遅すぎたという、それだけの話だった
ーアルヴェル視点ー
ノエルが自由を勝ち取ってから、数日が経っていた。その日、俺は初めて自分から彼女を誘った。
「少し、付き合ってくれないか」
ノエルは一瞬だけ目を細め、それから肩をすくめる。「……何か企んでる?」軽い声音。「別に」短く返す。それ以上は言わなかった。
辿り着いた先は、街を外れた丘だった。風が抜ける。その先に――一面の紫。揺れる、揺れる。ラベンダーが視界の端まで咲き乱れている。
「……綺麗」
ノエルが素直に声を零し、そのまま花の中へと入っていく。
「ここは」背中に向けて口を開く。「母が――リリアーナを産む前に、連れてきてくれた場所だ。何かを決断する時、ここに来る」
「……そう」
それだけ。振り返らない。やがてノエルは花の中に紛れて姿を消した。
俺はその場に腰を下ろす。紫が揺れている。風の音だけが静かに流れる。
――ここに来ると、いつも思い出す。
「アルヴェル。いつも頑張ってるわね」
視線を上げると、そこには母がいた。優しく笑っている。
「はい、ご褒美」
頭に何かが乗せられる。「やめてください、母上」困ったように言うと、母はくすりと笑った。「とってもお似合いよ」
花冠だった。あの人は、よくこうしていた。何でもない日に。理由もなく。
「……」
現実に戻る。風が、少しだけ強く吹いた。
「――はい」
視界の上に影が落ちる。ノエルだった。気づけば目の前に立っている。
「……なにを」
言い切る前に、頭に何かが乗せられた。指先がわずかに触れる。花の感触。
「花冠」
ノエルが、にこりと笑う。「似合ってるわよ?」
――だが。
「私が眠っている半年の間、国が私の身柄を欲しがっていたのは聞きました」
まっすぐにこちらを見る。「それでも貴方とお義父様は、ずっと私を守ってくれていた」
一歩下がり、深く頭を下げる。「……ありがとうございます」
静寂。風の音だけが通り抜ける。
「それに」顔を上げる。いつもの笑顔。「いつも頑張っている貴方に、ご褒美。とっても素敵ですよ?」
その瞬間、視界が重なる。
「アルヴェル」「はい、ご褒美」「やめてください、母上」「とってもお似合いよ」
「――……っ」
息が詰まる。言葉が出ない。
分かってしまった。これは過去じゃない。今だ。同じことをされているのに――違う。母は“与えてくれた”。ノエルは――返している。
「……そうか」
ノエルは何も言わない。ただ、花の中に立っている。風が吹く。紫が揺れる。
それが――やけに綺麗に見えた。
「……ノエル・ヴァルグレイス」
呼ぶ。声は思ったよりも静かだった。ノエルが振り返る。
「婚約を――破棄しよう」
風が止まった気がした。ノエルは驚かない。ただ、まっすぐこちらを見る。
「……そう」
それだけ。
視線を逸らす。ラベンダーが揺れている。
――分かっている。これは最適解だ。君は自由を手に入れた。ならば――足枷など、必要ない。
それでも。
「……」
言葉が続かない。胸の奥が静かに軋む。遅すぎたのだと、理解してしまった。あの食卓も、あの笑顔も、あのどうでもいいやり取りも――すべて。
――十年。
父から、君の話を聞いていた。
強い娘だと。優秀だと。守る価値があると。
だから、疑いもしなかった。婚約が最適解だと。
――……違ったらしい。
あれは、最適解などではなかった。
ただ――
駒だと、思っていた。
「……」
言葉にならない。
いつからだ。
あれを、心地いいと感じるようになったのは。
あの距離を、不快ではないと思ったのは。
「……」
判断が遅い。
すべてが、遅い。
――これは、何だった。
結論は出ている。
だが――名前がつかない。
「……それが最適解だ」
一拍。
「――そうであるべきだ」
それでいい。
それでなければならない。
――遅かったな。
どうしようもなく。
⸻
ー帰宅後ー
屋敷に戻ると、ルークがすぐに歩み寄ってきた。
「お帰りなさいませ」
いつも通りの声音。
ノエルは軽く息を吐きながら、肩にかけていたショールを外す。
そのまま、無言で差し出す。
ルークが受け取る。
ほんの一瞬、指先が触れた。
「……婚約、破棄したわ」
ぽつり、と落とす。
ルークの手が、わずかに止まる。
「……そうですか」
それだけ。
何も聞かない。
何も言わない。
ノエルは、少しだけ笑った。
けれど。
その笑みは、どこか歪んでいた。
「自由になったわ」
軽く言う。
少しだけ、間があって。
「……ねぇ」
ルークが視線を向ける。
ノエルは、顔を上げる。
――泣きそうな顔だった。
それでも、無理やり笑おうとする。
「自由になるのって――」
言葉が、少しだけ揺れる。
「ちょっとだけ、辛いね」
静かに、そう言った。
沈黙。
ルークは、すぐには答えない。
視線を、わずかに落とす。
それから――
「それでも」
低く、静かな声。
「あなたが選んだものです」
一拍。
「なら、間違いではありません」
ノエルの目が、わずかに揺れる。
ルークは、それ以上何も言わない。
ただ、そこにいる。
「……うん」
小さく頷く。
その瞬間。
ほんの一瞬だけ、涙が滲んだ。
けれど――落ちる前に、消えた。
ノエルは、ふっと息を吐く。
今度は、さっきより少しだけ自然に笑った。
「ありがと」
その声は――
さっきより、少しだけ柔らかかった。




