聖女の浄化が通じず、光が暴走しました。
魔素の森は、空気そのものが異質だった。重い。湿っているわけでもないのに、肺の奥にまとわりつく。踏みしめる土は黒く、腐敗したような匂いが微かに漂っていた。
「……魔素が濃いな」
レオニードが低く呟く。同時に、口元を押さえた。わずかな仕草。だが、それだけでこの場の異常さが伝わる。
「団長……」
近くの騎士が息を詰める。
「問題ない」
短く切り捨てる。だが、呼吸はわずかに重い。
後方では、白い衣を纏った少女が立っていた。ルミエラ。周囲の空気と明らかに相容れない存在だった。
「ルミエラ、大丈夫か」
アルファードが振り返る。視線は鋭いが、その奥に確かな気遣いがある。
「えぇ……大丈夫ですわ」
微笑む。だが、顔色は悪い。白い肌がさらに青く見える。指先が、わずかに震えていた。
アルファードは一歩、距離を詰める。
「第一騎士団長、アルファード・アルディオンが責任を持ってお前を守る」
迷いのない宣言。周囲の騎士たちが、わずかに背筋を正す。
「ありがとうございます、アルファード様」
ルミエラは静かに頭を下げた。
その瞬間。
――ざわり。
森が、揺れた。
風ではない。音でもない。だが、確実に“何か”が近づいてくる。
「来るぞ」
レオニードの声が落ちる。
次の瞬間、影が弾けた。
木々の間から、異形が飛び出す。歪んだ四肢、濁った瞳。魔素に侵された魔物たちが、群れをなして襲いかかってきた。
「前へ出る!」
レオニードが一歩踏み出す。その動きに迷いはない。次の瞬間、剣が閃く。
――斬る。
一体、二体、三体。
肉が裂け、血が飛び散る。だが、それでも止まらない。倒しても倒しても、後ろから湧いてくる。
「数が多い!」
「囲まれるぞ!」
怒号が飛び交う。だが、足は止まらない。
「下がるな!」
レオニードの声が叩きつけられる。
「ここで崩れれば終わりだ!」
その背は揺るがない。最前線に立ち、すべてを受け止める。
後方。
ルミエラの呼吸が乱れていた。
「いや……」
小さく、漏れる。
「いや……怖い……」
視界が揺れる。耳鳴りがする。魔素が、身体の中に入り込んでくるようだった。
「いやよ……」
膝が震える。
「いや……いや……」
声が崩れる。
その瞬間、魔物の一体が後方へと回り込む。
「ルミエラ!」
アルファードが剣を抜く。
間に合わない。
――その刹那。
一閃。
魔物の首が飛んだ。
血飛沫の向こうに、レオニードの姿があった。
「気を抜くな」
短く言い捨てる。そのまま再び前線へ戻る。
「……っ」
ルミエラは息を詰める。震えが止まらない。それでも、倒れるわけにはいかなかった。
「浄化を……」
か細い声。
震える手を、前へと伸ばす。
淡い光が、にじむように広がる。
だが――
その光は、森に飲まれていく。
魔素の濃度が、あまりにも高すぎる。
「……っ」
膝が、崩れそうになる。
それでも。
「……やらなければ……」
歯を食いしばる。
前では、まだ剣が振るわれている。
終わりが見えない。
斬っても、斬っても、湧いてくる。
森そのものが、敵だった。
呼吸をするたびに、侵されていく。
足元が揺らぐ。
視界が滲む。
それでも。
止まれば、終わる。
――地獄だった。
そのとき。
「……っ、団長!」
前線の騎士の一人が声を上げる。レオニードの足元。斬り伏せたはずの魔物の死骸が――動いた。
「再生……!?」
肉が蠢く。裂けたはずの四肢が、無理やり繋がる。濁った瞳が、再び光を宿す。
「……魔素が、死骸を……」
誰かの声が震える。
「黙れ」
レオニードが一歩踏み込む。
――斬る。
今度は躊躇なく“核ごと”叩き潰す。肉片が飛び散り、完全に沈黙する。
だが。
「……キリがないな」
低く吐き捨てる。視界の端で、倒れた魔物がまた一つ、ゆっくりと起き上がる。終わらない。
「隊列を維持しろ!ルミエラ様を中心に円を組め!」
騎士たちが即座に動く。盾が重なり、陣形が組まれる。
その中心で、ルミエラは膝をついていた。
「……っ、は……」
呼吸が浅い。視界が暗くなる。
「ルミエラ!」
アルファードが駆け寄る。
「立てるか」
「……だい、じょうぶ……」
言葉になっていない。その手をアルファードが掴む。強く、確かに。
「俺がいる」
短い言葉。それだけで、揺らぎかけた意識がかろうじて繋ぎ止められる。
「……はい……」
ルミエラは震える手を再び前へと差し出した。
光が灯る。さきほどよりも弱い。それでも。
「――浄化」
淡い光が円を描くように広がる。
その瞬間。
――ギャァァァァァァァ!!
魔物たちが一斉に叫ぶ。肉が焼け、黒い霧が弾ける。
「効いている……!」
騎士の一人が叫ぶ。
だが。
光は、途中で歪んだ。
「……え?」
ルミエラの視界が揺れる。光が曲がる。魔素に押し返されるように歪んでいく。
「……っ」
体が言うことを聞かない。限界だった。
その瞬間。
――ドクン。
何かが、脈打った。ルミエラの中で。
「……え……?」
胸の奥。光ではない、別の“何か”がわずかに滲む。
「……いや……」
それは恐怖だった。純粋な“光”であるはずの聖女に、混じってはいけないもの。
「いや……いや……っ」
感情が溢れる。
その瞬間。
――光が、暴れた。
制御を失った光が爆ぜる。
「っ、下がれ!!」
アルファードが叫ぶ。
閃光。視界が白に染まる。
次の瞬間。森の一角が抉れていた。魔物も木々も、まとめて消し飛んでいる。
静寂。誰も、動けなかった。
「……今のは……」
騎士の誰かが呟く。
その中心で、ルミエラは立っていた。
だが――その瞳は、わずかに濁っていた。




