静かになっただけでした
その後の話は、驚くほど早く進んだ。
アルヴェル・ヴァルカスとの婚約は正式に破棄され、書面はあっさりと整えられた。長い時間をかけて築かれたはずの関係は、まるで最初からなかったかのように、静かに切り離された。
そして――出立の日。
ヴァルカス邸の門の前には、多くの人が集まっていた。
レオニード、リリアーナ、そして使用人たち。
誰一人として、いつも通りの顔ではなかった。
「……本当に行くのだな」
レオニードが静かに言う。
ノエルは軽く微笑んだ。
「ええ。お世話になりました」
その言葉は丁寧で、けれどどこか距離があった。
一瞬の沈黙のあと、レオニードは視線を落とす。
「……アルヴェルにも声はかけたのだがな」
わずかに間を置く。
「忙しいとかで……顔を出せないそうだ」
ノエルは少しだけ目を細め、それから何事もなかったように肩をすくめた。
「忙しいことは喜ばしいことですわ」
軽い声音。
「せっかく自由になったんですもの。少し旅をして、ゆっくりしてから辺境へ戻ります」
その言葉に、誰もすぐには返せなかった。
リリアーナが一歩前に出る。
「……ノエル様」
呼び止める声は、わずかに震えていた。
「いつでも、遊びに来てくださいね」
ノエルは一瞬だけ表情を緩める。
「ええ。ありがとう、リリアーナ」
少しだけ、柔らかくなる声。
「近いうちに、お茶でもしましょうね」
その約束が守られるかどうか、誰も口にはしなかった。
使用人たちも口々に言葉をかける。
「お元気で」「どうかお気をつけて」「またいつでもお戻りください」
その一つ一つに、ノエルは笑って応えた。
けれど。
その笑顔は、ほんの少しだけ遠かった。
やがて、馬車が動き出す。
ノエルは振り返らない。
ただ前だけを見て、ゆっくりと屋敷を離れていく。
ルークはその隣で、何も言わずに座っていた。
――門が閉じる。
静寂が、残った。
⸻
屋敷の二階。
ひとつの窓から、その光景を見下ろす影があった。
アルヴェルだった。
遠ざかっていく馬車。
小さくなっていく後ろ姿。
視線は、最後まで外さなかった。
やがて、見えなくなる。
「……」
しばらく、何も言わない。
それから――
「やっと、静かになるな」
ぽつりと呟く。
誰に聞かせるでもなく。
息を吐く。
その声音は、いつも通りのはずだった。
けれど。
ほんのわずかに――遅れていた。
アルヴェルは窓から目を離し、背を向ける。
もう見るものはない。
そう言い聞かせるように。
足音が、静かに廊下へ消えていく。
屋敷は、確かに静かになった。
――あまりにも。
静かすぎるほどに。




