第4話 風に舞う噂、追跡の足音
オーエンの村を厚く覆っていた雪が溶け始め、地面からは泥濘と共に春の匂いが立ち昇るようになっていた。長く厳しかった冬が終わりを告げ、辺境の村にもわずかながら活気が戻りつつある。
雪解けで街道が通行可能になると、南の都市から行商人や旅人がポツポツと村を訪れるようになった。外界から完全に隔離されていたこの村にとって、彼らがもたらす物資と外の世界の「情報」は、春の訪れを象徴する何よりの娯楽だった。
だが、そんな村の空気の変化をよそに、俺は相変わらず森に入って木を切り倒す毎日を送っていた。シドの言葉で心に小さな波紋は生じたものの、女性を恐れ、人と深く関わることを避ける俺の態度は変わっていなかった。いや、むしろ春の陽気に浮かれる村人たちから逃げるように、俺はより一層孤独な作業に没頭していた。
その日の夕方、俺はノルマを終えて小屋に戻ろうとしていたところを、シドに捕まった。
「おいアッシュ、今日は逃がさんぞ。久しぶりに行商人が美味い南の酒を持ってきたんだ。付き合え」
有無を言わさぬシドの力強い腕に引かれ、俺は渋々村で唯一の酒場兼宿屋へと足を運んだ。
酒場はすでに村の男たちや数人の旅人でごった返し、熱気と酒の匂いが充満していた。カウンターの奥では、赤毛のミーナが忙しそうにジョッキを運んでいる。彼女は俺の姿を認めると、一瞬だけパッと顔を輝かせたが、俺が目を逸らすとすぐに寂しそうな表情になり、無言で俺たちのテーブルにエールを置いて去っていった。
胸の奥がチクリと痛んだが、俺はそれをごまかすように冷たいエールを一気に煽った。
「相変わらず、不器用な男だ。あんなに分かりやすい好意を無下にするとはな」
「……放っておいてください。俺には関係ないことです」
シドのからかいを半分無視しながら、俺は酒場の喧騒の中に身を沈めた。
周囲のテーブルからは、冬の間どう過ごしていたかという他愛のない世間話や、今年の作柄の予想などが聞こえてくる。そんな中、隣のテーブルに陣取っていた数人の旅人たちの会話が、ふと俺の耳に飛び込んできた。
「おい、例の噂、聞いたか? 王都周辺じゃ、もうその話題で持ちきりらしいぜ」
「ああ、あれだろ? 勇者パーティの分裂騒動ってやつだ」
『勇者』という単語に、俺の心臓がドクンと嫌な音を立てた。
持つ手に力が入る。見ないように蓋をしていた過去の記憶が、黒い泥のように心の底から湧き上がってくるのを感じた。俺は息を殺し、彼らの会話に耳を澄ませた。
「分裂ってのは本当なのか? 確か、あのパーティは勇者と聖女様、それに魔法使いやなんかの精鋭揃いだったはずじゃ……」
「それがよ、なんとあの『聖女様』がパーティを抜けたらしいんだよ」
ガチャン、と俺の手から木製のジョッキが滑り落ち、テーブルの上に倒れた。
残っていたエールがテーブルから滴り落ちるが、俺はそれを拭くこともできず、完全に硬直していた。
「おいアッシュ、どうした。手が滑ったか?」
シドが訝しげに俺の顔を覗き込んでくるが、俺の耳には彼の声は入ってこなかった。
聖女がパーティを抜けた? エララが?
そんな馬鹿な。彼女は聖女としての「務め」を果たすために、勇者ガレスの傍にいることを選んだはずだ。俺という過去の遺物を捨ててまで、彼女はあの場所を選んだのだ。それなのに、なぜ。
隣のテーブルの会話は、俺の混乱をよそにさらにヒートアップしていく。
「ただ抜けただけじゃねえんだよ。聞いた話じゃ、勇者様と大喧嘩をして、彼を壁に叩きつけて重傷を負わせたって話だ。教会は大慌てで聖女様を連れ戻そうとしたらしいが、彼女は聖女の地位も法衣も全部捨てて、王都を飛び出したんだとよ」
「おいおい、冗談だろ? あの優しくて慈愛に満ちた聖女様が、勇者様を叩き飛ばした? まったく信じられねえな。で、彼女は一体どこへ行ったんだ?」
「それが一番の謎なんだが……どうやら、一人の『戦士』を探しているらしいんだ」
呼吸が止まった。
全身の血が逆流するような感覚。視界がグラグラと揺れ、周囲の音が遠ざかっていく。
「戦士? 魔王討伐のために、新しい仲間を探しているのか?」
「いや、そうじゃねえ。なんでも、元々勇者パーティにいた戦士らしいんだが、ある日突然姿を消しちまったんだと。聖女様はその男を探すためだけに、たった一人で旅をしているらしい」
間違いない。彼女が探しているのは、俺だ。
だが、なぜだ。なぜ彼女が、地位も名誉も捨てて、俺を探す必要がある。
手紙に書いたはずだ。『君の聖女としての務めを邪魔しない』『自由に生きてくれ』と。俺は彼女の重荷を取り除くために自ら身を引いたのだ。彼女にとっても、俺がいなくなった方が都合が良かったはずではないのか。
「……信じられねえ話だが、俺は数日前に、隣の領地でその聖女様らしき女を見たぜ」
別の旅人が、声を潜めて語り始めた。俺は吸い寄せられるように、その男の顔を見つめた。
「街道を馬車で移動してた時にな、一人で歩いている女とすれ違ったんだ。身なりは酷かった。かつては真っ白だったであろうローブは泥と血で汚れきって、裾はボロボロに引き裂かれていた。靴もすり減って、足には包帯が巻かれて血が滲んでいたよ」
