二章 九丁 淵へ入りて
碧眼の男は夢を見ていた。
柳枝垂れる泉の水面に、満月が映ずる美しい庭園。
それは男が、一度も眺めた事のない景色だった。
しかし不思議と、水面に浮かぶ蓮の花には心が騷めき。揺らめく水鏡の満月に根を下ろし、月へ花弁を向けるその姿はとても儚く美しい。
美しけれども、柳の傍らに腰掛ける一人の女は、蓮の花も、飾られた庭園の情景も、相感せずと心にとめて見てはいない。
柳に身を預け、泉水にしなやかな足を漬つる黒髪の女は、背から細く流れ落ちる血と、艶めく長い髪を地に垂らし――。死を前に、月光を映し出す水面を見詰めているだけなのだろう。
傍で佇む青年すら、女がどの様な面持ちでいるのか、その背から窺い知る事はできない。
だが、 今紫 の羽織を着た青年には、その心は透けて見えていた。
『 悠久 を得ても尚……、瞋恚の炎はまだ…消え遣らぬのですか…』
長い睫毛を伏せ、 憂愁 を帯びて尋ねた青年は、まるで風を誘い、止まった時を動かしたかのようだった。
『…このまま人として果てるか……人に仇なす鬼となり…、お前を殺すか』
青年の問い掛けに、女は情動すら込めず衰弱した声を発した。
風に揺らぐ柳と共に黒髪を靡かせ、切れ長の二重の瞼から覗かせる澄んだ瞳は、変わらず女を見据えている。
『…選ばねばなりませぬ。 今宵限りで。 差し応へ…賜りとう御座います』
今紫の羽織の青年は、丁寧に労りを込めて言うが、女からの返答はない。
月夜に佇む青年と女の姿は、時を封じた一枚の大和絵のように、ただずっとその場に在り続けるかに思える。
しかし、青年は女から視線を逸らすと、滑らかに刀の柄に指を添え、此方を瞬時に振り返った――。
「白影…!」
顧見た青年と視線が重なり、碧眼の男は咄嗟に名を呼んだ。
だが白影という名の今紫の羽織の青年も、黒髪の女の姿も、あの美しい庭園の景色に連れ去られたかのように消えてしまった。
碧眼の男の視界には、澄み渡る夜空に満天の星が広がるのみで、その秋空からはまるで星が降るように、落ち葉がはらはらと舞い落ちてくる。
夢だったのかと考えながら、降り注ぐ紅葉をぼんやり眺めていたが、再び眠りに落ちたいという欲求に抗えず、瞳が勝手に瞼を下ろす。
しかし、このままではいけないと、男は襲い来る睡魔を振り払い、上向きに横たわる頭を動かした。
その拍子に、頭部を支えていた落ち葉が崩れ、鼓膜に流れ込んだ葉の音で、漸く己の状況を理解する。
「まったく…。 其奴と共に、朝を迎えるかと思うたわ」
頭上から親しい者に声を掛けられ、男は身を横たえたまま首を上げると、岸壁に突き出た 岩上 に寝転がる犬神の姿を見付ける。
月白の尨毛を月明かりの元で輝かせ、全身から淡い光を放つ犬神は、男の腹部を鼻先で指し示した。
疲労で鉛のように重い身体が、感覚を鈍らせていたのか、指摘されて漸く、冷え切った身体の腹部に仄かに温もりを感じた。
そこには腹へ身を預ける形で、幼い少女が静かに寝息を立てている。
この頭巾を被った少女とは、村を立ち去った際に別れた筈だと記憶を辿っても、夢の情景に塗り潰されてしまったかの様に、蟒蛇へ刀を投じた後の、己の行動を思い返す事がどうしても出来ない。
この様な異体だからこそ、心優しい少女は心配のあまり自分を追って来たのかもしれないと身を起こす事を諦め、少女を目覚めさせぬようそっと頭巾の上から、その小さい頭を撫でた。
©️2025 嵬動新九
※盗作・転載・無断使用厳禁
※コピーペースト・スクリーンショット禁止
※ご観覧以外でのPDF、TXTの利用禁止




