わかりませんでした
それは、翌日のことだった。
国から正式に発表された。――ノエル・ヴァルグレイスは、英雄であると。
その一言で、すべてが変わった。
朝。店の前にはすでに人だかりができていた。
「本当にここにいるのか?」「一目でいい、顔を見たいんだ」
ざわめきと熱気、押し寄せる視線。扉を開けることすらためらうほどの群衆。
ノエルはその光景を、二階の窓から見ていた。
「……すごいですね」
ぽつりと呟くと、隣で腕を組んでいた姐さんがため息をつく。
「すごい、で済ませていい量じゃないわよ、あれ」
ちらりとノエルを見て、短く言い切った。
「あんたは部屋にいなさい」
「でも――」
「いいから」
ぴしゃりと遮る。
「言っとくけどね。あんたは、見せ物じゃないのよ」
その一言に、ノエルは何も言えなくなった。
それから――ノエルの日常は、ゆっくりと確実に変わっていった。
店には出られない。
代わりにキッチンの奥で火のそばに立ち続けるか、部屋にこもり、外の気配を遠くに聞きながら何もせず過ごす日々。
(……私、何してるんだろ)
手は動いているのに、どこか自分がそこにいないような感覚。
日が落ち、人の波が引いて、店がようやく静けさを取り戻した頃。
その夜。ふと、目が覚めた。
部屋は暗いのに、下から灯りが漏れている。
(……まだ、やってる)
喉が渇いていた。ただそれだけの理由で、階段を降りる。
軋む音を立てないよう、一段ずつ静かに。
――そのとき、笑い声が聞こえた。
「それでさ、道に迷って――」
「はは、そりゃ大変でしたね」
ルークの声。
ノエルの足が止まる。
カウンターの向こうには、旅人らしき女性。楽しそうに話している。
その向かいで、ルークが笑っていた。
(……え)
見たことのない表情だった。
やわらかくて、自然で、どこか距離の近い笑い方。
胸の奥で、何かが引っかかる。
(……こんな顔、するんだ)
知らなかった。――いや。
(私には、見せなかっただけ?)
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
その痛みは、思ったよりもはっきりしていて。
見なければよかったと、ほんの一瞬だけ思った。
息が、少しだけ詰まる。
「……」
気づかれないように、そのままそっと引き返した。
喉の渇きは、もうどうでもよくなっていた。
――次の日も、同じ時間に目が覚めた。
気づけば、また階段を降りている。
そして、同じ光景。
笑い声。
あの女性と、ルーク。
(……まただ)
分からないまま、見てしまう。
胸の奥が、ざわつく。
それが、数日続いた。
「姐さん」
昼。キッチンで手を動かしながら、ぽつりと呟く。
「ストレス、えげつないです」
姐さんは鍋をかき混ぜながら笑った。
「表に出られないから?」
「それもありますけど」
少し間を置く。
「……役割を奪われて、生きてる価値を見出せないです」
手が止まる。姐さんがちらりと横目で見る。
「なぁに、その重たい考え。やぁーね」
軽く流すようでいて、ちゃんと見ている目。
「それに……最近、無性にイライラするんです」
包丁を握る手に、少しだけ力が入る。
「理由、わかんないんですけど」
姐さんは、にやりと笑った。
「わかるわ〜。暴れたいのよね?」
「……はい」
即答だった。
少しの間のあと、姐さんはわざとらしく視線を逸らす。
「これは独り言なんだけどね。最近、魔物がやたら増えてるらしいわよ。騎士団が、猫の手も借りたいって騒いでたわ」
ノエルの手がぴたりと止まる。
ゆっくりと顔を上げると、目がわずかに光っていた。
「姐さん」
にこっと笑う。
「明日、出かけてきます」
即決だった。
姐さんは呆れたように笑う。
「行くなら、ちゃんと変装しなさいよ」
「はい!」
返事だけはやけに元気だった。
その背中を見送りながら、姐さんはぽつりと呟く。
「……ほんと、分かりやすいわねぇ」
鍋をかき混ぜる。
「誰に一番イラついてるのか――そのうち気づくでしょ」
湯気がゆらりと立ち上る。
その奥で。
ノエルの知らない“感情”が、静かに育ち始めていた。




