二章 十八丁 伝説の真偽
崖から落ちる人影を目の当たりにして、少女と農夫は、思わず悲痛な声を上げた。その間にも、碧眼の男は転落した者の身を案じ、一目散に駆け出していた。
男の素早い身の熟しについて行けず、残された農夫はどうすべきか迷った末に、怪我人を救出するのならば、人出は多い方が良いと考え、少女の腕を取った。
その時、ふと月光を妨げていた雲が流れ、滝裏の洞窟が、月明かりに照らし出された。
少女と中老は、動きを揃えて洞窟へ首を向ける。
窟が暗闇に浮かび上がっただけなら、二人がそこで足を止める事はなかったのだが、旅商人と平助が潜り込んだ洞窟から、一本の松明の火が現れたのである。
七人の内の誰かが戻って来たと中老は喜んで、松明を持つ人影に目を凝らす。
しかし、静止した人影は、身体を真っ直ぐに中老へ向け、ずっと洞口から動こうとはしない。何をするでもなく、ただ農夫と少女の方角をじっと見詰めている。
「平助!」
少時眺めてから、それが同郷の平助であることを農夫は見極め、つい嬉しくなって腕を振ろうとした。その途端――、平助はするりと松明を足元へ落とした。
地に横たわる松明が、下から平助の身体を照らし、その全容を思い知った農夫は、朗らかな顔を一瞬にして凍り付かせた。
平助の全身は血泥だらけで、目は見開かれたまま涙が伝い、そして口からは唾液の混ざった血が流れ出ている。歪に曲がった右腕を押さえながら、がたがたと不規則に唇を震わせる姿は、正気とは思えなかった。
目の前の滝壺が見えていないのか、平助は血が滲む片脚を引き摺って歩き出し、そのまま進み続ければ、滝壺へ落ちてしまう危険がある。
「…いた……ッ…本当に……怪…物………ッ、 い…やだ……死――」
まさにつま先が、水面に触れたその時。
平助は、躍り出た怪物に、一口で呑み込まれた。
月光の下に、醜い上躯を曝け出した巨体の化け物は、滝水を盛大に飛ばし、激しく地揺れを起こしながら、半身を洞窟から這い出そうとする。
その胴体は、蟻のように一部くびれ、蜘蛛に酷似した六本の脚すべてに鋭利な爪がある。この怪物は如何ほどの年月を生きたのか、爪や身体は所々苔生していた。
耳まで裂けた巨大な口には、牛と同様に前歯が無く、だらしなく開いた下顎からは長い舌が垂れ下がり、大量の唾液が滝水と共に流れてゆく。
上に湾曲した角と牛に似た容貌から、この怪物は牛鬼と名付けられ、祟りを纏い禍をもたらす伝承は、太古より人々を震撼させた。
そして目にした者が、何より恐れを抱くのは、巨顔に並ぶ六つの目玉。横一列に並んだ血走った赤い目玉は、まるで得物を探すよう、不規則に辺りを見回している。
やがて牛鬼は、夜空に浮かぶ月を見付けると、身体を精一杯伸ばし、呆けた顔で上空を見上げた。
「う…ッうわああああああ !!!!」
運良く木に引っ掛かり一命を取り留めた漁太は、牛鬼を見た恐怖で錯乱し、慌てふためいて木から落ちた。それからすぐに身を起こし、牛鬼に向かって刀を投げ付けようと、腕と体を反り返らせる。
そこへ、あわや碧眼の男が駆け付け、高々と振り上げた漁太の腕を掴んで食い止めた。
不用意に攻撃を仕掛けて牛鬼を刺激すれば、一同を襲う恐れがある。それが現実となれば、この穴底の者は逃げ場もなく、平助と同じ末路を辿るだろう。
碧眼の男は、尚も暴れる漁太を力で押さえ付け、此方の敵意に勘付いた牛鬼が、気を昂ぶらせ襲い来たるのではと、険しい面持ちで滝を見詰めた。
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