六章 四丁 虞
少し痒みも伴うその異変を、騒ぎ立てるほどではないと見なし、黒桜丸は奥地へ進んでゆく。
すると、樹林が漸減した場所に一軒の小屋が見えた。
周辺に薪が積まれている事から、斧や鉈などの道具を収納する物置小屋である、そう視認できる距離まで至った時、気を乱した鴉玖瑠が首を大きく仰け反って、手綱を持つネイの身体を後ろへ引っ張った。
「颯…!」
甲高く嘶き、上下する黒馬の首を撫でれば、すぐに落ち着いたが、決して小屋から先には行きたがらない。
それは尤もなことで、小屋に辿り着いた頃には目の痒みが悪化し、その影響は人間だけに及ばぬのか、いつしか辺りには雑草すら茂っていなかった。
根が深い樹木は枯れていないものの、くすんだ痩せ枝がひとりでに手折れて地面に重なり、落葉の時期も相まってかなり衰えてみえた。
「うぅ……なんですか…? 急に、息苦しい……」
目に異常のなかった八乎が、顔を青白くさせて胸を押さえる。
各々が異変に苦しむ中、御鈴姫と犬神は何ともなさそうに、おどおどと三人を気に掛けていた。
ただ事ではない、そう判断し、ネイは手綱を小屋へ繋げる。そして、自身の推察が正しいか、土を摘まみ上げ、擦り合わせた指先を軽く舐めた。
「これは…っ! ――御鈴を頼む!」
突発的に立ち上がり、置き去りにして駆け出した事で、八乎と御鈴姫の裏返った声が山道に響く。
それを背中越しに聞きながら、樹林が切り立つ山路を行けば、想定通り、そう遠くない場所に一軒の家屋が構えられてあった。
木立を分け入るように建てられたその家は、平屋建ての主が稽古場で、それと隣接して住居がある。建物の周囲に塀が設えられていないため、ぽっかりと開放された道場の縁側が、旅人を歓迎しているようだった。
人の往来が盛んな町中にあろうものが、集落すらないこんな森奥に人知れず存在する――。
持ち主は先の小屋と同じであると推測しながら稽古場に近付く途中、庭にぽつんと一本立つ梅に気が惹かれた。
「枯れて……かなり経つ……」
樹幹が痩せ細り、ひっそりと稽古場を見守るように佇む姿が寂しげで、ネイはその幹を撫でた。
枝には、いつの世とも知れぬ蕾が残り、綻びが叶わず枯れ尽きた木は、野草と同様に、この過酷な環境を耐えられなかったのだろう。
往時には、梅が告げる春の訪れを、縁側から遠くの木々と重ねて愉しんだに違いない。
ネイは梅から離れ、込み上げる咳と目の痛みに苦しみながら、稽古場へ向かった。
屋内に誰もいない事はわかっていたが、虚家だと確認できればそれで良かった。しかし、この一帯には、生活の営みが確かにみえる。
外でも素振りが出来るよう広々と整えられた土を踏み締め、縁側へ辿り着き、内部を窺おうと覗き見て足が竦んだ。
「……ッ!!」
床板には、至る所に血が染み付き、横たえた顔の輪郭や手形、死相までも、まざまざと写し取っていた。
その赤黒く変色した血液は、大勢が折り重なって息絶える凄惨な光景を、思わず瞼に浮かばせた。
©️2025 嵬動新九
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