英雄でした
楽の音が、ふっと止む。
重い扉が開かれた。
「――アルディオン王国第二王子、アルファード・アルディオン殿下。並びに、聖女ルミエラ・ヴァルグレイス様のご入場です」
拍手が、波のように広がった。
白い光を纏うように、ルミエラが歩く。
その隣で、アルファードが静かに寄り添う。
祝福の空気。
完璧な“正しさ”。
王の言葉が述べられる。
成人の儀、そして婚約への祝辞。
誰もが頭を垂れ、聞き入る。
続いて、アルファードが短く言葉を述べる。
そして――
ルミエラの番。
静まり返る。
彼女は一歩前へ出た。
ドレスの裾が、静かに揺れる。
「本日は、このような場を設けていただき――誠にありがとうございます」
澄んだ声。
よく通る。
誰もが耳を傾ける。
「成人の儀を迎え、そして婚約というご縁をいただけたこと。心より、感謝申し上げます」
丁寧な言葉。
淀みはない。
けれど――
次の瞬間。
空気が、変わった。
「……そして」
わずかに、視線が上がる。
「私は――この日をもって」
一拍。
「ヴァルグレイス侯爵家を、離れます」
ざわめき。
一斉に、会場が揺れる。
誰もが息を呑む。
侯爵の顔が、強張る。
母の瞳が見開かれる。
ルミエラは、止まらない。
「私は、生まれたときから“聖女”と呼ばれてきました」
静かに。
はっきりと。
「けれど――その影で」
視線が、ある一点へ向く。
「姉、ノエル・ヴァルグレイスは」
名を呼ぶ。
逃げない声で。
「“不要なもの”として、辺境へ送られました」
会場が、凍る。
「そこで姉は、一人で厄災を退けました」
ざわめきが、広がる。
「そして今回――」
ほんのわずかに、声が震える。
「私は恐怖で動けず、ただ立ち尽くしていたところを」
息を吸う。
「姉が、助けてくれました」
静寂。
誰も、何も言えない。
「命を懸けて」
その一言が、深く落ちる。
「……それでも」
ゆっくりと。
確かめるように。
「その姉に、水をかけたと聞きました」
空気が、割れる。
父の顔が歪む。
母が一歩、後ずさる。
「国の英雄に、なぜそのようなことができるのか」
声は静かだ。
だが、逃げ場がない。
「私が“聖女”と呼ばれるのならば」
一歩、前へ。
「その聖女を救った彼女こそ――」
視線が、まっすぐにノエルを捉える。
「英雄です」
沈黙。
完全な、沈黙。
「ですから」
ルミエラは、はっきりと言った。
「私は、この時をもって」
一拍。
「ヴァルグレイス侯爵家を、離れます」
言い切る。
もう、誰にも止められない。
その言葉は、決定だった。
⸻
そのすべてを。
ノエルは、聞いていた。
動けない。
息が、うまくできない。
視界が、揺れる。
(……やめて)
心のどこかで、そう思う。
こんな場所で。
こんなふうに。
名前を呼ばれるなんて。
思っていなかった。
(やめて……)
けれど。
止められない。
ルミエラの声が、まっすぐすぎて。
逃げ場が、ない。
胸の奥に、何かが溢れる。
ずっと。
ずっと奥に、押し込めていたもの。
(――欲しかった)
ぽたり、と。
涙が落ちた。
止まらない。
次も、次も。
こぼれていく。
(ずっと……欲しかった)
認められること。
必要とされること。
名前を、呼ばれること。
「……っ」
唇を噛む。
崩れないように。
声を出さないように。
それでも。
涙だけは、止まらなかった。
ルミエラは、静かに頭を下げた。
会場は――
まだ、誰一人として動けなかった。




