叩きつける音が絶え間なく鳴り響いている。外の景色は灰色の雨のカーテンに遮られ、数メートル先すら満足に見通せない有様だった。
俺は暗く冷え切った小屋の中で、床に置かれた背嚢を無言で見つめていた。
中には数日分の干し肉と、わずかな水、そして着替えが押し込まれている。いつでもこの村から逃げ出せるようにと準備したものだった。酒場で旅人の噂を聞いてから数日が経過し、俺の精神は限界まで擦り減っていた。エララが狂気じみた執念で俺を探しているという事実が、重い鉛のように心にのしかかっていたのだ。
今すぐこの村を離れ、さらに北の誰も知らない雪原の奥深くへと姿を消すべきだ。理性がそう警告し続けているのに、俺の足はまるで床に縫い付けられたかのように動かなかった。
「……何をしているんだ、俺は」
乾いた声が、雨音にかき消される。
逃げたいのか、それとも彼女が来るのを待っているのか。自分でも自分の本心が分からなかった。もし彼女が本当にボロボロになってここまで辿り着いた時、俺は彼女を冷たく突き放すことができるのだろうか。あの夜の裏切りを糾弾し、二度と顔を見せるなと怒鳴りつけることができるのか。
そんな葛藤に苛まれながら、俺は部屋の隅に布で巻かれたまま放置してある自分の長剣へと視線を向けた。剣を握る理由を失ったあの日から、一度も手入れをしていない。今の俺は、ただの抜け殻に過ぎなかった。
その時だった。
轟音のような雨音に混じって、バシャッ、バシャッという重い足音が聞こえた気がした。
気のせいだと思いたかった。だが、足音は確実に俺の小屋へと近づき、やがてドアの向こう側でピタリと止まった。
心臓が跳ね上がり、呼吸が止まる。
数秒の不気味な静寂の後、ギィィ……と軋む音を立てて、強風に煽られるように木製の扉がゆっくりと開かれた。
灰色の雨の中に、一つの影が立っていた。
俺は息を呑み、目を見開いた。
「……カエル……」
かすれた、消え入りそうな声。
そこに立っていたのは、俺がかつて世界で一番愛し、そして世界で一番憎んだはずの女性、エララだった。
だが、その姿は、俺の知っている「聖女」の面影を微塵も残していなかった。
かつて白銀に輝いていた美しい髪は泥と雨水にまみれて肌に張り付き、世界中の誰よりも純白であったはずの法衣は、幾重にも引き裂かれて黒い泥と血の跡で汚泥のようになっていた。足元を見ると、靴すら履いておらず、泥だらけの素足には無数の切り傷や水ぶくれができ、そこから赤い血が雨水に流れていた。
頬は痩せこけ、唇は紫色に変色し、小刻みに震えている。彼女の目はひどく虚ろで、今にも倒れそうにフラフラと揺れていたが、俺の姿を捉えた瞬間、その蒼い瞳からボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
「ああ……カエル……やっと、やっと見つけた……!」
エララは泣き崩れるように小屋の中へと足を踏み入れ、そのまま泥だらけの床に力なく膝をついた。
俺は一歩も動けなかった。怒りで彼女を怒鳴りつけるはずだったのに、喉の奥がカラカラに乾いて声が出ない。旅人が語っていた噂は真実だったのだ。彼女は本当に、身一つで、こんなズタボロになるまで俺を探して世界を彷徨っていたというのか。
「カエル、ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……!」
エララは泥だらけの両手を床につき、俺に向かって深々と頭を下げた。
「私が間違っていたの。聖女の務めだなんて言って、あなたから逃げていた。あなたがどれだけ苦しんで、傷ついているかも知ろうとしないで、波風を立てないことだけを言い訳にして、甘えていたの……っ!」
嗚咽が止まらないらしく、彼女の肩は激しく上下に揺れている。
「あの夜、ガレス様に抱き寄せられた時も……私は彼を拒絶しなかった。ただやり過ごそうとした。でも、違うの。私が本当に愛しているのは、カエル、あなただけなの! あなたがいなくなった世界なんて、私には何の意味もない……っ。だから、どうか……どうかもう一度、私を……」
「やめろ!!」
俺はたまらず叫んでいた。
聞きたくなかった。彼女の口から語られる真実など、もう信じたくなかった。それがどんなに美しくコーティングされた言葉であろうと、あの夜の光景が俺の心から消えることはないのだから。
「今さらなんだ! 俺がどんな思いで手紙を書いたか、お前にわかるか!? 俺はお前のために、身の程をわきまえて消えてやったんだ! なのに、どうして……どうしてこんな姿になってまで俺を追いかけてくるんだよ!」
「あなたを取り戻すためよ……っ。私が馬鹿だったから、一番大切なものを自ら手放してしまった。だから、罰を受けても、死んでも構わないから、あなたに謝りたかったの……!」
泥水に顔を擦り付けるようにして泣き叫ぶエララ。
その姿を見て、俺の心の中にあった強固な防壁が、音を立てて崩れ去っていくのを感じた。
嘘だと言ってほしかった。彼女の言葉はすべて計算された嘘で、俺を再び都合よく利用するための手口なのだと思いたかった。だが、目の前で血と泥にまみれて泣きじゃくる彼女の姿は、どう見ても偽りではなかった。彼女は本気で、命を削ってまで俺を探し出してきたのだ。
俺の目から、熱いものが込み上げてくる。
許してしまいそうになる自分が怖かった。あの地獄のような絶望を、もう二度と味わいたくないのに。
俺が言葉を紡ごうとした、まさにその時だった。
ドォォォォンッ!!!
