二章 十一丁 淵へ入りて
「食わぬなら寄越せー!! ワシのじゃー!!」
「きゃぁ――はは! くすぐったい!」
鳴り止まぬ鼓動を静めていると、涎を垂らした犬神が背中に飛び付き、少女の掌には半量のクッキーが溢れた。やると言っていた筈が、犬神はクッキーを舌で巻き上げ貪り食う。
何度も掌を舐められ笑い転げる少女は、美味い美味いと唸り食う犬神の声に、ふと親しみを覚えた。
「その声! お犬さまがずっとおしゃべりしてたの? 可愛い!」
野衾と蟒蛇へ啖呵を切っていたのは、碧眼の男ではなく、首巻に扮していた犬神の方であった。そう気が付いた少女は、命を救われた喜びが再燃し、嬉々として犬神の柔らかい身体へ抱き付いた。
幸せそうに被毛を撫でる少女を、微笑ましく眺めていた碧眼の男だが、生い茂る木々の向こうから何かの気配を感じ取り、じっと暗闇を 凝望 した。
そう遠くない木立から、鬼火のような赤い火の玉がゆらゆらと、乱雑に伸びた木々を躱し、此方へ向かって来ている。
その宙を揺らぐ火は、地面を擦るかと思えばまた上昇し、岩群を照らしながら左右に屈曲して移動すると――、やがて止まった。そして、三つの巨石を挟んだ向こう側から、火は唐突に口を利いた。
「気が付かれたようですな」
「わっ!! だ、だれ !?」
暗闇から聞こえた何者かの声に、少女は飛び上がり犬神にしがみ付いた。
火は再び忙しなく上下し、砂利を踏み鳴らす音を立てて、此方へやって来る。
宙に浮かぶ火が足音を立てるなど、まず起こり得ない現象だろう。
正体を察した碧眼の男は、覆いを目深に被ると、少女の小さな身体をやんわり引き寄せた。
よく目を凝らせば、火は細長い木の棒に繋がり、ゆっくり揺動しながら後ろへ下がって、程なく一人の男の顔を暗闇から浮かばせた。
男の歳は、五十半ばだろうか。
警戒のあまりじっと固まる二人に気が付いた中老の男は、目尻に細かい皺を寄せて、にこやかに振る舞う。
腕に持つ松明で、その顔は薄気味悪く茫と照らされているが、賊とは違って柔和な風貌であるため、少女は全く恐れを感じなかった。
「良かったのぉ、お嬢ちゃん。 話しかけたんだがぁ泣きじゃくって、そのまま寝ちまったんでどうしようもなくてなぁ」
中老の男は、不安定な足場を転ばぬよう慎重によろよろと踏み越え、孫を見るような穏やかな眼差しで少女へ笑いかける。その姿は、何処からどう見ても、気の良い農民にしか見えない。
何故、人里からかけ離れた山奥の崖下に老人がいるのか、腑に落ちない碧眼の男は、意図を探るため暫く様子を見ることにした。
そうして碧眼の男が口を噤んでいると、中老の男は真横に茂る低木の枝を片腕で掻き分け、努めて明るく一同へ言った。
「丁度ぉ魚が焼けたんで、彼方で一緒にどうですかい?」
農夫が、松明を持つ腕で指し示した暗闇の中には、ぽつんと焚火の明かりが目立ち、その小高い山の上で灯された火の傍に、二人の男が腰掛けている。
中老が松明をゆらゆら左右に振ると、遠い距離にあり親指ほどの大きさに見える焚火の男達も、ちゃんと此方に手を振り返した。
縦穴の先客であるこの者達にも何か事情があるのだろうと考え、警戒を解いた碧眼の男は少女と共に、枯葉の山を下りた。そして、少女の手を取り、一先ずはこの中老の男へ付いて行くことに決めた。
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