一章 蠱獄 一丁
白色の鞘に指を添えて歩く小柄な男。
親指を鍔に当て、刀身を押し上げる癖を持つが鎺は姿を現さず。 柄頭 に竜の意匠が施された立派な刀は、男の腕に収まっているだけの飾り物に今は過ぎなかった。
その小柄な男の背には、七人程の武装した男達が連れ立って歩き、人里にも関わらず男を護るよう警戒しながら視線を巡らせている。
先導する男の名は、坂田金時。
この日ノ本では御伽草子などで語られ、非常に徳のある金太郎伝説の主役の名を、祖父から賜ったのである。
伝説を知る者にとっては、少々若者の風貌は物足りないだろう。
決して逞しいとは言えない小柄な体躯に、丸みを帯びた目は、少年と誤解する程の年若い印象を見る者に与え。そして赤みがかかった明るい髪色に、屋久杉色の羽織は威厳ではなく幼さを一層際立たせた。
二十の歳となり、疾に元服を終えている童顔のこの男には、刀と身に纏う優れた意匠の具足が無ければ、十数人を率いる大将にはとても見えない。
坂田の目配せで、後続する配下達は各々の判断で四散すると、商いの時分にも関わらず厳重に閉じられた商店の戸を抉じ開け無断で押し入る。
そして坂田自らも、無礼者と己でわかってはいるが、挨拶も御免蒙らずに 油問屋 の戸をゆっくりと開いた。
油が貴重なこの時代において、行灯の熱源に使用する油を鬻ぐ油問屋は裕福な者が多い。坂田がこの店を選んだのは、金をせびるのが目的ではなく、人と関わるこの生業の者なら手広く話を聞けると考えたからであった。
強盗も閑談も、商いの者が居ればの話であるが。
開け放った油屋の内部は、外観を眺めた程度では何処も損壊していない様に思えたが、一部崩落した屋根に奥間は押し潰されている。割れた壺から滴った油は虚しく地面に吸い取られ、人の気配どころか奥に立ち入る事は不可能であった。
鼻に付く胸焼けを起こしそうな油の匂いに顔を顰める坂田だが、大通りから聞こえる暴れ狂う馬の嘶きに、気を取り直すよう深く息を吐くと、凜然と油屋を離れ大通りへ戻った。
坂田が向かった人気の無い閑散とした村の大通りには、一段と馬の嘶きが響き渡り、馬廻り役と思われる男達は猛る黒毛の馬を、必死に宥めようと奮闘している。
「どぅ!どぅ! どうしたというのだ! いい加減ッ、しゃんとせんか!」
「これで三度目か」
油屋から戻ってきた坂田が一声掛けると、馬廻り役は手綱を手繰り寄せながら慌てて坂田へ頭を下げた。
「若!申し訳ありません! 他の馬は落ち着かせたのですが…、若の御馬だけはどうも…。 あの橋にどうしても近付きたがらんようで!」
馬に負けじと懸命に手綱を引く男の髪を、馬は顎と鼻息で乱し、髷を結わぬ男の禿げかかった髪は、あっという間に荒れ野へと変貌を遂げた。
坂田は右腕を伸ばし、自分の美しい黒毛の雄馬を撫でようとするが、愛馬は尻尾を靡かせ上下に首を激しく振り乱し興奮している。鼻息を顔面に吹き掛けられ、威嚇する動物にこれ以上無理に触れては危険が伴う為、坂田は仕方なく腕を引っ込めた。
「鴉玖瑠は聡い故、扱いが難しい。 ――仕方が無い。 手近な外馬屋で休ませろ。 馬守に五、残りは私と来い」
主の言葉に、馬廻り役は安堵の表情を浮かべ、休息の為に午睡をするであろうと容易に想像が出来る面構えだったが、坂田は敢えて何も釘を刺さず、馬廻り役らをその場に残し村の奥へと歩き出した。
夕映えに照らされ、坂田の夕焼け色の髪の明るさが一層増す中。
5人余りの供を連れ、出店が立ち並ぶ街道を、行軍かの如く整然と進む坂田達だが、旅の疲労で足取りは何処か重く。同道の配下達は、長旅の疲れと不安を払うかの様に、己の頬を掌で何度も叩いて己に喝を入れ直している。
そんな従者達の疲労を背で感じながら、坂田は注意深く大通りの商店を一軒一軒見渡した。
©️2025 嵬動新九
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