二章 十丁 淵へ入りて
静寂の中、少女の頭を撫でていると、瞼を腫らして眠っている少女の左頬に、赤みが差している事に男は気が付いた。
人を殴る際に一番手近な部位が顔である事は多い。見覚えのない痣に男は眉を顰め、自分が意識を手放している間に一体何があったのか、闇夜に切り立つ岸壁を見上げ思慮に耽った。
岩肌に程近い位置で自分は寝転がり、身体は枯葉の山に埋もれ、少女には見覚えのない痣がある。
様々な要因を繋ぎ合わせ、自分は少女と共に岸壁から落とされたのではないかと、男はすぐに状況を理解した。そして更に、頬を撫でる風の温度と、夜空に鏤められる星の数や位置で、今は真夜九つ頃だと、男は簡単に時刻と方角を割り出した。
「お侍…さま…?」
男が思考を巡らせているうちに、目を覚ました少女はいつの間にか、男を寝惚け眼で見詰めている。
碧眼の男は少女の頭を撫でる手を止めずに、黙って少女を見詰め返した。鬼面が取り払われたその顔立ちは、常に何処か物悲しく寂寞とした印象を抱いてしまうが、残涙の残る少女を撫でるこの時ばかりは、男の表情は穏やかだった。
見詰め返される澄んだ碧眼の瞳を凝視するうちに、次第に頭が冴えてきた少女は、突然小動物のように素早く身を起こした。そして、男が生きていた驚喜からその瞳は潤み、徐々に少女の頬は興奮で赤らんでくる。
少女は昂ぶった様子で、男へ口を開こうと空気を吸い込んだ途端。少女の胃袋は轟音を発し、その音は崖底に鳴り響いた。大の大人に負けず劣らぬ腹鳴に、少女の顔は一瞬で真っ赤に染まり、恥じらうあまり背中を丸め、腹を押さえて俯いてしまう。
突然鳴り響いた低音により、未だ意識がぼんやりとしていた男は脳が覚醒した様子で、数度瞬きを繰り返し、 紅潮 する少女の顔をきょとんと見詰めた。
「ご…ごめんなさい…!」
居たたまれなくなり少女は目を潤ませ、男から離れようと枯葉の山を掻き分けた。しかし、そんな少女のか細い腕を男は握り、その場に引き留めると、未だ枯葉に埋まったままの己の身体を、何やらごそごそ探り始めた。
男が身体を動かす度に、枯葉の乾いた音が鳴り、荷を探る左肩から段々と身体は落ち葉の中へ沈んでゆく。
漸く腰の帯に括り付けていた荷を取り出せた男は、枯れ葉の海から腕を引き抜き、少女の前に何かを差し出した。
男の差し出した腕からは、落ち葉たちがはらはらと滑り落ち、その指先には可愛らしい鮮やかな鞠柄の入った、小さな巾着袋が握られている。
「え…?くれるの…?」
少女の問いに、男は無言で頷き上半身を起こすと、落ち葉に埋まっていた男の片膝が顔を出す。男の施しを遠慮からか直ぐに受け取らない少女へ、男はもう一度頷くと、ゆっくり贈り物を少女へ近付けた。
好意的に差し出される 巾着 を見て、少女はやがて両手を伸ばし、その小さい掌に乗った巾着袋は丁度良い大きさで納まった。贈り物を受け取り、今度はちらりと男を見詰める少女へ、碧眼の男はどうぞという顔で両眉を少し上げた。
男に促されるまま、少女は丁寧に袋の口を開けると、二重の和紙に包まれた、見た事のない小麦色の丸い塊が、ぎっしりと袋の中には詰まっていた。その一つを少女は取り出し、自身の親指ほどのそれを眺め、これは何かと窺うように再度男の顔を見詰めた。
「ワシのクイキーっ!!」
少女が取り出した茶色い塊を見るや、犬神は感情的に立ち上がり、大声で少女を威嚇した。
だが少女の身体が驚きで跳ね上がったのを見て、犬神は瞬時に怒りを静め、暫し沈黙した後に岩の上をくるりと一周すると、先程と同じ姿勢で座り直した。そして余裕を表わすように尾を数回優雅に振って見せ、 今方 の 叫喚 をなかった事にした。
「…まぁよいか。美味いぞ食え」
いじけた様子の犬神が言った通り、袋を開けてからずっと、香ばしい食欲をそそる甘い香りが、少女の鼻先を擽っている。
「…ありがとう…!」
その香りに釣られ再び腹が鳴っては恥じらいがある為、少女は二人に礼を言うと、上品に一つだけ口の中に丸い塊を放り込んだ。
口の中で歯を一度立てただけで塊は簡単に砕け、噛む度に小麦や大豆、栗の風味と砂糖の甘みが口一杯に広がり。食べた事のない菓子の味と食感に、少女の顔には自然と笑みが溢れ、口に入れたたった一つを時間を掛けてじっくりと味わった。
「甘い!さくさくで美味しい!」
少女は菓子の美味しさに、すっかり興奮した様子で身を乗り出し、弾けんばかりの笑みで、男へ喜びを伝えた。すると、碧眼の男は思わず顔が綻び、初めて少女に笑顔を見せた。
自身に向けられたその穏やかな笑みに、少女の鼓動は跳ね上がり、顔に沸き立つほどの熱を感じた。そして、 紅潮 を恥じらう少女は胸に巾着を抱えたまま、慌てて男へ背中を向けた。
©️2025 嵬動新九
※盗作・転載・無断使用厳禁
※コピーペースト・スクリーンショット禁止
※ご観覧以外でのPDF、TXTの利用禁止




