二章 十九丁 伝説の真偽
だが、男の焦りとは裏腹に、牛鬼は未だうっとりとした表情で月を見上げ、尻を半分洞窟に隠したまま、滝壺から動く気配はなかった。
「ひゃはははっ!! 出やがった !! いいかてめぇら !! よーく狙えよ !!」
賊達は牛鬼の出現に歓呼し、漁太達の頭上となる崖際から矢を放った。
矢は狙い通りに、体や頭に突き刺さり、傷口からは桑の実色の血が少し流れたが、牛鬼は痛みを感じていない様子で、平然と月を眺め続けている。
その雑に射掛けた矢の一本が、六つ眼の一つを穿ち――。
牛鬼は痛みに身悶え、哮り立つ様な叫びを上げた。
巨体が暴れ回るその衝撃で岸壁が剥がれ、三人の頭上に石塊が降り注ぐ。
怒りを露わにした牛鬼は咆吼を上げて、弓を穿つ賊達ではなく、あろう事か、その真下に位置する男達へと身体を向けた。
漁太が、攻撃を止めるよう死に物狂いで乞うても、賊は己に危険が無いのを良い事に、余計に勢い付いて引っ切りなしに弓を引く。
顔面に飛来する矢の数々に煽られた牛鬼は、遂に、岩を薙ぎ倒しながら崖下にいる男達へ突進する。
地を揺らし、此方へ迫る牛鬼に泣き叫ぶ漁太と、傷を負って動けぬ利吉の二人を、碧眼の男は背後に庇い、刀の柄に指を掛けた。
男が刀を抜こうと指先に力を込めた直後。
巨躯へと身を変じた犬神が、牛鬼の背に飛び掛かり、その皮膚を食い千切った。
激痛に襲われた牛鬼は足を止め、尚一層、背中に喰らい付く犬神を引き剥がそうと、左右に身を振り乱した。
体躯や力が劣る犬神は、身体が浮き上がり、胴と手足が激しく宙を暴れ、堪らず顎を放した。
振り落とされた犬神は、器用に身を捻って着地すると、牛鬼の身体を飛び越え、碧眼の男の元へ参じた。そして、牛鬼の前に立ち塞かり、主人を護る番犬のように果敢に吠え立てる。
哮る犬神を見て、牛鬼はおどおどと後退し、前足で顔を覆いながら、洞窟の中へと再び尻を戻そうとしている。
見た目に反したその臆病な様子に、碧眼の男は眉を顰め、牛鬼の身体に今一度目を凝らした。
牛鬼の全身には錆びた槍や刀、矢と思しき武器が数え切れないほど突き立てられ、その殆どが皮膚に食い込んだまま、傷が塞がってしまっている。
身を動かす度に、切っ先が体内を傷付け、それ故に動作がぎこちなく、衰弱しているのだと窺い知った。
そのまま窟の中へ、牛鬼は戻って行くかに思われた。が、一同の期待に背き、半身が穴に潜り込む手前で動きを止めた。そうして、豪快な音を立てて鼻から空気を吸い込み、真っ赤に血走った目をすべて見開く。
「匂う……」
蕪雑ではあるが牛鬼は突然人語を発すると、目玉を激しく動かし、辺りをそわそわと探り始めた。
牛鬼が動けば、木々は根刮ぎ倒れ、足を置いた巨石には罅が入り、真っ二つに割れて砕けた岩が、水飛沫を上げて滝壺へ落ちてゆく。
「…良い匂い…お…とあ……乙…外娃…様ぁ…。 乙外娃様のぉお………匂い……」
鼻を激しく上下させて口走る牛鬼に、一同は息を潜め身構えた。
だが、忙しなく動いていた牛鬼はやがて静止し、見開かれた五つの目玉は、一斉に左の方角へと傾いた。
――碧眼の男の背筋がひやりと彌立つ。
牛鬼が見詰める視線の先には、焚火の近くで腰を抜かしている中老と、少女の姿がある。
怪物と視線が合った少女は、小さく悲鳴を上げ、蹌踉めいたその身体が、へたり込む農夫にぶつかった。
「乙外娃様ぁああああ !!!」
高揚した牛鬼は、涎を飛び散らせ奇声を発しながら、少女と農夫の元へその巨体を走らせる。
「ひぃいいっ!!!」
「ひっ!!」
前方の岩を粉砕し、跳ね上がるように猛進する牛鬼への恐怖で、中老は頭を抱えて地に蹲り、少女もその背に抱き付いて顔を埋めた。
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