突然、小屋の背後の壁が爆発したかのような轟音と共に吹き飛んだ。
凄まじい衝撃波が室内に吹き荒れ、木の破片や泥水が散弾のように飛び散る。俺は咄嗟に腕で顔を庇い、吹き飛ばされそうになる体を必死に床に踏みとどまらせた。
「きゃあっ!」
床に伏せていたエララが短い悲鳴を上げ、俺の足元へと転がってきた。
もうもうと立ち込める土煙と、叩きつけるような雨の向こう側から、一つの人影がゆっくりと小屋の中へと足を踏み入れてきた。
「見つけたぞ、俺の聖女」
地を這うような、傲慢で底冷えのする低い声。
全身に高価な魔法防具を纏い、手には禍々しい光を放つ長剣を握りしめた男。
勇者、ガレスだった。
「ガレス……ッ!」
俺は牙を剥くように男の名を呼んだ。
ガレスは冷酷な笑みを浮かべ、泥だらけになって俺の足元にうずくまるエララを見下ろした。
「手間をかけさせやがって。王都を飛び出した挙句、こんな辺境の薄汚い村まで逃げてくるとはな。教会も国王も、お前がいなくなって大パニックだぞ。だが安心しろ。俺が直々に迎えに来てやった。さあ、一緒に帰るぞ、エララ」
「……嫌です」
エララは顔を上げ、ガレスを真っ直ぐに睨みつけた。その蒼い瞳には、先ほどの俺に向けた涙とは対極の、絶対零度の拒絶が宿っていた。
「私はもう、あなたの所有物ではありません。二度と王都には戻りません。私は、カエルと共に生きます」
その言葉を聞いた瞬間、ガレスの顔から笑みが消え、額に青筋が浮かび上がった。
「この俺に向かって、よくもそんな口が叩けたものだな。たかが田舎娘の分際で、聖女という肩書きを与えられたからと調子に乗るなよ」
ガレスの視線が、エララから俺へと移る。その目には、路傍の石ころを見るような絶対的な侮蔑が込められていた。
「そもそも、原因はそこにあるそのゴミ屑だ。手紙一つで逃げ出した腰抜けの分際で、いけしゃあしゃあと俺の女をたぶらかしおって。お前のような身の程知らずのクズは、生かしておくだけで世界の害悪だ」
ガレスはゆっくりと右手を上げ、その掌に高密度の破壊魔法の球体を生成し始めた。バチバチと赤黒い稲妻が走り、周囲の空気がビリビリと震えるほどの魔力が凝縮されていく。
「俺が直々に、お前を消し炭にしてやる。冥土の土産に光栄に思え、無能戦士」
圧倒的な死の気配。
逃げることも、防御することも不可能な速度で、魔法が放たれようとしていた。
俺は武器すら持っていない。部屋の隅にある布巻きの剣を取りに行く時間などない。
死ぬ。俺はここで、こいつの傲慢な力によって殺されるのだ。
俺は覚悟を決め、せめて最後は目を逸らさずに死んでやろうと、ガレスを強く睨みつけた。
「死ねッ!!」
ガレスの腕が振り下ろされ、赤黒い閃光が轟音と共に俺に向かって放たれた。
だが、次の瞬間。
俺の視界を、白銀の光が覆い尽くした。
「させないッ!!!」
裂帛の気合いと共に、エララが俺の前に飛び出していた。
彼女はボロボロの体で両手を大きく広げ、俺の盾となるように立ち塞がった。彼女の全身から純白の神聖魔力が爆発的に放出され、瞬時に巨大な光の障壁を展開する。
直後、ガレスの破壊魔法が障壁に激突した。
ドゴォォォォォォンッ!!!
