逃げないと、決めました
村に着いた瞬間、空気が違った。鉄のような匂いが鼻を刺す。血だ。
視界の先――魔獣の群れ。歪んだ体、ねじれた四肢。理を外れた動きで、大地を踏み荒らしている。
ノエルは、足を止めた。
「……っ」
息が詰まる。初めて見る、“異形”。理解が追いつかない。体が本能的に後ずさる。
――怖い。
その瞬間、一人が倒れた。鈍い音。地面に叩きつけられる。
「……っ、あ……」
知っている顔だった。いつも畑の話をしてくれた人。ぶっきらぼうに芋を差し出してくれた人。
「おじさん……!」
駆け寄ろうとして、足が止まる。動けない。足が、震えている。
その間にも――また一人。また一人と、倒れていく。
叫び声。怒号。何かが砕ける音。全部がぐちゃぐちゃに混ざって、現実じゃないみたいだった。
(……無理)
心が、呟く。
(こんなの……無理だよ)
逃げたい。今すぐ、ここから。
朝。ガランが言っていた。騎士団に連絡を入れる、と。
(……きっと、来る)
もう少し待てば。
(助かるかもしれない)
なら――逃げても、いいんじゃないか。
そのとき、視界の端で土が抉られた。畑だった。
まだ収穫していない、あのじゃがいも。
(……あれは)
喉の奥が、締まる。
(みんながくれたものだ)
数日分の食事を削って、未来を預けてくれた。
(ここで逃げたら)
村も、あの畑も、全部なくなる。
わかってる。自分が無力なことも。ここが、自分の立つ場所じゃないことも。子供が来ていい場所じゃない。そんなこと、最初から。
全部――わかってる。
それでも。
(……でも)
ノエルは、拳を握る。震えは、止まらない。心臓が壊れそうなほど鳴っている。
それでも、一歩、前に出た。
「……っ」
息を、吸う。
(私は)
(命を、預かった)
脳裏に浮かぶ。あの日、差し出されたじゃがいも。
「……持ってけ」
あの声。あの手。
(なら――)
「……私も」
声が、震える。それでも、絞り出す。
「……命、かけるしかないでしょ……!」
涙が、頬を伝う。怖い。今でも、逃げたい。
それでも。
ノエルは、顔を上げた。
その目は、もう逸れていない。魔獣を、まっすぐに見据える。
――逃げない。
その一歩は、勇気じゃない。
覚悟だった。




