六章 十七丁 屠毒
刃を打つ鈍い音と、鬼の悲鳴が、延々と井戸の内空を揺らす。
よじ登ろうと御鈴姫は何度も内壁に指を掛けるが、手元は滑り、濡れた身体は水面から上がれずに再び水へ帰るだけだった。
「狛ちゃんお願い !! 上に運んで !!」
「出来るかっ!! こんな幼気な子犬にっ!!」
犬神は御鈴姫の背中にしがみついて怒鳴り、濡れそぼった全身をふるふると震わせる。
自力で這い上がるしか道はなく、もう一度内壁にへばり付いた時、がたりと井戸蓋が動きをみせた。
いつしか炎を帯びた刃音も、腹の底から絞り出した鬼の唸り声も聞こえない。しんと静まり返る気配は、戦いの終わりを告げ、勝利の余韻をゆったりと穴底にまで伝えていた。
光が差し込み、御鈴姫は笑顔で勝者となる者を振り仰ぐ。
「黒桜――」
だが、覆い被さって井戸を覗き込むのは、醜い貌だった。
卑しげに嗤う鬼に恐怖した御鈴姫は、思わず壁から手を離し水に沈みかける。
「…そ…んな……黒桜……っ」
現実が受け入れられず虚脱する少女へ、鬼は待ち遠しそうに手を伸ばす。
しかし、井戸に差し入れた腕は肩でつっかえ、穴の中間にさえ指先が達しなかった。
「くそぉぉ…! 届かねぇーぇぇ!!」
疫鬼は、井桁を握りつぶして悔しがり、憎々しく振り返った。
「折角の馳走をぉお…ッ!! 煩わしい真似しやがってお前ぇぇぇーぇぇッ!!!」
倒れ伏す黒桜丸を睨み付け、相手が気を失っていようが鬼は罵声を浴びせかける。
力尽きる最後まで、膝を折らずに戦おうとしたのか、地に突き立てられた斬瞑天月は頭の側にあり、指先は刃に触れていた。
刀身から虚しく吹き上がる炎が、唇や、睫毛の隙間から流れ出る血の赤をより鮮やかに照らし、地面に接した頬の血溜まりがじわじわと土に染み込み、広がってゆく。
黒桜丸が倒れたのは、丁度、伝七を救い出せた時だった。
果敢に鬼を追い込み、しかし及ばず、地に崩れ落ちた姿は、老人達に我が子の死に様を重なり合わせ、その壮絶な光景を前に、我を保てるものなどいなかった。
小鬼を諦めた疫鬼は、身体中に刻まれた切傷を渋々と摩りながら、黒桜丸へ近寄ってゆく。
「踏みしだいてやろうかぁあ…!! ……――いや、しぶとい奴ほど……美味いからなぁ………!」
黒桜丸の 後襟 を摘まみ上げ、動き出しはしないかと鬼は慎重に手元へ引き寄せる。
「どぉれ、死んだかぁ? やっぱり死肉がいいなぁぁ…!」
「ま、待てッ!!!」
目に涙の膜をはり、 凝然 と固まっていた老人達は正気を取り戻し、黒桜丸を救おうと武器を取った。
山治等は斧を持ち、樋造は装填に手間取った火縄銃を構えるが、強風が吹き付ける所為で 照準 がぶれ、迷いが生じるうちに、黒桜丸は鬼の口元まで運ばれていた。それでも腕に自信のない樋造は、黒桜丸への被弾を怖れて、引き金を引けない。
雄叫びを上げ、決死の形相で打ちかかる村人に、疫鬼は見向きもせず、黒桜丸を頭部から大口に咥え込んだ。
「はぁぁぁ…! 久方の飯――…」
噛み潰そうと口を閉じかけたその前に、鬼は殺気を感じ取った。
©️2025 嵬動新九
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