世界が揺れるような轟音と閃光。凄まじい衝撃波が小屋の残骸を吹き飛ばし、雨粒を瞬時に蒸発させる。
「がはっ……!」
エララの口から鮮血が噴き出した。ガレスの魔法はあまりにも強大で、彼女の即席の障壁では完全に殺しきれていなかったのだ。それでも彼女は、血を吐きながら一歩も引かなかった。靴を履いていない足から血を流し、泥に深く足を踏み込んで、全身全霊で障壁を維持し続ける。
「エララ!!」
俺は悲鳴のような声を上げた。
「退け、エララ! お前が死んでしまうぞ!」
「退かない……っ!」
エララは血に染まった唇で、背後を振り返ることなく叫んだ。
「私が守るの! ずっと守ってもらってばかりだった。私の弱さが、カエルを傷つけた! だから今度は、私があなたを守る……っ! 私の命に代えても、この人だけは絶対に渡さない!!」
その叫びは、雷鳴よりも深く、俺の魂を揺さぶった。
彼女の細く、泥だらけの背中。今にも折れてしまいそうな体で、巨大な暴力に立ち向かっている。
あんなにも恐ろしいものを怖がり、俺の背中に隠れていた少女が。
他人の目を気にして、「務め」という言葉に逃げていた彼女が。
今、自らの命を投げ打って、俺を守ろうとしている。
ああ。
そうか。
彼女は、本当に俺を愛してくれていたのだ。
あの夜の出来事も、決して俺を蔑ろにしていたわけではなく、彼女なりの歪んだ自己犠牲と思い込みの末の悲劇だったのだ。
ずっと胸の奥に刺さっていた氷の刃が、彼女の流す熱い血と涙によって、音を立てて溶けていくのを感じた。
もう疑う必要なんてない。俺を愛していない人間が、どうしてここまでボロボロになって、命を懸けて俺を守ろうとするだろうか。
俺が信じるべきだったのは、自分が勝手に抱いた劣等感でも、裏切られたという絶望でもない。ただ一つ、目の前で必死に俺を守ろうとしている彼女の「本当の心」だったのだ。
「……もういい。もういいんだ、エララ」
俺は静かに呟き、エララの背中に手を伸ばした。
彼女の小さな肩がビクリと震える。
俺は彼女の背中を優しく撫でると、その横をすり抜け、彼女の前に出た。
「カエル……? 駄目よ、逃げて……っ」
悲痛な声で引き留めるエララに、俺は一度だけ振り返り、微笑みかけた。
「ありがとう。俺のために、ここまでしてくれて。……でも、俺はお前の背中に隠れていられるほど、器用な男じゃないんだ」
俺は部屋の隅へと駆け寄り、床に落ちていた布巻きの長剣を拾い上げた。
乱暴に布を引き剥がすと、手入れを怠っていたにもかかわらず、剣身は鈍く、だが確かな銀色の輝きを放っていた。
柄を握りしめる。手のひらの分厚いマメが、ピッタリと剣の感触に吸い付いた。
ずっと失っていた「戦う理由」が、再び俺の全身に熱い血となって巡り始める。
「……ほう。ゴミが自ら進み出てくるとはな。少しは戦士らしい死に様を見せてくれるというのか?」
ガレスが面白がるように口角を歪め、剣を構え直した。
俺は静かに息を吐き出し、長剣を正眼に構えた。
相手は世界最強の勇者。俺との実力差は天と地ほどもあるだろう。
だが、そんなことはどうでもよかった。
俺の背後には、俺のためにすべてを捨ててくれた愛する女性がいる。
彼女を泣かせる奴は、たとえ神が選んだ勇者であろうと、俺が絶対に許さない。
「エララは俺が守る」
激しい雨と雷鳴が交差する中、俺はかつての怯えをすべて捨て去り、勇者ガレスと真っ向から対峙した。