「おいおい、そんな姿で旅を? 護衛もなしか?」
「ああ、一人だ。街道沿いに出る魔物や野盗を、自ら杖を振るって追い払いながら歩き続けているらしい。髪は白銀で、目は深い蒼だった。どんなに汚れようと、あれは間違いなく噂の聖女様だ。……だがな、俺が一番ゾッとしたのは、あの女の目だ」
「目?」
「ああ。まるで何かに取り憑かれたような、狂気すら感じる目だった。すれ違いざまに俺たちの馬車を止めて、血走った目で聞いてきたんだ。『背に大剣を背負った、右手に古い火傷の跡がある戦士を見なかったか』ってな。少しでも心当たりがないと分かると、礼を言ってまたフラフラと歩き出していった。あれはもう、正気じゃねえよ。命を削ってでも、その男を見つけ出すまで止まらない、そんな執念の塊みたいな姿だった」
旅人の言葉が、鋭い氷の刃となって俺の心臓を深々と貫いた。
ボロボロに汚れたローブ。血の滲んだ足。狂気を宿した目。
俺の知っているエララは、少しでも泥が跳ねれば顔をしかめ、虫一匹殺すのにも躊躇うような、優しくて繊細な少女だった。その彼女が、野宿を重ね、自ら魔物を退けながら、満身創痍で俺を探しているというのか。
「アッシュ、お前……顔色が真っ青だぞ。本当にどうした?」
シドが俺の肩を強く揺さぶった。
俺は弾かれたように立ち上がった。椅子がガタガタと大きな音を立てて後ろに倒れ、周囲の客が一斉にこちらに目を向ける。ミーナも驚いた顔で俺を見ていた。
「……気分が、悪い。帰ります」
それだけを絞り出すように言うと、俺は倒れた椅子を直すこともせず、酒場から逃げるように飛び出した。
外の冷たい夜風が火照った顔を叩くが、俺の混乱はまったく収まらなかった。
俺は泥濘んだ道をよろめきながら走り、村はずれの自分の小屋へと転がり込んだ。
暗い部屋の中央に立ち尽くし、俺は荒い息を繰り返した。
頭の中がぐちゃぐちゃだった。
「どうして……どうして今更、俺を探すんだ……!」
暗闇に向かって、俺は唸るように声を上げた。
怒りが、腹の底からマグマのように湧き上がってくる。
散々俺をコケにして、勇者の腕の中で甘ったるい声を上げていたくせに。俺の好意を「重荷」だと切り捨てておきながら、いざ俺がいなくなったら、今度は聖女の地位を放り出してまで追いかけてくるというのか。
どれだけ俺を振り回せば気が済むんだ。お前の「曖昧な優しさ」が、お前のその無自覚な残虐性が、どれほど俺の心を壊したか分かっていないのか。
『今さら遅いんだよ!』
壁を強く殴りつける。拳の皮が破れ、血が滲んだが、痛みは感じなかった。
俺はもう、お前を信じない。お前がどれだけ悲劇のヒロインを演じようと、あの夜、勇者に抱かれていたお前の姿が俺の脳裏から消えることはない。俺の心はもう、決定的に壊れてしまったのだ。
だが。
「……っ」
怒りで塗り固めようとしても、俺の心の防壁は脆くも崩れ去ろうとしていた。
旅人が語った、エララの姿が頭から離れないのだ。
泥だらけの法衣。血の滲んだ足。一人で魔物と戦いながら、フラフラになって歩き続ける彼女の姿。
俺の護衛なしでは夜の森を歩くことすら怖がっていた彼女が、たった一人でこの厳しい世界を彷徨っている。
『痛いよ、カエル。怖いよ』
幼い頃、転んで膝を擦りむいた彼女が泣きじゃくる声が、幻聴となって耳の奥に響いた。
その度に、俺は彼女を背負い、必ず守ってやると誓ったではないか。
「くそっ……俺は、どうすればいいんだ……!」
俺は床に膝をつき、頭を抱え込んだ。
見捨ててしまえばいい。彼女が勝手に俺を探して、野垂れ死のうが魔物に食われようが、俺には関係のないことだ。彼女は自業自得なのだから。
そう自分に言い聞かせるが、彼女が傷ついていると想像するだけで、胸が張り裂けそうになる。
彼女を憎みたい。拒絶したい。だが、俺の魂の根底に焼き付いた「彼女を守りたい」という強烈な愛情が、それを許さない。
俺の心の中で、怒りと愛情が激しくぶつかり合い、俺を内側から引き裂こうとしていた。
このままこの村にいれば、遅かれ早かれ彼女は俺を見つけ出すだろう。あの狂気じみた執念なら、この世界の果てまででも追いかけてくるに違いない。
ここからさらに逃げるべきか。彼女が決して手の届かない場所へ、完全に姿を消してしまうべきか。
だが、もし俺が逃げ続ければ、彼女は俺を探し続けて、本当にボロボロになって死んでしまうかもしれない。
「……ふざけるな。ふざけるなよ、エララ……!」
彼女への尽きせぬ怒りと、決して消し去ることのできない未練。
俺は冷たい床の上にうずくまり、声を殺して泣いた。
彼女から逃げるために遠い辺境まで来たのに、結局俺は、彼女という呪縛から一歩も逃れられていなかったのだ。
風が強まり、小屋の隙間から春の嵐の予感を含んだ空気が流れ込んでくる。
その風に乗って、泥だらけになって俺の名を呼ぶ彼女の追跡の足音が、すぐそこまで迫ってきているような気がして、俺は一晩中、震えを止めることができなかった。




