戦場へ向かうことになりましたが、本当は逃げ出したいです。
出立の朝。
ヴァルカス邸の門前に、人が集まっていた。使用人たちが整列し、その後ろにアルヴェルとアルシオンが立っている。空気は静かだった。だが、その奥にあるものは重い。
一頭の馬。背には必要最低限の荷が括り付けられている。その傍で、ルークが最終確認をしていた。無駄のない動き。すでに準備は整っている。
「……ノエル様」
か細い声。リリアーナだった。その瞳は、すでに潤んでいる。
「どうしても……行かれるんですか?」
ノエルは振り返る。
「そうね。チャチャっと行ってくるわ」
軽い言い方だった。だが、その言葉の奥にある覚悟は、誰よりも重い。
「ローエンと一緒に、庭のことお願いね」
「……はい」
リリアーナは小さく頷く。それ以上、何も言えなかった。
ノエルは前を向き、アルヴェルの前へと歩み寄る。足音が止まる。
「ちゃんとご飯、食べてくださいね」
いつもと変わらない口調。だが、それは明らかに“別れの言葉”だった。
「……行くことを、認めていない」
低い声。アルヴェルだった。その言葉に、ノエルはわずかに目を細める。
「引き留めてくださっているんですか?」
ふっと笑う。
「ただ――私は、行くしかないんです。お義父様を助けに行かなければなりませんし……必ず、帰ってきます」
迷いのない声音。アルヴェルは何も言わない。ただ、見つめている。止める言葉は、最後まで出てこなかった。
ノエルはにこりと笑い、踵を返す。その視線がアルシオンへ向く。
「報酬、忘れないでくださいね」
念を押すように。
「王命だ。約束は守る」
アルシオンは軽く返す。だが、その目は真剣だった。
「なら安心ですわ」
ノエルは満足そうに頷く。
「ルーク」
「準備は整っております」
短い返答。それだけで、すべてが揃う。
ノエルは迷いなく馬に手をかけ、その背に乗る。振り返らない。
「――行ってまいります」
静かに告げる。
次の瞬間、馬が動き出す。門を抜け、その背が遠ざかる。誰も、呼び止めなかった。
ただ一人。アルヴェルだけが動かない。握られた拳に、わずかに力が込められる。だが、その手は最後まで開かれなかった。
朝の光が、静かに差し込んでいた。
⸻
街道を外れ、道は次第に細くなっていた。木々が増え、光が減る。空気が、重くなる。
一頭の馬。その背に、二人の影が重なっていた。前にルーク、後ろにノエル。
「……怖い」
ぽつりと落ちる声。
「そうだな」
ルークは短く答える。しばらく、風の音だけが続いた。
「ルークは、怖くない?」
「怖いよ。とってもな」
軽く言う。だが、その声に嘘はない。
ノエルは少しだけ俯く。
「……このまま、逃げちゃいたい」
本音だった。ルークは何も言わない。否定もしない。ただ、手綱を握る力がわずかに強くなる。
「でも」
ノエルが顔を上げる。
「逃げたら――たくさんの命が、失われる。たくさんの人が、泣いてしまう」
言い聞かせるような声。風が二人の間を抜けていく。
「……それでもさ」
ノエルが少しだけ笑う。
「二人だけの世界に、行きたい」
「それは楽しそうだな」
ルークがあっさりと返す。その答えに、ノエルはくすりと笑った。
「でしょ?」
一瞬だけ空気が軽くなる。
「私が、ルークを守ってあげる」
胸を張るように言う。
「それはこっちの台詞だろ。どんだけやらされたと思ってるんだよ」
ルークが肩をすくめる。
「ほんとそれ。あのおじさん、容赦なさすぎなのよ」
「朝から晩まで剣、魔法、体術。休憩?なにそれって感じだったわよね」
二人の声が重なる。
「十年だぞ?」
ルークが呆れたように言う。
「普通死ぬって」
「生きてるのが奇跡よ」
ノエルが笑う。
「それなのに」
ふっと前を見る。
「レオニードさんが魔物にやられるとかさ……ありえないでしょ」
「だな」
ルークも同じ方向を見る。
「会ったら文句言ってやる。“何してんのよ”って」
「絶対言えよ。横で聞いてるから」
「一緒に言いなさいよ」
「それは無理だ」
「なんでよ」
「怖いから」
一瞬の沈黙。そして、ノエルが声を上げて笑った。その笑いは強がりだった。それでも、確かに前を向いていた。
森はすぐそこまで迫っている。空気がさらに重くなる。それでも馬は止まらない。二人も止まらない。進むしか、なかった。




