父親に奪われそうになりました
応接間の空気は、重かった。静まり返った空間に、杖の先が床を叩く音だけが響く。乾いた音が、一度、二度。まるで支配を誇示するかのように。扉の前に立つのは、ヴァルグレイス侯爵だった。視線はまっすぐにノエルへ向けられているが、その目にあるのは親が子に向ける温度ではない。
「……久しいな」
その声音に、懐かしさは欠片もなかった。ノエルは何も答えない。ただ、静かに立っているだけだ。
「十五年前、厄災を抑えたそうだな。……報告は受けていたが、わざわざ会う価値もないと思っていた」
淡々と、言い放たれる。
その言葉を。
ノエルは、ただ聞いていた。
驚きも、怒りも、浮かばない。
――ああ、やっぱり。
心のどこかで、ずっと分かっていたことだ。
十年。
一度も呼ばれなかった。
一度も、名を呼ばれなかった。
それでも、どこかで期待していた。
ほんの少しでも――
違う言葉を。
だが。
それも、今、終わった。
「だが、それも終わりだ」
侯爵は一歩、踏み込む。視線が、ノエルの背後へ流れる。ルークへ。
「その男を寄越せ」
短く、断定的な言葉だった。
「光魔法の保持者だと聞く。国にとって必要な存在だ。奴隷契約などという不合理なものは破棄させる。引き渡せ」
ルークの指が、わずかに動く。拳が、静かに握られる。血が滲むほどに力が込められているのが分かった。だが、何も言わない。動かない。ただ、ノエルの後ろに立ち続ける。
ノエルも、黙っていた。
ただ。
さっきまでとは、少しだけ違った。
視線は逸らさない。
その奥にあった“期待”が、消えただけだ。
「……どうした」
侯爵が眉をひそめる。
「返事はどうした。まさか、断るつもりではあるまいな」
沈黙。
ほんの一瞬。
その間を、別の声が割った。
「その要求は、成立しません」
低く、落ち着いた声。アルヴェルだった。一歩、前へ出る。その動きだけで、空気の主導権が移る。
「何だと?」
侯爵の視線が向く。
「彼は現在、ヴァルカス公爵家の庇護下にあります。契約の有効性も確認済み。法的にも問題はない」
淡々と、事実だけを並べる。
「戯言を。奴隷契約など――」
「貴族間で正式に認められた契約です」
言葉を遮る。声を荒げることなく、ただ事実で押し切る。
「加えて、ノエル嬢は先日より当家との婚約関係に入っております。既に王都への届け出も済ませております」
空気が、止まる。
「……何?」
侯爵の声が低くなる。
その瞬間、レオニードがゆっくりと口を開いた。
「我が家が責任を持つ、ということだ」
一歩も引かない声音だった。
「貴殿の“処分対象”ではなくなった。理解いただけるか」
静かだが、圧がある。逃げ場を与えない言い方だった。
侯爵の視線が揺れる。ノエルへ、ルークへ、そして再びアルヴェルへ。
「……たかが厄災を抑えただけの小娘に、そこまでの価値があると?」
吐き捨てるように言う。
その言葉に、ルークの拳がさらに強く握られる。
だが。
その時だった。
「あります」
静かな声だった。
ノエルだった。
全員の視線が、集まる。
「価値の話ではありません」
一歩、前に出る。
「その人だけは絶対に渡せません」
それだけだった。
だが、その一言には。
十五年分の沈黙が、乗っていた。
「私は、ここにいる」
続ける。
「選んだのは、私だから」
侯爵の顔が、わずかに歪む。
ノエルは、まっすぐ見返した。
もう、逸らさなかった。
⸻
応接間の空気は、まだ張り詰めたままだった。侯爵の視線がノエルを射抜き、その余波のように空気が軋む。だが、ルークの耳にはもう、その声はほとんど届いていなかった。聞こえているのは、自分の鼓動だけだ。やけにうるさい。頭の奥で、何度も同じ言葉が反響する。
――会う価値もない。
拳が、軋む。気づけば、爪が食い込んでいた。痛みはあるはずなのに、何も感じない。ただ、熱だけがあった。胸の奥で、ずっと燻っていたものが、一気に火を吹きそうになる。
十五年だ。
この人は、十五年、あの人を見なかった。
呼ばなかった。
名前すら、呼ばなかった。
それなのに今さら、奪う?
ふざけるな。
喉の奥まで言葉がせり上がる。今すぐ吐き出せば楽になる。全部ぶつけてしまえばいい。目の前の男の、その顔ごと叩き潰してやれば――
「……ルーク」
その声で、止まった。
ほんの一言。
それだけで、全部が止まる。
視界が戻る。ノエルの背中が見える。細い。頼りないはずの背中なのに、不思議と揺れていなかった。
歯を食いしばる。
違う。
違うだろ。
俺が出る場面じゃない。
これは――あの人が、選んだ場所だ。
「……っ」
息を吐く。震えが、まだ残っている。だが、それでも、足は動かない。前には出ない。ただ、後ろに立つ。それが、自分の役割だ。
守ると決めた。
あの時。
あの人に拾われた時に。
名前を呼ばれた、その瞬間に。
「……チッ」
小さく、舌打ちが漏れる。
抑えきれなかった。
誰にも聞こえない程度の、ほんの小さな音。
だが、その奥にあるものは、隠しきれない。
怒りも。
悔しさも。
全部、そこにあった。
それでも、顔は上げない。
視線は、ただ一人に向いている。
――あんたが決めろ。
その背中に、すべてを預ける。
それが、今の俺にできる、唯一のことだから。




