六章 二丁 犬蠱
剣先を揺らめかせ、静に歩み、まさに一太刀を打つ寸前に、何に突き動かされたのか、引き留めるようにネイが割って入る。
『祟り神に憑かれれば、命を落とすぞ』
人心 ある男ならば憐れに思うのも無理はないが、術をもたぬ者が悪霊へ近寄るなど命を惜しまぬ行為だった。
白影はいつでも助けられるよう構えを解かずに、ネイの奇行を見守ることにした。
犬神を刺激せぬよう、そろりと近付いたネイは油揚げを鼻先へ置き、また忍び足で白影の元へ戻る。
今し方、命知らずな行いをしたというのに、巨体を見上げながら、ほくほくと期待に満ちるその横顔は、ある思い違いをしていた。
『違うのだ…これは……、…これは犬じゃ』
狐と思い込み、その出会いを喜んでいるところを、白影は申し訳なさそうに正した。
事なきを得たとはいえ、供え物が却って虎の尾を踏むこととなるか。白影は用心を重ね、犬神の動向を警戒する。
だがその対象は、あられもなく油揚げの前で涎を垂らし、やがて小さく鼻を鳴らすと身体を縮ませる。
飼い犬程度の大きさに落ち着いた犬神は、体毛を煤色から、美しい月白色へ変じさせ、風に靡くふさふさとした毛並みに見取れる二人を二の次にして、がぶりと油揚げに食らい付いた。
嗚咽を発し、涙を幾重にも溢しながら油揚げを平らげる犬神を、ネイはそっと撫でてみた。犬神は嫌がるどころか、物足りないと口舐めずり、革袋を咥えて引っ張ってくる。
ネイが慌てて煎り大豆をあげれば、それもぺろりと呑み込み、さらに期待の目を向けるので、 巾着 の中まで調べ、有りっ丈の食べ物を与えた。
祟り神が憑神へ変じたその光景を、白影は初めこそ驚いていたが、犬神を愛おしむ光景を見守った末、その場を立ち去った。
別れが近いと予め聞かされていたが、今がその訪れとは思いも寄らず、ネイは急いで立ち上がる。
『主ならば、もう世を渡りゆけるだろう。 道連れもいることじゃ』
白影は振り返り、にこやかに足元を指す。
ネイの脛に犬神は身を擦りつけ、全幅の信頼を寄せていた。
『江戸にて見えようぞ。 達者での』
別れを告げ、ひとりで旅立つその背を追いたくなるが、それが叶わぬ代わりに、ネイは口を縺れさせながらも言葉をつくった。
『あ……あき…かげ…! …――あり、がとう!』
うまく伝えられたとは言えないが、拙いなりに精一杯の感謝を込めた。
すると白影は、にっと晴れやかな笑みを残して、別の旅路へと消えた。
白影との短き旅を終え、犬神の加護を得て、ネイはそれからも己の足で国を渡った。
そして、まずは油揚げの発音から言葉を叩き直したのだと、犬神は得意げに語る。
今のこいつがあるのは自分のお陰だ、そう自慢する狛和丸の昔話を、御鈴姫は熱心に聞き入っていた。
「だから狛ちゃん油揚げが好きなんだね!」
自分の腕の中で威張る子犬に、御鈴姫は相槌を打つ。
すれば、狛和丸は上機嫌に頷いた。
「そうそうそう――…ではなくだなッ!! 人間が好かぬゆえ、馴れ馴れしくするなという話だッ!!」
江戸より連れ立って行動する八乎と黒桜丸に牙を剥き、この状況に異議を唱える。
©️2025 嵬動新九
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