隣にいませんでした
パーティー当日。
鏡の前に、ノエルは立っていた。
指先が、わずかに冷たい。
胸の奥が、静かに波打っている。
深く息を吸う。
吐く。
それでも――少しだけ、緊張は残ったままだった。
背後から、軽い声が落ちる。
「あんた、美人だったのね〜」
振り返ると、姐さんが腕を組んで立っていた。
「世界で二番目に綺麗だわ」
一拍。
「あ、一番はわ・た・し。そこは譲れないわよ」
「ふふっ、姐さんには勝てませんよ」
ノエルが笑うと、姐さんは満足そうに頷いた。
「わかってるじゃない」
そのまま、ずいっと顔を近づける。
「でもね」
軽くノエルの頬に触れる。
「その顔、悪くないわよ。堂々としてなさい」
その言葉に、ノエルはほんの少しだけ目を見開いた。
――堂々と。
小さく、頷く。
「はい」
姐さんはにやりと笑うと、扉へ向かった。
「ほら、イケメンにも見せてあげなさい」
ばたん、と扉を開ける。
「入っていいわよ」
呼ばれて入ってきたルークは――一瞬、言葉を失った。
見慣れない姿。
けれど、確かに“ノエル”だった。
上品なドレス。丁寧に整えられた髪。薄く施された化粧が、その表情をやわらかく際立たせている。
「……」
ほんのわずかに、息が止まる。
ノエルが、くるりと一歩踏み出した。
「見て、ルーク。どうかしら?」
少しだけ不安が混じる声。
ルークは、ゆっくりと息を吐いた。
それから――まっすぐに見る。
「……うん」
短く。
「綺麗だよ」
その言葉は、飾り気がなかった。
だからこそ、真っ直ぐ届く。
ノエルは、ふっと笑った。
「ありがとう」
姐さんが、にやにやと二人を見比べる。
「はいはい、青春ねぇ〜」
軽口を叩きながらも、どこか満足そうだった。
そのとき。
コンコン、と扉が叩かれる。
空気が、少しだけ引き締まる。
ノエルの指先が、わずかに揺れた。
扉を開ける。
そこに立っていたのは――
正装に身を包んだ、アルシオン・アルディオン。
昼間と変わらない笑み。
けれど、その立ち姿は紛れもなく王族のそれだった。
「準備はいい?」
軽く言う。
一歩、近づく。
そして、当然のように手を差し出した。
「さぁ――行きましょうか」
ノエルは、その手を見つめる。
一瞬だけ。
ほんの、一瞬だけ。
ルークの方へ視線が揺れた。
それから。
ゆっくりと、手を伸ばす。
「えぇ」
重なる指先。
その瞬間。
背後で、何かがわずかに軋んだ気がした。
振り返らない。
振り返らずに。
ノエルは、一歩踏み出した。
夜へ向かって。
⸻
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
しばらくの間――ルークは動かなかった。
ノエルの気配だけが、すっと遠ざかっていく。
残されたのは、静けさ。
「……」
立ったまま。
視線は、閉じた扉のまま。
指先が、わずかに震えている。
姐さんが、ちらりと横目で見る。
「……行ったわね」
軽く言う。
返事はない。
間。
「……どうして」
ルークの喉が、かすかに動く。
「どうして、隣にいるのが俺じゃないんだろう」
ぽつりと落ちた声は、思ったよりも弱かった。
姐さんは少しだけ肩をすくめる。
「そうねー」
あっさりした返し。
ルークの視線は、まだ扉から動かない。
「……なんで」
声が、少しだけ低くなる。
「なんで俺は、奴隷なんだろう」
沈黙。
鍋の音が、コト、と鳴る。
姐さんは、ため息を一つ吐いた。
「あんたの力は光魔法」
淡々とした声。
「放っておけば、利用しようとする連中なんていくらでもいる」
一拍。
「だからあの子は、自分で縛る側に回ったのよ」
視線だけで示す。
「奴隷契約なんて形で」
ルークの肩が、わずかに揺れる。
姐さんは少しだけ目を細めた。
「……あの子だって、きっと望んでやってるわけじゃないわよ」
声が、ほんの少しだけ落ちる。
「でも、それじゃないと――あんたを守れないから」
沈黙。
鍋の音だけが、小さく響く。
ルークの肩が、わずかに揺れる。
「……はい」
短い返事。
それ以上、何も言えない。
そんなことは、一番よく分かっている。
あの契約があるから、側にいられる。
あの契約があるから、守れる。
(……分かってる)
奥歯が、ぎり、と鳴る。
拳を握る。
血が滲むほどに。
(それでも――)
並びたい。
隣に立ちたい。
後ろじゃなくて。
守られるだけの立場じゃなくて。
同じ場所で。
同じ高さで。
あの手を取るのが、自分でありたかった。
喉の奥が、熱くなる。
けれど、声にはならない。
「……っ」
吐き出せないまま、飲み込む。
姐さんは、それを見ていた。
何も言わない。
ただ、少しだけ視線を逸らす。
「……面倒くさいわねぇ」
ぽつりと呟く。
それから、ちらりとルークを見る。
「でも、それ」
軽い口調のまま。
「ちゃんと持っときなさいよ」
一拍。
「その気持ち、捨てたら終わりだから」
ルークは答えない。
答えられない。
ただ、ゆっくりと拳を緩める。
それでも――
胸の奥に残ったままの感情は、消えない。
重く、苦しく。
けれど確かに、そこにあるまま。
静かに、広がっていった。




