六章 十六丁 出づる悪鬼
空腹のためか常に喉を鳴らす鬼は、眼を血走らせ、苛々と身体を左右に揺らす。
丸みの帯びた短い一本角を額にもち、獲物を仕留める爪や牙など、獰猛さを引き立てるものはなく、皺の寄ったたるんだ腹回りが、鬼というより痩せ衰えた老人に見せた。
それでいて、捕らえた獲物を平らな顎で圧し砕き、大人すらするりと呑み下せるであろう巨口は怖気を誘う。
危うくその餌食となりかけた御鈴姫は、ひしと黒桜丸の裾にしがみつき、鬼をまともに直視できぬほど怯えきっていた。
見た目に反して鬼の動きは敏速だが、それを上回る剣技を体得している黒桜丸ならば、十二分に渡り合えるだろう。
鬼は、それを身を以て知る筈が、どの角度からも容易に斬り付けられるほど無防備な立ち姿だった。
用心を重ねて刀を構え直した黒桜丸は、不意に、胸から熱い何かが迫り上がり、堪えきれずそれを吐き出した。
――吐いたものは血だった。
思いがけず口を覆った掌が真っ赤に染まり、血は、雨水の如く顎から地面へ滴り落ちる。肺が締め付けられるように苦しく、蹌踉めいた身体を井桁に凭れさせ、黒桜丸は鬼を見た。
鬼の腰に吊り下げられた壺の一つが開いている。
微かに蓋が浮いたその壺からは、青い気体が細く棚引き、空気に溶け込んでゆく。腰の縄に繋ぎ合わせた大小多数の壺を用い、鬼は何者にも気取らせずこの場に毒を潜ませた。
敗北を悟る黒桜丸を、疫鬼は、ねっとりと口角を吊り上げて嘲笑う。
その瞬間――。黒桜丸は、愕然と立ち竦む御鈴姫の 後襟 を引っ掴み、井戸へ投げ捨てた。
「ぐえっ!!」
抱えられていた狛和丸も、巻き添えを食って冷水に叩きつけられ、声を発する。
井戸に満々と張った水嵩が、痛みもなく身体を受け止め、泳げぬ御鈴姫と子犬は必死に水を掻いて、沈み込む身体を浮かび上がらせた。
木材で補強された内壁に掴まり、何とか溺れずに身を保て、仰いだ井戸の口は月ほど遠く思えた。
その四角く切り取られた空には、死人色の顔をした黒桜丸が、蓋を閉じようとする姿があった。
「ま、待ってッ!! 黒桜ーッ!!」
叫び声は封じ込められ、朝ぼらけの淡光を遮られた井戸の中は、暗々と深い闇に満たされた。
井戸蓋に転々と血が垂れ滴る。
黒桜丸は身を起こしきれず、腰掛ける形で井戸へ体重を預けて、込み上げる血を膝へ吐いた。
「う――ッ…げほッ……」
到頭、目から血の筋が伝い、それを拭って、乱れる息を浅く整える。
「小鬼ぃいーッ!! 何しやがんだッお前ぇぇーッ!! うまそーな匂いがするから穴から出てきたってのにぃいいッ!!!」
疫鬼は切歯扼腕し、鰭の付いた尾を叩き付けて暴れ回るが、刀を警戒してか、自分から襲い来ることはない。
「お逃げくださいッ!! 儂等に構わずーッ!!」
家屋の崩壊を防ぐため隙間に柱を噛ませながら、村人達は口々に逃げろと叫ぶ。伝七は、無理に引っ張り出そうとする山治の腕を払い除け、自分を見捨てて、皆で逃げるよう必死に訴えていた。
黒桜丸はその声に耳を貸さず、刀を身体の中心に据えた。
腕の痺れを悟らせず、剣先は鋭く立ち――不抜の覚悟を見た鬼は、大口から唾液の筋を伸ばし、狂喜する。
「うはははぁーッ!! 腹減ったぁあ…!! 久々の侍の肉だぁああ !!!」
闘志を高め、血が流れる両目を閉じ、黒桜丸は鬼に挑み掛った。
©️2025 嵬動新九
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