六章 五丁 虞
ネイが言葉を失っていると、数人の足音がやって来て、稽古場を目にするなり同様の反応を示した。
「こ…、これは……血…ですか… !?」
動揺する八乎を置いて、黒桜丸は険しい面持ちで血染めの床を見渡す。
仲間が身体を害してはと思い、単独での行動を選んだが後を追ってきたようで、八乎は血を見せぬよう御鈴姫を道場から遠ざける。
その時、御鈴姫の腕の中から犬神が飛び出し、ここにはおれん、臭い臭いと喚き散らした末に懐へ潜り込み、ネイの腹部は丸く膨れた。
「八乎さん!」
「はいッ!?」
突然の呼び掛けに驚いた八乎は、びくりと身を跳ねる。
「薬を、買い付けてくれないか? 貴女にしか頼めない」
「え! お使いですか? ええけど――…」
何故自分に頼むのか腑に落ちぬ様子で、黒桜丸の姿をちらちらと見る。
目を離す間に逃がしはしないか不安なのだろうが、この中で最も具合が思わしくない八乎をこの場から引き離すべきである。
「すぐに発ってほしい。 人の命がかかっている」
「なっ!! ほんまですか !? お任せください!」
自分の身体の事をわかっていないらしく、八乎は火が付いた様に気合いを入れる。使命に燃えるその姿は、黒桜丸の事をすっかり忘却していた。
「今、認める」
「はよっ! 急いでっ!」
矢立から筆を取り出して、買い付ける品を書き留めるネイを、八乎は急かし続ける。
道中の村里に、珍しくも薬種問屋を見掛けて立ち寄りたかったが、黒桜丸にその気がなかったので諦めるしかなかった。
ここから二つ隣りとなるその村を目指し、問屋へこの走り書きを渡すよう言い付ければ、八乎は目まぐるしい勢いで道場を去り、鴉玖瑠に跨がって、山道を突っ走って行った。
山に谺する蹄の遠ざかる音を聞きながら、御鈴姫はネイと共に八乎の旅立ちを見送る。その時、人の気配を感じた気がして、御鈴姫は何気なく梅の木に視線を向けた。
「女の子?」
鮮やかな赤に梅文様をあしらった着物が目を引き、その柄を波打たせてゆく少女は、稽古場を離れて雑木林へと歩み、木々の間を縫ってしずしずと山奥へ向かう。
自分と歳の近いその少女が気になって、つい後を追った御鈴姫を、ネイは目端に捉えた。
「御鈴!」
呼び掛けるが御鈴姫には届かず、どんどん木立を通り抜ける。
それを止めたくとも、悪化する咳とひどい頭痛が、足を思うように進ませてくれなかった。
やがて枯れ尽きた木々の残骸が林の終わりを告げ、現れた洞の前で少女は足を止めると、滑らかに首を回した。
下ろした黒髪を片耳にかけた少女は、とても綺麗な容姿をしていた。
だが、その蕾の様なあどけない顔も 憂愁 に損なわれ、此方に縋る眼差しを向けられては、胸が張り裂けそうになる。
少女等が見つめ合うところに、漸くネイが辿り着き、二人が洞へ向き直った時には、少女の姿は何処にもなく。洞窟の両端に、作為的に積み上げられた石に、御鈴姫は導かれたことを悟った。
「……お墓があったんだ…」
墓石と呼んだそれらは二十を超える数があり、かなりの歳月が流れたであろう石の表面は、溶け落ちるように形を失いつつあった。
周囲の木々を枯らし、墓石の風化を速めたのは、紛れもなく洞穴である――、そう確信したネイは悪臭を厭い、手で鼻を覆った。
歪に空いた洞口からは、青錆色の気体が立ち込め、風が一帯にその毒々しい悪臭を広げている。
その気体は自然に生じたものではなく、意図的にこの一帯を汚染し、あらゆる生命を奪うために仕掛けられたものであると、毒の出所を目にした今、それが確証に変わった。
向かい風が吹き付ければ、目と肌に刺すような激痛が襲い。
道場を調べ終えて、此方に合流した黒桜丸も苦しげに顔を顰め、甲で鼻を押さえるほどだった。
「離れよ」
洞窟を睨み付ける二人の背後から、断乎たる声がした。
その気配をまったく察せられなかった黒桜丸は、即座に振り向いて身構える。
©️2025 嵬動新九
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