逃げないことにしました
その日。姐さんは不在。
店には、ノエルとルークの二人だけだった。
昼の喧騒が落ち、客足は途切れかけている。
静けさが、店内にゆっくりと沈んでいた。
――その空気を、裂くように。
扉が、軋んだ。
ふらり、と入ってきたその人物は、この場所にはあまりにも似合わない。
アルディオン王国第三王子、アルシオン・アルディオン。
「やぁ」
軽い。
あまりにも軽い声だった。
ルークの手が止まる。
ノエルも、ゆっくりと顔を上げる。
「……何故あなたがここに?」
アルシオンは答えない。
ただ、楽しそうに店内を眺め――視線を、ノエルへと落とした。
「へぇ。可愛い服だね」
「……何故あなたがここに?」
声が、低くなる。
「なーにー? 怒ってる?」
にこにこと笑う。
その顔が、妙に白々しい。
「なぜここにいらっしゃるんですか? まさか――」
一歩、踏み込む。
「今まで私たちの行動を、ずっと見ていたんですか?」
一瞬だけ。
アルシオンの目が細くなる。
――だが、笑みは消えない。
その顔を見て、ノエルは悟る。
(……やっぱり)
全部、知っている。
アルシオンは肩をすくめた。
「侯爵令嬢がこんな所で働いてるなんて、いがーい」
間延びした声。
「あっ、実家帰ったら水かけられて追い出されたんだっけ?」
――空気が、凍る。
ルークの奥歯が、きしりと鳴る。
踏み出したい。
言い返したい。
それでも――できない。
ただ、拳だけが強く握られる。
「……よくご存知で」
ノエルは小さく息を吐く。
それ以上、感情は出さない。
「そりゃあね」
軽く返しながら、アルシオンは胸ポケットに手を入れる。
「そんな君に朗報」
取り出されたのは、一通の招待状。
「この度、我が兄――アルディオン王国第二王子、第一騎士団長アルファード・アルディオンと、ルミエラ・ヴァルグレイスの婚約が決まった」
紙が、ひらりと揺れる。
「そこでルミエラ嬢の成人の儀と婚約パーティーを行うことになってね」
すっと、差し出される。
「はい、招待状」
ノエルの指先が――止まる。
ほんの一瞬。
――ルミエラ。
胸の奥が、強く締まる。
呼吸が、浅くなる。
指先に、力が入る。
それでも。
受け取る。
紙が、やけに重い。
「二十歳を過ぎても社交界に顔を出さない、伝説の令嬢――ノエル・ヴァルグレイス嬢」
アルシオンは、わざとらしく一礼する。
「是非、私と一緒に行きませんか?」
沈黙。
「……行かなくていい」
ルークの声が、落ちた。
低く、押さえた声。
ノエルの指先が、ぴくりと震える。
アルシオンが、ゆっくりと視線を向ける。
「……奴隷の分際で、話に入ってくるな」
温度のない声。
空気が、一段落ちる。
ルークの拳が、さらに強く握られる。
血が滲むほどに。
それでも――何も言えない。
「ルーク、大丈夫よ」
ノエルが、静かに言う。
その声は穏やかだった。
けれど――そこには、頼らないという線があった。
ルークの喉が、わずかに動く。
言葉は、出ない。
ノエルは、手の中の招待状を見つめる。
――逃げたままでいいのか。
誰の声か、分からない。
けれど確かに、胸の奥に落ちる。
一瞬だけ。
ルークを見る。
それから。
もう一度、招待状へ視線を落とす。
指先に、力が入る。
そして――顔を上げた。
アルシオンを見る。
その軽い笑みの奥を、確かめるように。
「……分かりました」
静かに言う。
逃げない声だった。
アルシオンの口角が、わずかに上がる。
「最初からそう言えばいいんだよ」
満足げに肩をすくめる。
くるり、と背を向ける。
「じゃあ当日、迎えに来るから」
扉へ向かう。
その直前。
足を止める。
「――あぁ」
振り返る。
にこりと笑う。
「奴隷は連れてこないでね」
一瞬の静寂。
ルークの顔が、歪む。
何も言えない。
言えないまま、立ち尽くす。
アルシオンはそれを一瞥し、満足そうに目を細めた。
「じゃあね」
軽い声。
そのまま、扉が閉まる。
音が、消える。
しばらくの間――誰も動かなかった。
空気が、重い。
息が、わずかにしづらい。
さっきまでの静けさとは違う。
何かが、確実に残っている。
見えないまま。
消えないまま。
店の中に――沈んでいた。




