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本日のこと、忘れませんでした

――ヴァルグレイス侯爵邸。

重厚な門が開いた瞬間、空気が揺れた。


「……ノエル様?」

「本当に……?」

「ノエル様が、お戻りに――」


ざわめきが広がる。

使用人たちが、次々と顔を上げる。

驚きと、戸惑いと、わずかな安堵。


 


だが。


 


「――ヴァルカス公爵家との婚約破棄」


怒号が、すべてを切り裂いた。


「そして王に無理な願いをし、辺境の地の管理権をもらい、国からの命令・干渉を禁ずるとは……! ヴァルグレイス家の家名に泥を塗るような真似をして――のこのこと、よくも顔を出せたものだな」


父だった。

その目には、怒りしかない。


「そして――ルミエラに会わせろだと? 貴様のせいで、あの子は憔悴しきっているというのに」


 


沈黙が落ちる。


さきほどまでのざわめきは、跡形もなく消えていた。


 


ノエルは、まっすぐに立っている。

何も言わない。


 


父は踵を返し、奥へ消えた。


 


静寂。


誰も動かない。

視線だけが、痛いほどに刺さる。


 


やがて、荒い足音が戻ってくる。

父の手には、木のバケツ。


 


一瞬の間。


 


――バシャッ。


 


冷たい水が、容赦なく振り下ろされた。

衣服が張り付き、水が床へと滴る。


 


――どうして。


 


ほんの一瞬だけ、視線が揺れた。


 


どうして私は、ここにいてはいけないの?


 


喉まで出かけて――消えた。


 


「この疫病神め」


吐き捨てる声。


 


ノエルは動かない。


髪から水が落ち、頬を伝い、顎から滴る。

――拭わない。


 


「……お久しぶりです、お父様」


静かに言った。


 


沈黙。

父の眉が、わずかに歪む。


 


その少し後ろで、ルークはただ立っている。


濡れた床。

足元。


 


――一歩、出かける。


 


止まる。


 


視界に、ノエルの背中。


 


……止まった。


 


拳が、強く握られる。


 


ノエルは、ゆっくりと顔を上げる。


 


「……ルミエラに、会わせていただけますか?」


 


その声は――


静かすぎた。


 


「貴様になど会わせぬ」


短く、切り捨てる声。


 


ノエルは、濡れたまま立っている。


 


「……そうですか」


一拍。


「まぁ、ここにいないことは分かっていましたけれど」


わずかに肩をすくめる。


「今日は“会っていいか”の許可をいただきに来ただけですわ。……やっぱり、駄目でしたか」


 


水滴が、床に落ちる。


 


そのまま――


 


――笑った。


 


それは、笑顔の形をした何かだった。


 


「まぁ。元気そうなお父様のお顔を拝見できただけでも、来た甲斐はありましたわ」


 


父の眉が、ぴくりと動く。


 


「貴様に“お父様”などと呼ばれる筋合いはない」


 


「そうですか」


あっさりと返す。


 


「昔から思っていたのです。そこまで私を毛嫌いなさるのなら――この家の名から除名すればよろしいのに、と」


静かに言う。

まるで世間話のように。


 


「ふん」


鼻で笑う。


「利用できる駒如きが、何を偉そうに」


 


「――ええ」


ノエルは、頷いた。


 


「その“駒”ですけれど」


ゆっくりと顔を上げる。


濡れた髪の奥で、視線がまっすぐに父を捉える。


 


「二度にわたり、厄災を退けました」


一歩、踏み出す。

水が、足元でわずかに跳ねた。


 


「この家など――今すぐにでも、壊せます」


声は変わらない。

穏やかなまま。


 


「……ああ、それと」


ほんの少しだけ、首を傾ける。


「この国ですら、例外ではありませんわ」


 


沈黙。


空気が、重く沈む。

使用人たちが息を呑む。


 


「私、性格が悪いので」


濡れた髪をそのままに。


「本日のこと――忘れませんわ」


 


ほんの一瞬。


 


――息が、乱れた。


 


次の瞬間には、何事もなかったかのように整えられる。


 


ノエルは、くるりと踵を返した。


 


もう、何も見るものはない。


 


「……ルーク」


 


一拍。


 


「帰るわよ」


 


 


ルークは、わずかに顔を伏せたまま――従った。


 


 


背後では、誰も言葉を発さない。


 


 


水の滴る音だけが、長く残り続けていた。


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